2009年12月27日日曜日

Christmas in NY




ニューヨークを舞台にしたクリスマスソングがないかと探してみたところ、なかなか興味深い曲を発見しました。アイリッシュ系ロック・バンド「The Pogues(ポーグス)」が1987年にリリースした、「The Fairytale of New York」(邦題:ニューヨークの夢)。アイルランド民謡をロックテイストにした楽曲とでも言えばよいのでしょうか? アイルランドからの移民カップルが、ニューヨークへ来て夢いっぱいラブラブだったころの歌詞で綴られる1番、時を経て夢破れ罵り合う醜いカップルとなった様子が歌われる2番。人ごととは思えません(笑)。



英語の歌詞と対訳は、すでに色々な方がお書きになっているので、その1つとしてこちらをご覧いただきたいのですが、
http://www.dcns.ne.jp/~hitoshib/Bar-Chandler/pogu.htm
やはり、後半の罵り合いが最高です。私も最初はいい曲だなあとしみじみ聞いていて、

You're a bum
You're a punk
You're an old slut on junk
Lying there almost dead on a drip in that bed

あたりになって、なんじゃこの曲と吹き出してしまいました。このあたりの汚いスラングはビジネスでは使えませんが、実際の生活ではよく聞きますね。

オンナの方が
I could have been someone
Well so could anyone
You took my dreams from me
When I first found you
「俺には明るい未来があったはずなのに。そんなこと誰だって言えるわ
最初に知り会ったときにあなたは私の夢を持って行っちゃったのよ」

と嘆き、それにオトコが
I kept them with me babe
I put them with my own
Can't make it all alone
I've built my dreams around you
「その夢を俺は今でも大事に預かってるよ。自分のと一緒にな
俺は一人では生きられないし、夢だって君がいたから持てたんだ」

とか言うあたりもまた、微笑ましいというか、「オトコはこれだから甘いのよね〜。まったく現実が見えちゃいないんだから」と言いたくなるといいますか(笑)。

ちなみに歌詞にもでてくるNYPDはNew York City Police Department(ニューヨーク市警)の略で、MTA(Metropolitan Transportation Authority :ニューヨークの地下鉄とバスを運営している機関)と同じくらいニュースに頻繁に出てきて、そのままNYPDとして使われます。

"夢破れて山河あり"(本当は国破れて山河ありですよ)、ならぬ夢破れても摩天楼は輝くニューヨークから、クリスマスの光景をお届けします。

遅ればせながら

Merry Christmas!!

2009年12月16日水曜日

深夜のタクシーあれこれ


アメリカ人のタクシー運転手というものを、見たことがありません。いるのかしら? 彼らのほとんどが移民たちです。

彼らとの会話もなかなか楽しいものですが、時には…。
同僚の男性編集者は、深夜に利用したのタクシーの運転手がイタリア人のかなり年配のおばさんだったと言っていました。
「あんた、まだ独身なの? 結婚しないとダメよ」
と説教されながら帰ったそうです。そのまま知人を紹介してもらって、イタリア娘と結婚したら面白かったのに。

1カ月くらい前に私が利用したタクシーの運転手は、モナコ出身と言っていました。私を大いに気に入り、会計時に「君のアクセントはかわいい。電話番号を教えてくれ。近所に住んでいるから今度コーヒーでも飲もう」と誘われ、閉口しましたね。怒らせて急発進でもしてさらわれたらどうしようと、あまり強気でNOと言えず、かるいパニックに陥ったあげく
「Sorry. I have a family.」
と言ってしまい、翌日会社でその話をして同僚たちに失笑されました。「ファミリーって大きくでたもんだね。ボーイフレンドがいるからダメって言えば簡単だったのに」って。そうですよね(笑)。

先日利用したタクシーの運転手は、ガーナ出身だと言っていました。ブロンクス周辺にはガーナ人が多く住んでいるそうです。随分と出版業界に詳しいガーナ人で、色々と仕事の話もしました。
「ガーナかあ。行ったことないなあアフリカは」
と言ったら
「そうかい、じゃあ連れて行ってあげるよ」
オイオイ、またスキを見せてしまったぜと焦り、冗談で返そうと
「タクシーで?」
と言ったところ、大真面目に
「JFK空港から8時間さ。日本はもっと遠いんだろう」
って。深夜の妄想はどんどん膨らみ、このままJFK空港へ連れて行かれ、そこに人買いの組織が彼を待っており、ガーナへ売り飛ばされるんだわ。わたし。と真剣に悩みました。まあ、そんなことは起きなかったので、いまこうして書けるわけです。

写真はロックフェラーセンターのクリスマスツリーです。雨の日に撮ったので冴えませんなあ。

2009年12月7日月曜日

傘とゲイとの関係

この土日は久しぶりに完全に休みを取ることができました。締切が迫るのに、なかなか記事をまとめることができず苦しい数週間でした。3ページに渡る巻頭特集。数週間おきに担当が回ってきて、リサーチ、構成、取材、執筆、校正の全てを一手に引き受けるのですが、軸になる「何をどう伝えたいのか」という部分が固まらずブレ続け、そんなものに価値が果たしてあるのか、という自問自答に悩まされ、眠れず、書けず、責任の重さに潰されそうになりながら、まあなんとか発行にこぎ着けることができました。

出来上がった紙面とそれを読むであろう人々の反応を想像しながら、「やればできるじゃん」という安堵と、この恐怖がまたすぐ襲ってくるのだという、無限地獄に気が遠くなりそうになりながら、力が抜け、風邪を引きました。やれやれ。昨日はみぞれまじりの雪も降り、ニューヨークも一気に冷え込んできましたからねえ。

Responsibility means accepting the consequences of your actions.
辞書で見つけたこの例文が頭を離れません。
「責任とは、自分の行動の結果を受け入れることだ」

さて話は変わりますが、先日編集部の同僚と話をしていた時のことです。彼はニューヨーク州の北の方にある(彼いわく”北国”)の大学で、ジャーナリズムを専攻していたのですが、そこでは雨が降ろうと雪が降ろうと傘をささなかったそうです。なぜなら、傘をさしていると”ゲイ”呼ばわれされ、バカにされるから。これには編集部中が「えっ?」となりました。想像するに、随分と田舎の閉鎖的な社会だったのようですが、傘をさす=都会の洗練された人=ゲイ、という極めて単純な思考がそこにはあったようです。彼はニューヨークへ来て、男性が普通に傘をさして街を歩いていることが新鮮に映ったそうです。

私はフィラデルフィアからニューヨークへと、アメリカは大都会にしか住んだことがありません。どちらもゲイコミュニティーがしっかりしており、むしろ誇りをもってゲイであることを主張して生きていける環境ですが、まだまだちょっと田舎へ行くと、こういった差別的な意識が強いのだなと改めて感じました。

それにしても傘もさせないなんて…。キリスト教の思想が根底に流れるアメリカで、さらに田舎へ行けば行くほど敬虔な信者も多く、それゆえ子孫繁栄に全く貢献しないゲイであるということは、許し難いようです。また生理的な嫌悪感も想像を絶するほど強く、悪口や、罵り合いなどで「あいつはゲイだ」とか「お前、ゲイなんじゃないの」というような表現は耳にしますね。言われると相当カチンとくるみたいですし。「あの人ちょっとアレね」なんて、片手の指をそらして頬の前にかざし、オカマポーズで表現する日本って、なんて奥ゆかしいのかしらと思ってしまいます。(その分陰湿だという話もありますが)

一芸に秀でている人が多いのか、あるいはそういった環境が一番仕事がしやすいのか、ビューティー関係や、ダンス、演劇関係者にゲイの人は多いですね。そして、こざっぱりとしていておしゃれで、豊かな感性を持った人が多い。ゲイの友人がもっと欲しいです。一番いいのが、ゲイとなら恋愛沙汰に巻き込まれないこと(笑)。友人として楽しくつきあえる異性を探すというのは、実に難しい。ニューヨークでは特に、誰もがテンポラリーな恋人を探して、ガツガツしているので、楽しくつきあえて、しかも安全な男性の友人を見つけるのは至難の業です。

最近よく思うのですが、ほとんどのアメリカ人にとって、日本人の若い男性はゲイに見えるんだろうなあって。ひょろっとしていて、眉や髪や爪をいじって、女の子みたいな格好をして、さらに性欲も薄いときたら…。

2009年11月16日月曜日

NYの金閣寺



自分が担当する巻頭特集がなんとか無事終わった、のですがすぐにまた次の特集の準備にとりかからねばなりません。発行された掲載紙を見ても、満足感や達成感を覚える心の余裕すらありません。

次に担当する特集は、前回と全く毛色が違い、リサーチ方法も”自分の足でニューヨークを歩いて探せ”とのこと。「靴の底がすり減るまで歩いて探して下さい」「マンハッタンなんて、山手線の内側くらいの面積だから大したことないわよ」と先輩編集者に言われ、徹夜続きでフラフラの体にむち打って、土日はかかとが痛くなるまで歩き回りました。

小雨の降る土曜日の午後。傘をさしたら視界がさえぎられるかもと思い、あえてパーカーのフードを被っただけで回ったのは、南北で言うとブルーミングデールズのある60丁目からロックフェラーセンターのある48丁目まで、東西で言うとレキシントンアベニューからセントラル・パークの西の端の8番街まで。日曜日の午後回ったのは、グリニッジビレッジとウェストビレッジの周辺。デジカメをメモ帳代わりにこれぞと思う風景を撮ったら同時に、クロスストリートの表示を探して撮り、家で地図とにらめっこ。土地勘もない上に相当の方向音痴と来ているので、想像以上に時間がかかった割には収穫は今イチ。自己嫌悪に陥る暇もなく、締切がちらつきます。

そんな中、ちょっと素敵な報告を。5番街のティファニーのウィンドウディスプレイをのぞき込んだ時。日本の金閣寺他、寺院などトラディッショナルな風景写真をバックに、宝石が展示されていたのです。ドキッとすると共に、鋭く粋な感性をそこに見ました。こういったディスプレイ1つで店内に足を踏み入れたくなるか否か決まりますから、そこには多くの試行錯誤とその道のプロの計算し尽くされたバランス感覚があるのでしょう。いつかそういった人をインタビューしてみたいなあと心から思いました。

毎年恒例のロックフェラーセンターのクリスマスツリーの点灯式は、今年は12月2日の水曜日だそうです。正面にあるデパートメントストアー、サックスフィフスアベニューも、ビル外壁のイルミネーションの取り付け作業は完了していましたが、点灯はまだのようでした。サンクスギビングデーが終わるまで、アメリカ人の気分はターキーモード一色だそうです(笑)。ロックフェラーセンターのアイススケート場はすでに公開されていました。これからニューヨークは観光シーズンなのでしょうね。

でも個人的には六本木のけやき坂あたりのイルミネーションの方が、絶対気合いが入っていて綺麗だと思いますよ。発光ダイオードの青色のイルミネーションと、むやみやたらに”恋人と過ごせ”と煽る日本のクリスマスがちょっと懐かしいこのごろです。

2009年11月11日水曜日

こんな夜更けに納豆かよ in NY

仕事になんとか区切りがついたのは午前1時。さすがにオフィスには私1人しか残っていなかった。明日の校了にこれでなんとか間に合いそう、とはいえ油断は禁物。もうこれで大丈夫、と気を抜くと印刷所に回したあと、しまったーとミスに気がつくことになるから。一行ショートだったとか、常用漢字以外を使用したとか。この辺りのルールは厳しいので。

深夜0時を過ぎたらタクシーでの帰宅が許されているので、今夜は堂々と会社前で拾った。ニューヨークの街は、車の7割がイエローキャブなんじゃないかというくらい走っているので、つかまえるのはたやすい。下手に12時ちょっと前に退社して、24時間営業とはうたいながらも、めったに来ない地下鉄を待つより、タクシーで帰った方が早かったりして。

ただ私はタクシーとは相性が悪く、前回はバッグから滑り落ちた携帯電話を置き忘れ、今日は車を下りようとした瞬間にまた、買ったばかりの携帯電話がジャケットのポケットから地面に落下。衝撃でカバーが外れバッテリーがとびだしてしまった。部屋で元通りに組み立てたものの全く電源が入らない。ただいま充電中だが、どのボタンを押しても反応しないのが恐ろしい。充電が終わったら元に戻るのだろうか?ダメならまた、ベライゾンの支店に行かないと。

マンハッタンのオフィスからクイーンズの自宅まで、タクシー代は20ドルちょっと。経費に計上するためレシートを提出しないとといけないのだが、前回はもらったレシートをなくし、その前はもらい忘れた。やれやれ。Such a silly girl.

マンハッタンとはマンハッタン島という島である。クイーンズはロングアイランド島の西端に位置する。島から島へ。毎日移動しているわけだ。タクシーに乗り、会社のあるイーストビレッジからパークアベニューを北上し、59番ストリートを右折すると、クイーンズボロ橋に出る。橋を渡りながら振り返って見えるマンハッタンの夜景は絶景だ。エンパイアステイトビルも、クライスラービルもよく見える。24時間のうち、たった数分間の優越感。私はニューヨークでバリバリ働くキャリアウーマンだぞーってね。

ちなみに、ニューヨークにはバリバリに働くキャリアウーマンなんて、掃いて捨てるほどいるし、そのほとんどが私より優秀なんだろうけど、まあ、とうとう失業率10%を上回ってしまったアメリカで、仕事があるだけ良いか、と思いつつ冷蔵庫を開けたら納豆しか残っておらず、ねばねば糸をひいている、雅子なのでした。

2009年11月1日日曜日

ブルックリンの秋





ブルックリン初上陸の日でした。
1カ月前まで、ブルックリンとブロンクスの違いも分からなかったのに、いまや取材で飛び回る日々です。

Kingston 駅でおりました。おりてビックリしたことが二つ。
帽子を被ったユダヤ教徒の多さ。こんな昼間から何をしているのがよく分かりませんが、いい年をした大人達がのんびりとベンチで話し込んだり、何か宗教的な建物にぞくぞくと集結していく風景に遭遇しました。

もう1つのビックリは紅葉の美しさ。マンハッタンのオフィスとクイーンズの自宅を行き来しているだけでは、見えなかった穏やかな住宅地の秋の風景がそこにはありました。駅のまわりに、スターバックスすらなく、空腹を抱えたまま4時近くまで取材は続きましたが、でも本当に来て良かった。

違う時間の流れに身を置くというのは、良いことですね。
世界が私を中心に回っているわけではないという、当たり前かつ、有り難い現実に引き戻されるわけですから。私を中心にというのは、私の喜びも悲しみもという意味です。私の辛さや悲しみなんて、世間一般にはなんの価値もない。古着屋だって買ってくれない。だから肩をすくめて耐える訳ですが、そこまで意識的に絶えずとも、力がぬけ、ふっと楽になれる時というのがあります。いい風景を見た時、もっと頑張っている人をみたとき、そして自分がとても卑小な存在に見えた時です。

2009年10月27日火曜日

E列車午前0時半

ニューヨークの地下鉄はクレイジーだ。
本格的に寒くなる前の集中工事とはいえ、ダイヤだけでなく、その路線を走る電車を突然変えたり、前触れもなく各駅停車から急行にしたり、さらにマンハッタンのど真ん中で終点にしてしまい、車内放送を聞き漏らした客を乗せ、もと来た方向へ戻って行くのには、本当に、本当に、怒りを通り越して卒倒しそうになる。

今夜もいつも利用するR列車はとうに終わっているので、6番列車で51番駅まで行き、長い地下道を歩いて53番駅でクイーンズ方面行きのE列車に乗り、帰宅する予定だった。これまた地獄まで行くのではという、長いエスカレーターを降りて目にしたものは、クイーンズ方面行きのプラットホームに張られたロープ。小さな張り紙によると、工事のためE列車はこの駅には止まらない。クイーンズ方面へ行きたい人は、マンハッタン方向に2駅、ロックフェラーセンターまで戻り、そこで逆方向行きに乗り換えろとのこと。

横を「今から仕事だぜい。ヘイ、元気かい」と、深夜の工事に取りかかる黒人の肉体労働者たちが、口笛を吹き吹きハイファイブをしながら通り過ぎていく。

もう諦めてタクシーに乗ろうかとも思ったが、財布には5ドルしかない。これでは強盗に襲われても、襲った方が哀れというものだ。 同じ罠にかかったと思われる客達が、「shit」とつぶやくのが聞こえる。そりゃ言いたくもなるわ。待つこと10分強。ようやく逆方向の電車が現れた。

さらにようやく、正規の方向のE列車に乗り腰を下ろし、深いため息をついて顔をあげると、正面に座ったインド人の少年がつぶらな瞳で私を見つめていた。そして小さな声で言った。

「Hi」

午前0時半。いったいこんな時間になぜ、こんなに年端もいかない子どもが地下鉄に乗っているのだろう。彼は、半開きの口から見える乱杭歯が汚い、貧しそうな父親と、でっぷりとした肉体を真っ赤なカーディガンで包んだ疲労感の漂う面持ちの母親、そして乳母車でぐずる乳児と一緒だった。母親の同じく真っ赤なマフラーについたボンボンを握りしめ、床につかない足をブラブラさせながら、彼1人キラキラとした瞳で真っすぐ前を見つめていた。それは、家族が背負う重苦しい雰囲気と全く交差しない、夜空に1つだけまたたく星のような美しさだった。仕事中ずっとにらめっこをしていた、子ども服の作り方の本に登場する、媚びた笑みの子どもモデルたちが温室育ちの花だとしたら、彼は月の光をうけて輝く野生の百合のようだった。

お互い目をそらすことができなくなり、時がとまったように見つめ合い、そして彼はもう一回言った。
「Hi」
私も聞こえるか聞こえないかの、小さな声で返した。
「Hi」
きっと私たちは恋に落ちたのだと思う。陳腐で、アホらしい表現かもしれないが、でもそこには確かに言葉にならない胸のうずきが沸き起こり、全身を支配して官能にまで導いたのだ。

列車が最寄り駅に止まり、降りなくてはいけないのが辛かった。もっと見つめていたかった。君を。立ち上がった私を見て、彼は礼儀正しく別れを告げてくれた。

「Bye」

2009年10月19日月曜日

Aさんの漬け物


今夜の最低気温37℉。摂氏に直すと3℃ちょっと。
寒い…。今年のニューヨークの冬は例年になく寒いらしい。秋を楽しむ間もなく、真冬に一気に突入しそうな気配。さらにここ数日、冷たい雨が降り続いている。

1階の住人Aさんとスモーカー同士、玄関先で震えながら会話。大都会の危険と、人の冷たさと孤独について、色々と話してくれた。彼女自身マンハッタンに住んでいる時に、ホールドアップでバッグを盗られた経験も、信用していた人にだまされた経験もある。東京と似て大都会ニューヨークで暮らす人は、常に警戒心から解放されないため、なかなか心を開かない、開けなくなっているのだという。逆に最初からニコニコと近づいてくる人は、警戒した方がいい。下心あってのことが多いから。「でもね」と彼女は続けた。

「私は人への希望を捨ててはいないんですよ」

啖呵を切って仕事を辞め、雨の夜、この先どうしようと途方にくれながら軒下で雨宿りをしていた時、通りすがりの見知らぬアミーゴが振り返り様に声をかけてくれたのだと。

「Don't think too much!」

「ほんとそれだけでね、その後会うこともない人でしたが、でもそこに私は神を見たんですよ。一瞬でしたけど、ぱああっと一気に気持ちが楽になって。私も単純だから…」

またたく煙草の火から、ぬくもりが全身に伝わってくるように感じた。そう、そういうささやかなエピソードに時々救われながら、都会に漂流した難民たちは生きぬいていくのだ。

約束した雑誌を渡すため、部屋に一旦戻ってから、彼女の待つ階下に行くと、スターバックスのプラスチックカップに入れた、自家製の漬け物を持ってきてくれていた。拍子切りにしたニンジンと薄切りタマネギを、鰹節と醤油で合えたシンプルな漬け物。

「こう手でつまんで、ポリポリかじってちょうだい」

それは胸が痛くなるほど、優しい味がした。

2009年10月9日金曜日

悲しみよさようなら

忙しい。猛烈に。
特集企画を考え、綿密なリサーチをし、取材のアポを入れ、外部ライターを回し、自分でも慣れない一眼レフを持って取材をし、原稿を書き、いくつも抱えた担当コーナーから常に新鮮な情報を発信し、信じられないくらい文字数オーバーして入稿される記名記事に外科手術を施し、校正作業やファクツチェックをし、紙面のレイアウトを引き、製作と相談し構成を考え…。
どんなに深夜遅くなっても、編集の仕事は終わらず、容赦なく締切はやってくる。

楽しい。猛烈に。
フィラデルフィアでの約2年は、アメリカに慣れるための準備期間と、疲弊した東京での生活からエスケープする長期休養だったのだと思う。充電期間は終わり機は熟した。今はチャレンジの時。ハードルが高いほど燃える。NYに来て1カ月足らずで、精悍な顔つきになってきた気がする。そう私の顔は変化が早い。数年前の写真を見ると、別人のよう。

NY在住の日本人は約6万人と聞いている。小さな世界だ。誰もが、もがき苦しみ、幸せも悲しみも抱えながら、前に進んでいる。というのを肌で感じる。読者が見える、そこに登場することがステータスになる。メイクアップアーティストも、弁護士も、起業家も、レストラン経営者も、医者も、ダンサーも、料理研究家も、ボランティア活動にいそしむ主婦も。たかがフリーの情報誌といえど、その内容の濃さと読者からの期待値の高さに、雑誌本来の姿を見る。「記事を読んだ人に、アクションを起こさせるのが目的」をいうコンセプトに、「面白くなければ広告は入らないが、クライアントのちょうちん記事は絶対に書かない」という方針に、1つ1つ賛同できる。

底を流れるやさしさがそこにはある。異国の地でともに生きているという連帯感が、私たちを支えている。ナショナリズムでもなんでもなく、必死に生きているというリアリティが。

そう、悲しみが去るのは驚くほど早かった。この世はあまりにも楽しいことが一杯で、悲しんでいる時間がもったいない!

2009年10月6日火曜日

悲しみよこんにちは

失う危機には常にさらされてたけれど
きっと何とかなるはずだと思考を意識的に止めていた
そこに愛がある限り
重ねるカラダと、口をついて出る甘い言葉で
全てが解決できると信じていた
こんなにも、時間と距離と年齢というものが深く重く
ボディーブローのように効いてくるとは
その昔はね、
そんなもの何でもなかったの
盲目の恋に溺れるのはいつものことだけど
私が微笑めば、世界が笑ってくれた
いてくれるだけでいいと、存在を愛でてくれる人の眼差しの中で生きていた
いつから終わりある人生のある一部を今生きているという切なさに
そしてそれが愛する人の人生の一部でもあるという現実に
苦しめられるようになったのだろう
マンハッタンの上にぽっかり浮かぶ満月を見て泣き
深夜の地下鉄に貼ってあった、グッゲンハイム美術館のカンディンスキー展のポスターを見て
またそれが悲しみに憂う月に見えて泣け
涙が枯れた頃に、地下鉄のダイヤが週末は違い
最寄り駅を飛ばして、ビュンビュンと遥か遠くの駅まで来てやっと止まったことに気がつき
こんなに悲しくとも、歩く元気はあるのだわと
以外にタフな自分に呆れながら
帰ってきたのは12時過ぎ

2009年9月30日水曜日

常にそこにある恐怖

ニューヨーク生活4年以上という同僚に、今までに怖い目にあったことがあるかと聞いところ、2年前のクリスマスイブの深夜、プレゼントの山を抱えて帰宅中、いつもは使わない暗い路地を通って近道をしようとしたら、ヒスパニック系の男女二人組に襲われ、銃を突きつけられ身ぐるみはがされた経験があるとのこと。家の鍵まで持っていかれ、部屋にもなかなか入れなかった。クレジットカードはなんとか止めたとのこと。

「ほんと、ホールドアップで何もできませんでしたよ。まあ、私が悪いんですけどね。ニューヨーク生活に慣れてきた頃で危機感も薄れてたし。クリスマスの荷物を抱えた日本人の女性なんて、金持っていそうだし、狙ってくれって言っているようなもんじゃないですか」

と淡々と言うが、背筋が凍った。私も仕事柄連日深夜の帰宅。24時間営業の地下鉄は閑散とし、暗く不気味な空気が漂っている。電車の発着間隔も空くため、駅でぽつんと一人20分以上待ったこともある。英語の勉強のために電車の中で聞いていたiPodも、帰り道では使用を控えることにした。音に気をとられ、背後から忍び寄る悪漢に気がつかなくなるから。もちろん電車でうたた寝なんてもってのほか。

「もし深夜タクシーで帰宅したら、運転手に家に入るまで見ていてくれって頼んだ方がいいですよ。タクシーで家の前まできたところと待ち伏せして、鍵を開けている時に襲い、そのまま家に押し入られてレイプされる事件けっこうあったんですよ。一時期日本人女性がよく狙われてね。駅が近いからいいと思っても、逆に電車の音でかき消され、叫んでも聞こえないから。知っているんですよ狙うやつは。そういうことも」

フィラデルフィアにいた時も、もちろん地域によっては毎日銃声が響いているところもあるらしいが、こうも身に迫る恐怖というのは感じたことがなかった。友人も多く、よく大人数で遊んでいたからかもしれない。ニューヨークで一人暮らしを始めることになり、アパートメントは安全性を第一に考え選んだつもりだった。治安もさほど悪くないし、駅からもすぐだし、ルームメイトは全員日本人女性だし、大家も同じフロアに住んでいるし。だが先ほど帰宅時に玄関先で会った大家に再度、この地域の治安を聞きただしてしまった。

「大丈夫。ここに20年間住んでいるけど、なにも事件なんかなかったよ。危険は路上だけじゃなく、家の中でも起きるんだ。だからうちは誰も招いてはいけないという厳しいルールにしているし、防犯カメラも二台設置して毎日監視しているんだ。だからこっそり友達を連れ込もうとした人にもすぐ注意できたし、今誰が家にいるかも、出勤したのかも分かるんだ。あんたが出勤していくのも見ているよ。いまあんたの階に住んでいる女性のうち二人は日本に帰国しているんだけど、それも全部カメラでチェック済みさ」

と、それはそれで、プライバシーもなにもあったもんじゃないと、ちょっとムカっときたが、まだ引越して1カ月。安全はお金で買うものねと改めて思った次第である。いざという時に頼りになる友人もほとんどいないし…。

マンハッタンの中心部は深夜でもネオンが煌めき、人の絶えることない不夜城だが、クイーンズやブルックリンは少し奥地へ入ると、あるいは数ブロック違うと一気に様相を変える。そして困った時にすぐに声をかけて来てくれる知人がいない。「パーティーもできなければ、友達も呼べないなんて監獄生活みたい」と友人たちは私のアパートメントを笑うが、私はこれでまあよかったのではないかと思っている。

仕事を早く習得せねば、英語ももっと使えるようにならねば、もっと本を読んで賢くならねば、そして自分の身は自分で守らねば。極度の緊張感の中暮らすと、不思議と睡眠時間が短くとも、食生活が不規則でも体調は壊れず、仕事中眠くもならない。夜3時過ぎに眠りに落ちても、朝目覚まし前に目が開いたりする。ぐったりと疲れることもできない。疲れてぼおっとすると注意力が散漫になり、危険だと体が知っているのかもしれない。

2009年9月28日月曜日

ストーンパワー

初めてニューヨークを訪れたのは2003年。一週間の夏休みを利用しての観光旅行だった。自由の女神、MOMA、エンパイアステイトビル、セントラルパーク等を巡り、今宵はブロードウェイでミュージカル、とうきうきしていたら、例の東海岸からカナダまでを襲った大停電にやられた。信号も、地下鉄も、エレベーターも電気系統は全てダウン。街は真っ暗に。テロとの噂に震え上がり、全く通じない英語に焦りを感じ、キャンドルの光で夜を過ごし、予定より一日遅れて、ANAの臨時便でなんとか帰国。

旅の途中、ソーホーへも足を運んだ。軒を連ねる斬新なデザインのブティックに気圧され、入るのも戸惑いウィンドーショッピングをしていた時、一軒のジュエリーショップに吸い込まれるように足を踏み入れた。ディープパープルのアメジストが埋め込まれた、少しごつめの指輪に一目惚れをして購入。以後、右手の中指に毎日つけている。そのころから痩せたせいか、緩くなりグラグラしているが、お守りのようにつけている。

この週末、日本から友人が遊びに来た。いや正確に言うと「日本で知り合った友達が行くからニューヨークを案内してあげて」と、アメリカ人の友人に言われ会うことになった女性。彼女が滞在したホステルの前で会ったのが初対面。すぐに打ち解け、この2日間みっちり共に過ごした。アメリカは初めてという彼女だが、ニュージーランドとオーストラリアに留学経験があり英語は問題なし。海外旅行も慣れていて、逆にガイドを片手に私を引っ張って行ってくれたほど。9月からニューヨークで仕事を始めたものの、遊ぶ暇が全くなかった私にとって、2回目の観光となった。

57番通りの「ジョーズ上海」で小龍包に舌鼓を打った後、グラウンドゼロまでひたすら歩いた。互いの人生、仕事、悩みまで全て話し尽くしたころ、ソーホーにたどり着いた。そしてあのジュエリーショップを見つけたのである。記憶が堰を切ったように溢れ出す。全てがあの日のままだった。店員に「6年前にここで購入したのよ」と指輪を見せると、大喜び。石は違ったが、同じデザインの指輪をまだ扱っていた。指輪が私を再びニューヨークに呼び寄せてくれたのだと、思った。

彼女は十字をかたどった繊細な淡い緑のネックレスに心を奪われた。こんな高額なジュエリーなんか買ったことがないわと、そわそわしながら、狂おしいまでに見開いた瞳は真剣そのもの。美しかった。宝石を選ぶ瞬間の女性はこんなに美しいのかと、同性ながら惚れそうになった。白い肌をバックに石はケースの中より輝きを増し、鏡の中の瞳には決意がみなぎる。

「買うわ。着けた瞬間にものすごいパワーを感じたの」

深夜のフライトで帰国する彼女と、ハグをして別れたのは午後9時。「楽しかった。また来たいなあ」とつぶやく彼女。胸で十字がウインクしていた。大丈夫。きっと彼女もまたこの地に来ることになる。石が呼び寄せてくれるはずだもの。

2009年9月21日月曜日

フジコ・ヘミングというアイドル













恐ろしく冷房の効いたホールで、鏡獅子を彷彿とさせる、モシャモシャ頭に奇抜な色彩とデザインの服を纏った老女が、風邪気味で薬を大量に摂取していると言い訳をしながら、鼻をかみかみ(さらに鼻紙をステージに落とし、蹴飛ばして隠そうと試みていた)披露する、非常に不安定でミスタッチの多い、独特のこぶしを効かせたショパンやリストを鑑賞した。観客9割が日本人で、その演奏の善し悪しとは何ら関係なく、そこに彼女がいるということに深い感動を覚えているようだった。

というのが、正直な感想だった。先週金曜日の18日夜、リンカーンセンターのアリス・タリー・ホールで開催された、フジコ・へミングのピアノリサイタル。『ラ・カンパネッラ』が大ヒットし、またその数奇で苦悩に満ちた半生に、多くの人が胸を打たれた。というのは有名すぎる話。でもたぶん日本人の間で有名というだけなのだろう。

「黒山の人だかり」とは、日本人の髪が黒いから使える表現なのだということを、初めて実感した。ホールを埋め尽くしたニューヨーク在住の日本人、数百人。ロビーでも日本語しか聞こえない。

ドビュッシーの『ベルガマスク組曲』、ベートーベンの『テンペスト』、ショパンの『夜想曲第1番変ロ短調作品9−1』、『黒鍵のエチュード』『別れの曲』、バッハの『主よ、人の望みの喜びよ』、リストの『ため息』など、超がつくほどメジャーな楽曲の数々。身を乗り出して聞けない自分に気がつく。音に乗って、辛さが伝わってきてしまうのだ。体調が優れない中、無理して弾いているんだなあ、と。

そしてお待ちかねの『ラ・カンバネッラ』。ここでフジコは踏ん張った! 全神経を集中させ、床の鼻紙など気にならなくなるほどの、ぐいっと引き付ける芯の通ったパフォーマンスを見せた。満ち潮のように広がるスタンディングオベーション。花束や手紙を持って駆け寄るファン。涙ぐむ人も。

マイクを持って挨拶する彼女。最初は日本語で、次に英語で話し始めたが、途中からドイツ語に変わってしまい、英語はあまり得意ではないとみた。アンコールに『亡き王女のためのパヴァーヌ』ともう一曲弾いて終了。再びスタンディングオベーション。そして楽屋に走るファンたち。CD売場にも列が。

フジコ・ヘミングはピアニストというより、「アイドル」なのだと思えば全てが納得のいくショーであった。風邪を引いていても来てくれた。渾身の力を振り絞り最後まで頑張ってくれた。異国の地で生きる我々NY在住の日本人に、勇気を与えてくれた。有難うフジコ。あなたがそこにいるというだけで、私は幸せです。

ただそれは多くのアイドルと同じく、あまりにもひいき目に見ないといけない演奏内容であったことは否定できない。世界のクラシックファンを魅了する、綺羅星のごとく輝く名ピアニストたちと、比較する対象ではないということが、私は残念だった。通の方々はとうに知っていたことなのだろうが。

帰りの地下鉄の駅で、楽しげにサックスを吹いていたお兄さんの方がずっとよかった。ゴウッという電車が到着する音にかき消されてしまっていたが。

2009年9月14日月曜日

コインランドリーにて



小さい方が1.5ドルなのは分かった。大きい方は値段が書いていない。果たしてどちらを使うべきか。

2週間分の洗濯物とバスタオル類を抱えて途方に暮れる。初めてではないが、いまいち使い方が分からない。そんなことも知らずに、よくまあ一人暮らしを始めたものだと呆れながら、説明書きを数回読んでみる。だいたいのところは理解できたものの自信がない。

日曜日の午後8時過ぎ。コインランドリーはヒスパクニック系の隣人でごったがえしていた。まわりを見て一番優しそうな若者に声をかける。

「使い方がよく分からないの」
「大きい方は3ドル。でもその量なら小さい方でオーケーだよ。ここにコインを入れて、洗剤はこの注ぎ口から2回に分けていれるのさ。クウォーターしか使えないんだ。ああ、ドアはもっとちゃんと閉めないと」

と横に来て丁寧に教えてくれた。

何人分の、そして何日分の洗濯物だろう? 一番大きな4ドルの洗濯機2つと、小さい方1つまでも使って次々と服、タオル、シーツ、そして枕まで放り込んでいく、太り肉の女性を見つめる。ドレッドヘアに安物のピアスとネックレスを着けた、むっちりとした子供たちがまわりを跳ね回ったり、クウォーターを手のひらに隠しておどけたりして、母親をいらつかせている。洗剤の匂いが溢れ、通り一帯を生暖かく浸していく。生活の匂いは落ち着く。生きている人を見るのも、知らない言語と笑い声が満ちた空間に身を置くのもいいものだ。

パイプ椅子に腰を下ろし、ジュンパ・ラヒリの『停電の夜に』を開く。既に内部崩壊を起こし、見ないフリを決め込んで現状維持をしていた関係が、停電とろうそくの光によってもたらされた一瞬の偽りの安らぎののち、言葉の棘によって激しく砕け散っていく。「何故」という疑問が浮かぶ余地のない辛さ。それは、そうなるしかなかったから。というのは経験者だから分かる悲しみ。この作者は何を見て生きてきたのだろう。秀逸で緻密な文体と、根底を流れる温かい柔らかさが、染みた。染みて肉体を超えて夜空に広がり、風景までも変えていく。

終わりがくるのは見えていたのに。逆にどうして続けることができてしまうのだろう。人というものは。既得権益にまみれ腐敗した経済はどこかで終焉を迎える。痛みを伴う改革は、本当に痛い。

次の作品が読めなくなり、ひたすら、ぐるぐると回る、洗濯物と乾燥機とシーリングファンを見つめる。ぐるぐる。ぐるぐる。私の人生はどこかで終わる。終わるから、いいのかもしれない。誰も私の事を口にしなくなるというのは、最大の救いなのではないか? 

乾燥機の値段は1クウォーター。出てきた洗濯物はまだ湿っていた。


写真は9/10の夜、退社時に見たワールドトレードセンター跡地にそびえ立つ2本の光の柱。

ここは日本なのか、アメリカなのか

我が社はお昼時になると、『フジケータリングサービス』の背の高い兄ちゃんが「弁当でーす」と売りにくる。日替わりでメニューで何種類か用意され、献立表も事前に配布されたり、ネットで見る事ができる。「豚の生姜焼き弁当」、「根菜入りハンバーグ」、「うな重弁当(けんちん汁つき)」、「北海道風みそバターラーメン」等々、なかなか凝っている。前もって注文する人もいるが、毎回少し多めに持ってきてくれるので、「今日は何が余っていますか?」と聞いて買う人も。他にも何カ所か回っているようで、雨の日には外出を控える人が多いため、余り分がない場合もある。昼休みは無いに等しい状況なので、この弁当屋タイムだけが、ピリピリしたムードがほっと和らぐ瞬間だ。6ドルから7ドルと値段も手頃。生活が不規則な編集部員たちは、ここで栄養補給をしている。

木曜日か金曜日になると「ビデオ屋さん」が現れる。宮藤官九郎をさらに不健康にした感じの兄ちゃんが、日本で放映されているドラマやお笑い番組、そしてアダルトものまで、DVDに焼いたものを売りにくる。メールで次回の注文票が届くので、こちらも事前注文する人が多い。やはりというか、お笑い番組が人気のようだ。1枚4ドル、3枚買うと1枚おまけとか、そんな値段設定だったような。私はたぶん今後も買わない。

営業部から「得意先から差し入れがありましたので給湯室に置いておきます。各自取って下さい」との一斉メールが。マルちゃんの「赤いきつね」と「緑のたぬき」に、伊藤園のお茶の缶だった。フィラデルフィアで働いていた時は、同様のメールでも山盛りのベーグルだったのに。

まだ入社して一週間ちょっとだが、どっぷりと日本社会に浸かってしまっている。約20人の社員は全員日本人。1人、2人インターンらしきアメリカ人もいるが、器用に「お疲れさまです」と言って帰っていく。こりゃ日本語しか使わないだろうと思っていたら、電話ではみなさん、営業から取材のアポ入れまで流暢な英語で対応しているではないか。考えてみれば、こちらの大学か大学院、少なくとも語学学校くらいは出ている人が就職する会社。

「あのお、決して私英語がペラペラというわけではないのですが…」
と近所の『牛角』で開催してくれた歓迎会で漏らしたところ(だいたい歓迎会があるという時点で、非常に日本的)
「えっ、話せるものと思って採用していますから」
とさらりと社長に返されてしまった。

ああああああああああああああああああうううううううう

そうですよね……


どうあがいても語学学校へ行く時間を捻出することなど不可能なので、通勤電車で今までにないくらい猛烈に英語を勉強している雅子なのでした。

フランス人の友達に「ニューヨークってさ、日本にいるのと全く変わらないんだよ」と言ったところ、「フランス人にとってはフランスと全く変わらないんですよ。それがニューヨーク。多国籍な街ですから」という事です。

2009年9月8日火曜日

こうしてNYの夜は更けていく


今日はレイバーデイ(Labor Day)。日本で言うところの勤労感謝の日。9月の第一月曜日にあたり、土日と合わせて通常会社は三連休。だが、私の勤務する日系の会社は関係なし。

まだ入社したてで、抱えている仕事もないので、残業する同僚に申し訳ないとは思いつつ6時半で退社。深夜残業、土日出勤は当たり前の会社。アメリカ人に話すとクレイジーだと言われるが、東京の生活にもどったと思えば同じ事。働く事は生きる事。仕事があるだけ有り難い。仕事を趣味にすれば、別に辛くもないでしょう。

せっかく時間と体力があることだし、ここ連日イーストヴィレッジの職場からクイーンズの自宅までまっすぐ帰っていたので、土地勘をつけるためにも途中ミッドタウンを散策することに。

グランドセントラル駅で途中下車し、41ストリート周辺の日本食材の店に寄ろうと思ったが、ここもレイバーデイでお休み。観光客を乗せたバスは満席だが、ビジネスエリアは心なしか寂しい。ブックオフは開いていた。ガラス戸を開けすぐの右側の掲示板には、英会話教室、ルームメイト募集、ベビーシッターします、フラワーアレンジメント教室等の張り紙が所狭しと貼られている。簾状に切り込みが入った紙にちまちまと書かれた電話番号。破られているものあり。そのままのものあり。すべて日本語。

ブックオフ内を流れる、従業員が録音したと思われる棒読みのアナウンスが非常に煩わしい。

「ニューヨークにきて3年が経ちました。友達もいっぱいできました。そして来月日本に帰る事になりました。英会話の教材を売ろうと思います。そんなお声、大歓迎です。ぜひブックオフであなたの本をお売り下さい」

中型店舗だが、日本に比べるとやはり品揃えが今イチ。昔読んでどこかへやってしまったポール・オースターの『ムーン・パレス』が欲しかったのだが見当たらず。8時の閉店間際まで迷ったあげく、唯一あったボール・オースターの作品『シティ・オヴ・グラス』(1ドル)と、ジュンパ・ラヒリの『停電の夜に』(5ドル)を購入し表へ。ブライアント・パークの木立越しに、エンパイア・ステイト・ビルが見え隠れ。なぜか薄暗い公園では卓球をする人たちが。

タイムズスクエアまでくると、さすがにいつものごったがえした風景だった。電飾の華やかさにホッとすると同時に、フードトラックから立ち上る肉の焦げる匂いにはじめて空腹を覚えた。地下鉄に乗り、iPodで英語プログラムを聞きながら帰宅。車両の軋む音が尋常ではないので、いつも耳が壊れんばかりの大音量で聞いている。人目も気にせず音読。今日のテーマは『工場の閉鎖を従業員に伝える』というものだった。

最寄り駅近くの、ヒスパニック系のおばあちゃんが「アメリカンチーズなんかいらないよ」と大声でどなっているグローサリーストアーでバドワイザーを買い家にたどり着く。ちびちび1人でやりながら納豆ご飯に缶詰のミネストローネをかきこんだところで、ヒドい頭痛に見舞われた。ヒスパニック系の住民たちは花火を上げて外で大騒ぎ。レイバーデイだからか? 

狭い部屋ではますます気が滅入るので、空気を吸いに外に表へ出ると、1階の住人Aさんがタバコを吸っていた。もうアメリカ生活は10年以上という彼女。年も私より十は上。日本にいたころは地方の新聞にコラムを持っていたらしい。紆余曲折あって、今はマンハッタンにある日系のグローサリーストアーで働いている。引越してきた夜に知り合い、意気投合。なかなかの才媛でマルクスからショスタコービッチまで、「わたしなんかジャンキーで、いいかげんなオンナよ」とふわふわと笑いながら、すぱすぱタバコをすいながら、のんびり話してくれたっけ。ええ2時間ばかし。けど、今日はそんな気分になれず、二言三言話して部屋に戻った。

こうしてニューヨークの夜は更けていく。また明日があるので、明日があることを前提としなければいけない生活なので、このあたりでおやすみなさい。明日はチャイナタウンで、究極の餃子を探す取材…。

2009年8月29日土曜日

だから、わたしは進もうと思う

その方とは、実は一度もお会いした事がないのです。昔の職場に、私が退社したあとお勤めになられた編集者の方でした。私が昔のボス宛に、一方的に送っていたアメリカ生活のレポートをずっと読んでおられたそうで、ある日突然メールが送られてきました。

「良い文章を書くから続けて下さい。応援しています」

そして幾つか物書きのお仕事を紹介していただき、まあ実現したものの、そうでないもののありましたが、私の人生を少し方向付けて下さった、大変奇特なお方でした。

ある日、我が家にかなり大きな小包が届きました。そこには彼が選んだ文庫が20冊弱。経済モノ、社会問題、歴史小説、恋愛小説、そしてSM小説まで、なんの脈絡も感じられない不思議なセレクトでした。そしてどの本も、私が書店で手にするタイプのものではありませんでした。

「日本語に飢えていませんか? 気にしないで下さい。仕事がら安く手に入りますから」

すぐに読んだのはアメリカ社会の恥部を描いたノンフィクション。こちらは勉強になりました。へたくそなSM小説は大笑いをしながら読み、日本語を勉強している友人にあげました。

何度かメールを交換し、一度電話でお話しただけで、そのあとその方は消えてしまわれました。日本に一時帰国した時にも、タイミングが合わずお会いできませんでした。退職をされイギリスに行ったらしいというのが、最後の情報です。その後お便りもほとんどありません。

数冊読んだものの、しばらく彼の選書には触れていませんでした。NYへの引越の支度をしながら、ふと目に留まった一冊。橋本紡の『流れ星が消えないうちに』。この作家も作品についても全く無知のまま、たまには淡い恋愛小説もいいかしらと、ソファに持ち込み一気に読み上げました。そう、一気に読める程度の非常に読みやすい、まあありがちな展開の、ソフトタッチのライトノベル。しょうもないほどロマンチックなタイトルそのままに、切なさいっぱいの、甘酸っぱい恋愛ものでした。

で、不覚にも号泣しました。普段でしたら、時間の無駄だと途中で読むのを辞めてしまうような内容だったにもかかわらず。自分で選んで読んだのですから、「つけこまれた」というのはおかしな表現ですが、でも強気を装う痛んだ心に、するりと入られてしまった感がありました。同じ陳腐な表現でも、その読み手側の精神状態で、「くだらない」と一蹴できたり、逆に深く胸に突き刺さったりするものです。ちょっと長いですが、引用させてください。

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 たぶん、一度、わたしの心は壊れてしまったのだと思う。
 不幸なんて、いくらでもある。珍しくもなんともない。けれど、ありふれているからといって、平気でやりすごせるかといえば、そんなわけはないのだ。じたばたする。泣きもする。喚きもする。それでもいつか、やがて、ゆっくりと、わたしたちは現実を受け入れていく。そしてそこを土台として、次のなにかを探す。探すという行為自体が、希望になる。
 とにかく、終わりが来るそのときまで、わたしたちは生きていくしかないのだ。
 たとえそれが、同じ場所をぐるぐるまわるだけの行為でしかないとしても、先を恐れて立ち止まっているよりは百倍も……いや一万倍もましだ。
 だから、わたしは進もうと思う。
 恐れながら、泣きながら、進もうと思う。

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文脈は違えど、これほどまでに、いまの私の心境を上手に描いた文章もないでしょう。この本を下さったあなたですが、読んでいたかどうかは分かりません。遠くからの応援メッセージとして、勝手に、そっと、受け止めました。夜道を優しく照らしてくれる街頭。いえ、顔は見せず光の杖で先を示してくれる仙人なのかもしれません。

導いてくれる人というのは、なかなかいないものです。結局人生なんて、自分で自分の道を作って、歩いて行くしかない。でも夜道の街頭になって下さる方はいる。視点を与えて下さる方は貴重です。その思いに、きちんと応えて生きていくことが、唯一の恩返しですね。

8月30日にNYへ引越をし、一人暮らしがスタート。9月1日から仕事も始まります。

2009年8月19日水曜日

Go down the shore !


Go down (to) the beach. とか Go down (to) the shore. とフィラデルフィアの人が言う時、それはお隣のニュージャージー州アトランティックシティかオーシャンシティーのビーチへ泳ぎにいく事を指します。ハイウェイが空いていれば車で一時間ちょっと。大西洋に面した庶民的なリゾート地です。

とびきりパワフルなゲイル姉さんが休暇で帰ってきました。彼女が勤めていた英会話学校の生徒さん3人を引き連れて、彼女プロデュースのオリジナルアメリカツアーを体験させるのだと。

「Masako、私の日本語はまだまだだし、彼女たちも英語初心者なの。だからあなた通訳としてついてきなさいよ。そうしたらあなたもオーシャンシティーで一緒に遊べるし、パパの家にも泊まれるわ。あなた最近つかれているでしょう。休暇が必要よ!」

私ごときで務まるような通訳でよければ是非是非と、遠い昔に購入した水着を引っ張りだし、サマードレスにサンダルをつっかけ彼女の車に飛び乗ります。日本からお越しのお客様3名は、それはそれはキュートな20代前半のお嬢さん達でした。そうかあ、こんなに痩せているもんなんだ。こんなに髪の毛を茶色にしているんだ。まつ毛のエクステとか、今時のネイルアートはこんなに凝っているのね。美白はそうよね、しっかり守らないと。写真を取る時は必ずピースサイン。そして何を見ても
「かわいい〜♥」
なかなかフィラデルフィアでは見ない種類の生き物だったので、しばらく人形のように愛らしい彼女たちを観察してしまいました。

ゲイルの両親は6〜7年前に離婚。ビジネスを成功させた父親は恋人とニュージャージーに、母親も恋人とジョージア州に住んでいて、そして今はみんな仲良しという理想的な(?)家庭環境。今回お邪魔した、ゲイルの父親の家は昨年の冬にも行ったのですが、スイミングプールやプールバーがあり、国産車、ヨーロッパの高級車5〜6台に、ハーレーダビッドソンと、まあアメリカンドリームを形にしたらこんな感じなのではという世界。

ゲイルの父親と恋人シェリルはそれぞれ小型のヨットを所有していて、我々は分乗して水面を切り、風に髪を遊ばせながら沖へ沖へ。さあ、このあたりで泳ぎなさいと言われみんな次々に飛び込んでいくのですが、足がつかないところでは泳げない私。ちゃぽんと浸かっただけで、すぐにボートに逃げ戻ってしまいました。大西洋の真ん中。海岸線も見えず、青い空に穏やかな海。この世の楽園といった感じなのですが、でも怖い。ボートの上でのんびりとビールでも飲んでいる方がいいわ。と、惚けた顔で空を眺めていたら、ゲイルが叫びました。

「ドルフィン!! みんなボートに戻って追いかけるのよ!」

そうイルカの大群が少し先でジャンブしていたのです。キラキラと太陽の光を浴びて輝く濡れた丸い背中達。それは言葉にできないくらい美しい光景でした。5回に1回見られれば良い方だそうで、ついていたようです。私達。

その後も理想のアメリカンライフ体験、ショートカットプランはイベント盛りだくさんでした。ゲイルの父親の手によるBBQパーティーの後、夜のボードウォークと遊園地ではしゃぎ回り、翌朝は彼の運転するハーレーダビッドソンに1人1人乗せ近所を一周してくれ、その間残りの面々はシェリルの指導のもとエアガンで、吊るした空き缶の的にシューティング。さらにガレージからどんどん出してくれる、ポルシェやベンツと記念撮影。

こんな映画のようなアメリカンライフを体験したのは、私も初めてでした。日本からきた若者たちのために、あれもこれも用意してもてなしてくれた彼らに心から感謝。こんなに素敵な英会話の先生に巡り会えることは、なかなかないですよね。フィラデルフィアに戻り、市街観光とヴィクトリア・シークレットでのお買い物やディナーにつきあって私はお別れをしました。その翌日みなさんは、ゲイルのガイドのもとニューヨークを観光して日本へ帰ったそうです。

追伸
夜のボードウォークを散策中、アイスクリーム屋の前で一休み。みんなで順番に食べていた時、ゲイルの父親がぼそっとつぶやきました。
「やれやれ、昔はこうして回して楽しむものと言えばマリファナだったのに、いまやアイスクリームだぜ」
ゲイルと私は大爆笑。さすがにここは通訳しませんでした。

2009年8月18日火曜日

飛び込み営業

I am looking for a job.

開店準備中のレストランのドアを開けて入ってきた青年はそう言いました。ごしごしと醤油臭いテーブルを拭いていたわたしは、聞き間違えかと思い振り返ります。ずんぐりとした短身に浅黒い肌、キャップの下からはみ出す真っ黒な髪に四角い顔。まぎれもなくメキシカンです。

I am looking for a job.

彼は再度はっきりとした口調で言いました。リスを思わせるつぶらな黒い瞳と、切羽詰まったセリフにそぐわない柔和な微笑みに、私の戸惑いはいっそう濃くなりました。

こういったメキシカンの移民たちは、キッチンシェフや皿洗いといったあまり人目のつかない現場で働いているのです。最近はフィラデルフィアでもだいぶ見るようになりました。不法移民に違いありませんが、この国を支える安い労働力であることも否定できません。国が激しい摘発をしない背景には、互いに持ちつ持たれつの関係があるからなのではないでしょうか? 彼もアメリカに飛び込んできたものの、仕事の当てがなくこうして飛び込み営業を繰り返しているのかもしれません。

私はなんと返したら良いか分からず、もごもごと「ちょっと待ってね」と言うと、もう1人のウェイトレスDを呼びに奥へ逃げてしまいました。エプロンで手を拭きながら現れたDに、彼は全く同じトーンで

I am looking for a job.

「ああ、今新規では雇っていないんだ。どこの国からきたの?」
「メキシコ」
「そうかあ、本当にゴメンね」
移民という立場では同じインドネシア人のDの対応は、どことなく申し訳なさげな優しさが滲んでいました。
「じゃあいいや。有難う」

青年は特にがっかりした様子も見せず去っていきました。この通りにはまだ何軒か他にもレストランがあるので、あまり遠くまでいかないうちに見つけられますように、と背中に向かって祈っておきました。

2009年8月10日月曜日

ストリートファイト

夜の街をつんざく罵声と金切り声が聞こえたと思った瞬間、ツレが止まった。
「ケンカだ。道を変えよう」
100mほど先の路上で5、6人の黒人の集団が殴り合いながら車道に飛び出してきた。けたたましいクラクションを鳴らしながら、車が避けていく。日曜日の夜。9時過ぎのスプリングガーデンストリート。そのまままっすぐブロードストリートとの交差点に出たかったのだが、踵を返し回り道をしてセンターシティに出る事にした。

「ああいう光景を見たら避けないとダメだよ。ギャングが加勢していつ銃で撃ち合いになるか分からないし、そのまま流れ弾にあって死ぬ可能性だってあるんだから」

センターシティから少し北に外れたこの地域は普段から退廃した雰囲気が漂い、廃屋とゴミと雑草だらけの歩道から、不気味なほどの静けさが冷たい恐怖となり背中を上ってくることはあるのだが、命の危険までも感じた事はなかった。

数ブロック南下し、横道からブロードストリートに出たところ、先ほどのグループが、こちらを目がけて走ってくるではないか。逃げる男、追う男。それをまた追う集団。慌てて車道を横切り反対側について振り返ると、追いつかれた男が地面に引きずり倒され、激しく殴打を受けていた。拳が顔や身体にめり込むドゥフッ、グフッという鈍い音と、組んず解れつのたうち回る二つの黒い肉体。足早に去りつつも、眼をそらす事ができない。

昨夜はフィラデルフィアのワコービアセンターで開催された総合格闘技UFC(Ultimate Fighting Championship)の試合を、友人たちとインターネットテレビで見ていた。熱狂するオトコどもを余所に、現ミドル級王者アンデウソン・シウバがガードを下げ、対戦相手のフォーレスト・グリフィンを散々小馬鹿にしたあげく、計算され尽くしたパンチで顎を捉え、1回KO勝ちしたところで眠りに落ちてしまった私。興行と知って見る殴り合いは例え世界王者であろうと何であろうと全く身が入らないのに、初めて見るストリートファイトは、その生々しさに背筋が凍りつき、しばらく声も出なかった。

巻き込まれることもなく、ケンカの終焉を見る前に射程圏内から逃げ切ることができたが、それでもしばらく極度の緊張と恐怖から解放されるまでは時間がかかった。

そう、いつでも撃たれる可能性があるということを意識の奥底にしまっておかないといけないのだ。きっとここだけでなく、世界中のどこででも。

2009年8月1日土曜日

Spicy World

私が働く寿司レストランではたぶん、決して日本ではお目にかからないRollこと巻寿司がメニューに並んでいる。

Spicy Scallop Roll(スパイシーホタテ貝巻き)
Spicy Tuna Roll(スパイシー鉄火巻き)
Spicy Squid Roll(スパイシーイカ巻き)
Spicy Shrimp Roll(スパイシーエビ巻き)
Spicy Hit Roll(スパイシーヒットロール??)

どうもアメリカ人はスパイシーなものが好きらしい。特にSpicy Tuna Rollは大人気。チリソースとマヨネーズを混ぜたような味の特製ソースを具材にまぶして巻くのだが、時に「これでは足らないわ」と別皿にスパイシーソースを入れて持ってくるように要求されることも。そしてほぼ100%の客が醤油なり、ソースなりにドボンと寿司をつけて、汁を滴らせながら頬張る。それでは具材の味が分からないではないかと思うが、多分魚の生臭さが苦手なのだろう。

スパイシーなものは寿司だけではない。

Spicy Miso Soup (スパイシー味噌汁)
Spicy Seafood Soup (スパイシーシーフードスープ)

なんていうものもある。スパイシー味噌汁は、普通の味噌汁にラー油をドバッと垂らすだけ。一度韓国レストランで食した味噌汁に唐辛子が入っていて驚いた事があるが、同じような感覚。考えてみれば私が働くレストランを始め、フィラデルフィア市内のほとんどの日本食レストランが韓国人経営であるのも、こういった発想にいたる理由なのかもしれない。

寿司と別にご飯を頼む感覚もよく分からないが、よくある風景。ご飯はWhite Rice (白米)、Brown Rice (玄米)、Sushi Rice(寿司飯)の3種から注文できる。寿司飯を茶碗に持ってサーブする度に、可笑しさがこみ上げるのは私だけだろうか? とにかく白米は味がしないと思うようである。せっかく頼んでも醤油をドバドバかけてたり、七味唐辛子パウダーで真っ赤にして食べている人々に、

"How is everything?"
 
と声をかけ

"OH!! It is great!! Awesome!"

とか満面の笑顔で返されると、ちょっと悲しくなる。まあチップを置いていってくれればいいんだけどね。

2009年7月24日金曜日

本日の客

寿司カウンターで1人22オンスのビールを片手に、アングリータコロールをつまむ彼女。こうした一人で来る女性客は少なくない。1人でSUSHIをつまむ姿はなかなか洒落ている、のかもしれない。我がレストランで「本日のスペシャル」として提供されるアングリータコ、ダブルスパイシーツナロール、サングリアロールの巻寿司3品は、当分変更する予定はないようである。

恰幅の良い男性客が入ってきた。醸し出すオーラがやや鬱陶しい。迷わずカウンター席に行き、女性の隣に一つ席を空けて座る。

「今日は一日寿司が食べたかったんだよ。そのビール良いねえ。僕にも彼女と同じビールを。あとサーモンロールとツナロール(鉄火巻き)を。ちなみにこれそれぞれ何個なの? えっ? 6個ずつ! それは多すぎるなあ。食べられないかも」

なんということはない。ペロリと平らげ、追加で天ぷらも注文。このころには初対面であるはずの隣の席の女性ともすっかり打ち解け、自分の皿からタマネギの天ぷらを彼女にプレゼント。彼女もまんざらではない様子で、ビールを飲むペースをダウン。この際もう少し食べてくれないだろうかと彼女に注文を取りにいくが、ビールをゆっくり楽しみたいのと追い払われる。

男性はイタリア人だった。ビールを良く飲み、よく笑い、よく語り、彼女も楽しげに相槌を打っている。しかし寿司バーでの恋は結局燃え上がることはなかった。会話が切れた瞬間に彼女は訴えるような目で会計を促してきた。クレジットカードのサインをさらさらと済ませると「美味しかったわ。あなたと話せて楽しかった」と何事もなかったかのように、足早に去っていった。

肩すかしをくらったイタリア人は淋しさを紛らわすかのように
「スージーは実にナイスな女の子だったよ。そうだろう?」
と我々に同意を求めてくる。かなりの大声で。もちろん我々も笑顔で返す。彼女の名前はスージーだったのね。なかなかチャーミングだったのに。本日の狩猟失敗なり。なのかしら?

そわそわと居心地悪そうにする彼。カウンター脇のテーブルには家族連れが夕食を取っている。ハリーポッターの主人公にそっくりな少年は、カリフォルニアロール12個とご飯を注文。ご飯に醤油をドバドバかけながら、フォークも出してくれと。父親は握り寿司と日本酒、母親はベジタブル照り焼きセットを注文。

「昨日もここに来たのよ」と母親。「フィラデルフィアに来て一番清潔でマナーのいいレストランだわ」
イタリア人は次のターゲットをこの家族に決めたらしい。何を食べているのかいと息子に話しかけ、その後父親と意気投合。自分はイタリア人の俳優だと名乗る。スージーはその言葉にしばし時を許してしまったのかもしれない。

トラベラーズチェックで会計を済ませた家族。旅人だったのだろうか? 彼らも去り、再びイタリア人は居心地が悪そうなそぶりを見せる。存在感をアピールし過ぎて、その後の落ち着きどころを勝手に失っていく男。最後に注文した枝豆を平らげ、やっと店を出ることができた。

「美味しかった。いやあ素晴らしいレストランだったよ」

2009年7月21日火曜日

発音の苦しみ

最近毎日のように発音練習をしているのが「シェリル・クロウ」こと「Sheryl Crow」。ご存知グラミー賞受賞経験も豊富な、アメリカを代表する歌姫の1人です。初めて彼女の名前をネイティブの前で発音した時、全く通じず渡米1年9ケ月にもなるのにと愕然としました。特にSherylの発音の難しさは尋常じゃない。何百回と練習しているのに、まだ満足のいく音が出ません。

ちなみにこれが正しい発音。
http://dictionary.reference.com/browse/Sheryl
(拡声器マークをクリックすると音が出ます)

英語の発音の難しさは舌の位置、唇の使い方、喉・口蓋などどこに力を入れて音を出すかなど、まったく日本語と違う構造にあるからなのですが、さらに音節ことシラブル(syllable)が全く異なる。日本語表記にしてしまうとシェ・リ・ルと母音が3つあり、それと同数の音節を無意識に作ってしまう。しかしSheryl を発音する場合は2つです。もう一つ例を出すと男性の名前の「ブラッド」(Brad)。これも日本語読みをすると音節は3つですが(モーラで数えると4モーラ)、英語では1つ。

新しい単語を覚える時はなるべく、スペルを確認しながら耳と目の両方でインプットするようにしています。なぜならイメージのなかで「Sheの発音は口をこう使い、その次にRが先にきて、Lは最後」と形作り、それに沿って発音しないと、意味とスペルと発音の回路が作れないからです。いくつかパターンができてくれば、次に似たようなアルファベットの組み合わせを見た時に、たぶんこんな感じで発音すれば通じるかしらと予測ができるから。

さらにこの「Sheryl」を我が意を得たとばかりに「シェロー」と言ってしまうとそれはそれで間違い。「ローとかオーなんて言っていないでしょう」と指摘されてしまいます。もっと喉の奥からこもったうなり声を出すイメージ。

まったく異なる楽器に自身を作り替えている最中なのだと思います。今までポンポンと叩けば音が出る木琴だったところを、オーボエやクラリネットといった木管楽器にトランスフォームしているような。

語学学習はスポーツと一緒だといつも思います。生まれつき俊足であるとか、瞬発力があるという恵まれた肉体の持ち主でなくても、筋肉の構造を理解し、それを強化するトレーニングをすることにより、鍛えられていきますよね。ただそこに私のネイティブ言語である「日本語」が邪魔をしてくるのです。日本語は無意識にでも話せてしまう。だからそのクセを無意識に英語にも持ち込んでしまうのですね。ですからそこを意識的に頭と口を動かさないと通じない。もちろん生まれもっての語学センスというのは大きく、運動神経が良い、悪いに匹敵するもので、私はとことんこのセンスがないのねえと思っていますが。昔っから音痴だったし…。

面白かったのが「worldという単語は発音できる?」と聞かれた時。聞いてきた彼は、カードにかかれた単語を一人一人読み上げる練習を幼稚園児だったころやらされ、苦手な「world」を引いてしまい上手く発音できず恥ずかしかったとのこと。日本語では知らない漢字が読めないということはありますが、振り仮名さえあれば誰でも音読することは可能。英語では「w・o・r・l・d」とスペルが分かったところで、その読みは訓練して刷りこんでいかないと、子供でも1回見ただけで発音できるものではない。確かにこれも良くみてみると「w」「r」「l」と発音の難しいアルファベットの組み合わせです。ただ私はこの単語で会話中につまずいた事はないので、たぶん通じる音が出せているのでしょう。

たった英語一つでこんなに苦しむのに、多言語を軽々と操る人はどういう作りになっているのでしょう。引き出しがいっぱいある方は本当に羨ましい。

2009年7月20日月曜日

国へ帰る人

同僚のインドネシア人の寿司シェフが1人、母国へ帰っていきました。観光ビザで入国し、そのまま数年間違法に居座って仕事をしていたので、これで帰ると当分はアメリカに入国できません。ガールフレンドが待っているそうです。帰ったら何をするのと聞いたところニヤッと笑い

「当分はリラックスしたいね」

「寿司シェフとしてレストランで働けそう?」

「どうかなあ。インドネシアにも寿司シェフはいっぱいいるからねえ」

週6日馬車馬のように働き、カウンター越しにいつも「疲れた。眠い」と日本語で私に愚痴っていた彼。アメリカに来た理由はただ一つ

「金」

だそうです。インドネシアでは稼げないから。日本にも数ヶ月語学留学をしたそうで、ちょっとなら話せました。日本に行って、アメリカに来て、夢を追って生きてきたのでしょう。今の彼の胸にあるのが、挫折感だけでなければ良いのですが。

「アメリカの生活はつまらない。はやく国に帰りたい」
とよくこぼしていました。一日だけの休日は寝て、テレビゲームをやっておしまい。彼を含め、ほとんどのインドネシア人たちは終バスでサウス・フィリーへ帰っていきます。きっとそこにインドネシア人コミュニティーがあるのでしょう。情報がまわり、仕事の斡旋もあるのかもしれません。彼の後釜として働き始めた新米のシェフも、またインドネシア人でした。

韓国のテレビドラマにでも出てきそうな、口元がちょっとだらしないけど、目元が涼しげな優しい若者でした。一ケ月ちょっとの付き合いでした。もう二度と会う事もないのでしょう。

2009年7月16日木曜日

声優、再び

「日本語訛のある英語の声優を募集していて、急な話ですが明日空いていますか?」

と依頼が飛び込んだのは、事前に登録してあった通訳や翻訳、語学教師派遣を扱う会社から。すぐにスクリプトがメールで送られてきて、練習する暇もないまま電話でオーディション。オーディションと言っても、他にライバルがいたとは思えず、5分後に合格通知の電話。なかなかネイティブのように話せないというコンプレックスがこんなところで役に立つとは。それに報酬もなかなかのもので、私が週2回1ケ月間日本食レストランで働くよりも高い!

そして本日午前11時。我が家から徒歩10分ながら、今までのぞいた事もなかった汚い路地の地下にあるスタジオに集まったのは、フランス人、オーストラリア人、インド人、メキシコ人、アメリカはジョージア州出身、そして日本人の私。求められていたのは日本語訛だけでなく「多様性」だったようで、(ジョージア州出身の人はアメリカ南部のアクセント)、実は某大手製薬会社のCMのナレーション録音でした。

まずは先に収録したCMのビデオを全員で鑑賞。不景気のイメージ、競技場でアスリートが倒れるショット、山の頂にクライマーが到達するシーン、製薬工場での製造ラインの映像、笑顔の病人や顧客、活き活きと働く人々、といった流れ。

渡されたスクリプトは全員同じ。要は、この不景気の中、我々の供給戦略は一時つまずきを見せたが、今後は問題を解決しさらなるチャレンジをし続ける。再建を誓い、更なる顧客ニーズに答える姿をアピールしようというものでした。

個別にガラス張りの防音室に呼ばれ、ヘッドホンをし、ミュージックビデオなどで見る丸い網が張ってあるマイクの前に立ち、録音スタート。

That's the business we're in. That's how we manufacture success.
We're committed to delivering on time. All the time. Every time.
The world expects it. And together we will deliver what we promise.

(一部抜粋)

なんのこっちゃという感じもしましたが、錆び付いていた、かつて大学時代演劇サークルにいた日々と思い出しながら、情感たっぷりに下手な英語を読み上げたところクライアントは大満足。私の収録は10分程度で終了。

待機していた時間の方が長く、他の5人と雑談をしながらコーヒーを飲み、2時間半くらいだらだらしてしまいました。他の”声優”たちもなかなかの個性派ぞろいで、ソプラノ歌手、会社経営者、通訳、ファイナンシャルプランナー、IT関係と実に様々。そして皆英語が上手い(オーストラリア人とジョージア州出身は当たり前ですが)。こんなに外国人でありながら、アメリカという地で逞しく生きている人がいるのだから、私ももっともっと頑張らんとアカンねえと、久しぶりに気合いが入りました。

「多様性」を訛のある言葉で表現する。「多様性」をアピールすることで、親近感を持ってもらう戦略に出る。アメリカならではの発想ですね。顔はいっさい出ませんし、どの部分が使われるのか全く分かりませんが、オンエアが楽しみです。多分、日本で流れることはないと思いますが。

2009年7月10日金曜日

砂の女

その昔、そう高校生くらいの時だったかしら、父の書斎から引っ張りだして読んだフリをしたきりでした。安部公房の「砂の女」。

ただページを最初から最後までめくったという事実が欲しかっただけなのかもしれません。「不条理」とは何ぞやと格好つけてみても、条理すら知らない小娘に分かる訳がなく、蜃気楼のようにぼんやりとあらすじは浮かぶものの、結局何も分からなかったのですね。一度読んで、棚にしまって、それきりでしたわ。

「テシガハラ・ヒロシの映画が好きなんだ。特に『Woman in the Dunes』が」
「Woman in the Dunes?」
「日本語で『スナノオンナ』って言うんでしょう」
とあなたに言われるまで、「スナノオンナ」こと「砂の女」が、テシガハラ・ヒロシこと「勅使河原宏」という監督により映画化されていたことを知りませんでした。いえ、それどころかこの小説を思い出す事すらなかったのです。

「君と一緒にその映画を観たい」
とあなたに言われ、「いいよ」と生返事をしたまま約束を数ヶ月反故にしていたのですが、ついに昨日、観てしまいました。そう観てしまったのです。あなたと一緒に。その恐ろしさを知らないまま。

武満徹の闇を切り裂くような旋律。
モノクロ画面で接写される砂、女の肌、砂、虫、砂、男の背中、砂、髪、砂、水、そして砂、砂、砂。

こんなにざらりとした質感のある映画は初めてでした。今のわたしに心というものがあるのであれば、心の表面はこうなっているのかもしれない。心のひだに入り込んだ砂が、ぎしぎしと溢れ出し砂丘をつくる。そして蟻地獄のように、今度はその中に感情が引きずり込まれ蠢き、もがき、結局のところ安住してしまう。

決して鍵カッコつきの「不条理」の標本なんかではなく、それは、そのまま我々人間の生々しいまでもの這うような生き様なのではないか、と気がついた時には、もう遅かった。

わたしも、そこにいたのです。
そう、その砂の中に。

岸田今日子さんの半開きの唇が脳裏に焼き付いて離れません。ホラー映画よりも怖い。それは外的な恐怖ではなく、この肉体に巣食い、魂を支配する地獄だからではないでしょうか。

なぜあなたはこの作品を愛するのでしょう。
私はその砂の中にあなたを見なかった。
私自身を俯瞰する視点はくれたけれども。

病院にて、其の三

もう病院について書くのも終わりにしたいのですが、あまりにも想像を絶する日々なので。

もう実名を出しますと、Hahnemann University Hospitalです。ここ数週間私を悩ませているのは。どうしてもそこでしか精密検査を引き受けてくれないというので、嫌々行ってきました。

センターシティーの北の外れ。もう少し行くと治安がどんどんと悪くなる境界線のあたり。癌、耳鼻科、消化器系、高齢者医療、心臓病などなど、広範囲のサービスを提供する巨大病院で、病棟は新しく非常に立派。外見だけはねえ。

受付にたどり着くと、クジャクの羽のような色でまぶたを染めあげた、ニューハーフにしか見えない黒人のオバサンが、退屈そうに長い真っ赤な爪をいじっているではありませんか。彼女は座っているだけで、特に仕事をする気はないようで、背後から同僚が彼女の前の机の資料を取りにきた時には、椅子をずらすそぶりさえ見せません。

ようやく別の牛のような体型の黒人のオバサンが、ゴールドのド派手なアクセサリーをじゃらじゃら揺らしながらのっそりと現れ、私の名前を確認。なんどもこっちがファーストネームで、こっちがファミリーネームだと言うのに、すぐ混乱する。スペルも3回は確認。

そしてベンチで待つように言われ、しばし壁にかかったテレビでCNNのニュースを見つめる。マイケル・ジャクソンのニュースはもういいよ。不安はどんどんと募っていきます。私以外の患者は、全員似たような、安物の服を着た肥満体型の黒人ばかり。病院ですから仕方がないのでしょうが、みな無気力な惚けた顔で空虚を見つめています。

再度受付から呼ばれ、4番のブースに来いと。そこには先ほどのゴールドのアクセサリー、と短髪の白髪で覆われた先輩格の黒人のオバサンが待っており、にっこりと自己紹介。いまから患者登録をするからね、と。これがヒドかった。彼ら、私の個人情報を登録するだけで30分もかかったのです。ものすごーーーいいとろとろと、あーでもない、こーでもない、と言いながら、キーボードを指一本でカチャッ………カチャッ……、カチャッ……あっ間違えたわ、アハハハハ………とやっているのです。

「仕事はてきぱきと」とか「お待たせして申し訳ない」とか、そういった発想がいっさいないのです。そんなに時間がかかるんだったら、こっちが代わりに入力してあげたいと思うくらい。Lazy(怠惰)と言う以外、言葉が見つからない。

プリントアウトした書類を取りにいく動作もゾウガメのごとく、鈍い。気が遠くなりそうでした。時計を見たり、ため息をついたり、朝食抜きで来ているからお腹が空いたわと言って、プレッシャーをかけようしても、全く効果なし。悠然と微笑まれ、逆に気圧されしてしまいます。

なぜこんな仕事ぶりで給料がもらえるのだろう? 責任感なく、だ〜らだ〜らやっているから、私の予約の電話も無視したり、たらい回しにしたり、途中でメンドクサイと思って留守番電話につなげて逃げたりしたんだわと、怒りがグツグツと沸いてきて、頭から蒸気がシュポーっと出て汽笛が鳴りそう。やれるものだったらやってみたかったわ、スチーム係長みたいに。

検査そのものはスムーズに進み問題なかったのですが、(問題があるかどうかは結果の方ですね)それに至るまでの過程がもう…。結局病院に拘束された時間は2時間半。そのほとんどが待ち時間でした。

この日、やっと食事を口にできたのは午後5時半。その足でチャイナタウンのNan Zhou Hand-Drawn Noodle Houseへ直行し、ピーナッツソースの手打ち面3ドル、ワンタンスープ2ドルを、中国語の飛び交う、小汚い食堂でかき込みました。ここは安くて味も確か。オススメです。

2009年7月7日火曜日

病院にて、其の二

精密検査のため訪れたJ病院。今回は万全を期して臨んだつもりでした。はい、英語素人は口を出しますまい。不備がないよう電話予約からしっかりネイティブの友人にまかせ(こういうのを依存といいます)、検査に時間がかかっても良いよう半休をとって付き添ってもらい(こういうのをワガママと言います)、眩しい日差しの下をてくてく、朝食抜きのためクラクラ。不安でドキドキ。

ええ、受付の女性は笑顔で迎えてくれましたとも。服用している薬はないか、最近の体調はどうかなど、笑顔を交えた丁寧な対応にホッ。とする間もなく、別の職員がつかつかと近寄ってきて言うではありませんか。

「あなたの保険プランはうちの病院は受け付けられないの」
「えっ!!予約の段階で確認したよね。大丈夫って言ったじゃない」
「この保険会社自体はいいんだけど、あなたの加入しているプランは特別で、あなたが最初に指定したHという病院以外はだめなの」

なんだとぉぉぉぉぉぉ(怒)

確かに保険加入時に、ホームドクターを決める必要があり、我が家からちょっと歩いたところにあるHを指定しました。そう、例の予約の電話をたらい回しにしたのち、留守番電話に繋がり、そしてメッセージを2件も残したのにかけ直してこなかった、あの病院です。そこで完全なる無視を決め込まれたため、近所のドクターを探して行き、精密検査が必要だから大病院へ行けといわれ、Jまではるばる来たのに、これではまた振り出しじゃない!Hの怨念だ…。でも近所のドクターでは保険が適応されたのに、なぜ大病院で検査となると受け付けてもらえなくなるのかさっぱり分かりません。

いくらごねてもダメなものはダメ。最初から契約をしっかり確認しないこちらが悪いのですが、半休を取ってまで付き添ってくれた友人に申し訳なくて"I'm sorry"を連発。友人は「あなたが悪い訳じゃないよ」と、すぐにH病院に予約の電話をかけてくれましたが、また同じ悪夢が。電話のたらい回し、途中まで予約内容を聞いていたはずの担当者が電話口から消え、数分に渡る保留音の後また別の人がでてくるなど、イライラが募ります。

15分くらいかけて、ようやくH病院の予約が取れましたが、今度はカルテをそちらに再送してもらうため、最初に訪れた病院へまた電話。何で一カ所でこんなことがさっさと済まないのだろう?辛かった諸々の症状は消え、すっかり元気になってきたので、もう精密検査など受けたくないのですが、ここまで来て引き下がる訳にも行かず、逆に疲弊しきってきました。事が全て解決したら、H病院をさっさと担当医から外してしまうつもりです。でもこれがもっと重い病だったらどうするのでしょう?待ちくたびれている間に症状が悪化するに違いありません。

最近、オバマの医療制度改革について調べていたのですが、こう我が身に降り掛かっていると、状況の深刻さと改革に一刻の猶予もないことが痛いほど分かります。私はまだ保険に加入できているから良いようなもので、この国の無保険者はこの8年で690万人増えて4,570万人となっており、うち800万人が児童、8割が勤労者世帯。過去1年間に何らかの形で保障を失った者は6000万人に上っています。日本のような皆保険制度がないため、民間の保険に入るか、加入していたも保険でカバーされる範囲が限定的なため、自己負担分の高額の医療費は家計を圧迫し(GDP比16%。2017年には20%弱に達する)、借金漬けとなるため個人破産の半分以上の原因となっているのです。加えて、医療過誤も多いし、予防と公衆衛生への投資不足も深刻だし、先進国とは言えない状況。いったい前大統領は戦争ばかりして、金持ち優遇税制で彼らに甘い汁を吸わせ、ホント何をしてきたのでしょう。

President Obama is committed to enacting comprehensive health reform this year that lowers costs, guarantees choice of doctors and plans, and assures quality affordable health care for all Americans.

そうだオバマよ、そして議会よ、是非結果を見せてくれ!!

Not only for Americans but also for foreigners like me....

皆保険制度は素晴らしいです。共産主義的だと言われようと、何だろうと素晴らしいシステムです。

2009年7月2日木曜日

病院にて

やっと病院へ行く事ができた。友人たちにおんぶに抱っこで、予約入れから当日の付き添いまで(仕事を抜けてきてくれた2人に深く深く感謝)全部頼み、迷惑をかけっぱなしで反省。そうか、日本を離れると病院へいくことも大冒険になってしまうのねと渡米1年8ケ月も過ぎたころ、また何もできないことに気がつき、がっくり、しょんぼり、ため息、自己嫌悪。

診察前に記入する書類に一時間も費やしてしまい、後からきた人にどんどんと抜かれていく。焦れば焦るほど、書類の文字が踊りだし、もう気分はチャイム5分前の高校の英語の試験。現在の症状から日頃の生活習慣まで、あれこれ答えないといけないのだが、そのなかに「マリファナやコカインを常用しているか?」という質問項目には驚く。さすがアメリカ。あとなぜか「毛」に関する質問も多く「顔に異常なほど毛が生えているか?」というようなものもあり、首を傾げながら「No」にチェック。

何事も初回が大変なのだろうが、診察となるともう緊張でガチガチ。医師の質問にも的確に答えられず、結局前から症状を相談していた友人に診察室まできてもらい、まるで彼の症状を説明しているかのようによどみなく答えてもらうという異常事態に。

血液検査でも注射器を持って現れたでっぷりした黒人の女性看護士を不安な目で見上げてしまう。
「これは決して、決して人種差別ではないのだけれども」
と心の中で繰り返しながら、そのむちむちした不器用そうな指に私の細い血管が拾えるのだろうかと固くなってしまい、結局採血自体は滞りなく済んだのだが、二の腕を圧迫していたゴムチューブが解かれた後も握りしめた拳がしばらく開かなかった。

検査結果は後日報告。さらに大病院で追加の検査を受けなくてはいけないことになってしまったが、でも逆に原因が分からないまま放置しなくてよかったとちょっと安堵。

診察後、付き添ってくれた友人が小怒り気味に
「bipolar disorderって言われたの気がついた?」
どうやら不眠症気味であることや、諸々のストレスで精神的に疲れ気味だという話をしたときに医師に自信たっぷりに告げられたらしい。bipolar disorderとは双極性鬱病。つまりうつ状態のこと。確かに最後に泣いたのはいつかとか聞かれたなあ。
「確かにストレスはあるだろうけど、そんな大それた名前をつけるほどじゃないでしょう?そうやってもっと診察しようとしているんだよ」

いらん。いらん。そんなよけいな病気を見つけないでいただきたい。ドーパミンをコントロールする薬でも処方する気だろう。そんなことでは根本的に問題は解決しないのだよ。医療もビジネス。患者は消費者なのだから賢く医者につきあい、弱気につけ込まれないようにしないと。まったく、病院でも気が休まらない。

2009年6月28日日曜日

日本食レストランで働くの巻

諸々の事情はさておき、週2回フィラデルフィア市内の某「日本食レストラン」でウェイトレスのアルバイトを始めました。

面接は10分。名前と電話番号を聞かれ、仕事の経験を聞かれただけ。英語が上手だから大丈夫とインドネシア人に太鼓判を押され、即採用。翌々日から働き始めました。

この日本食レストラン、オーナーは韓国人、私以外の従業員は全てインドネシア人です。聞くところによるとほとんどの日本食レストランが、こういったシステムなのだとか。フィラデルフィアは韓国人経営の店が多いですが、他の街へ行くと中国人か台湾人というケースの方が多いらしい。薄給でも文句を言わず働くのは、観光ビザで入国し、とうに滞在資格が切れている彼らのようなアジア系の不法移民なのですね。

日本食は健康ブームもあってそこそこ人気なのですが、実際に日本人が働いている事は、ニューヨークのような大都市ならいざしらず、フィラデルフィアでは数人ではないでしょうか? いちおう日本食を前面に出している以上、アジア系の顔で従業員を揃えるのが常識のようで、西洋系、黒人、メキシカンが働いていることはほぼありません。

インドネシア訛の英語に悪戦苦闘し、ベテランのインドネシア人ウェイトレスに「また、あんた味噌汁にスプーンをつけ忘れたでしょう!」と叱られ、「ハマチはイエローテイル、鯛はレッドスナッパー」と呪文のように唱えながら働いております。

このレストランの場合チップはサービスをしたテーブルごとではなく、その日のトータルを勤務歴や経験に合わせた割合で分配。ちなみに私の初日給は6時間働いて$23でした。その次は$28。一番賑わう金曜日の夜だと$60くらいまではいきますが、平均すると$40前後でしょうか。毎回現金とっ払い。時給自体は2ドルちょっとなので数ヶ月分まとめてあげるよとのこと。

うーん、我々労働者階級は搾取されておるぞと、マルクスの「資本論」でも読みたくなる日々です。ただ、初の英語しか通じない職場。自意識や、変なプライドや、迷いを全て断ち切り、人生再出発です。

2009年6月5日金曜日

日本人の心

日本人は何かと「心」を大切にします。特に「和の心」とか「侘び寂び」と言うと、茶の湯、茶室、懐石料理、うつろいゆく四季折々の風景など、総括できない何か独特の世界が想像されます。文学を通して、また単純化されたコマーシャリズムの戦略に乗って、なんとなくそのイメージは掴めているつもりでも、その「心」の神髄を知っているのかと聞かれると、少なくとも私は胸を張っては頷けません。

先日散歩中に、小径に面したささやかなガーデンの前を通りました。ツタが這ったアーチの下に、アンティーク調のラウンドテーブルや椅子が置かれ、アフタヌーンティーでも嗜みたくなる素敵な空間。でもちょっと庭木の枝葉や雑草が元気に伸びすぎて、「うっそうとしている」の一歩手前の感じ。

「もう少し手入れをしたほうが良いわね」と連れのアメリカ人に言ったところ、千利休と秀吉の話を知っているかと聞かれました。

「千利休が秀吉を茶会に呼んだ時、弟子が庭を落ち葉一つなくきれいに掃除してしまったんだ。それをみた利休が慌てて落ち葉を撒いて元に戻したんだよ」

このエピソードが詳細に渡り史実に即したものなのかどうかは、私には分かりません。ただその瞬間、雷にでも打たれたような衝撃が体を駆け巡りました。このセリフ、言う側と聞く側が明らかに逆転している。そしてこのタイミングでそのエピソードがさらりと言えるあなた、まだ23歳なのに…。

彼が大学でイースト・アジア研究を専攻し、日本文化に造詣が深いことは知っていましたが、その神髄を生ける肉体として受け止め、言葉に溶かして己の生きる空間を作っていく。簡単に言ってしまうと、私よりずっと日本人らしかったのです。恐れ入りました。

ちなみに彼の愛読書は谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』と、岡倉 天心(覚三)が英語で書いた『The Book of Tea』(茶の本)と、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』だそうです。

2009年5月26日火曜日

太陽の匂い、土の光





植えっぱなしでは木は健全に育ちません。「フィラデルフィア桜祭り」を通じて植樹を重ねた桜の木々は枝葉を伸ばし、そろそろ床屋さんに行かないと。

すでに日差しが眩しくなってきた土曜日の朝、フェアマントパークで行われた桜メインテナンスのイベントに参加したのは、ボランティアの方を含め20人強。大ベテランのT教授の指導のもと、落とすべき枝の指導が行われます。T教授、決して庭師のプロではありません。ペンシルベニア大学の経済学の教授です。癌との闘病中でかなりお痩せになっており、お目にかかれただけでも胸がいっぱいになります。

「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という諺がありますが、これは剪定してはいけないという意味ではなく、桜の木は年数を重ねると樹形が大きく枝が張ってくるので、状況に応じて枝おろしをした方が良いようです。ただ切り口から水が入って腐りやすいので要注意。しっかりと幹に沿って枝を落としていきます。

剪定が済むと今度は根覆い。大型トラックで根覆い用の土が登場。普段はビジネススタイルの男性たちがノースリーブやTシャツ姿でよじ上り、シャベルでリヤカーに土を投げ落としていきます。生身の肉体は、想像以上に逞しく鍛え上げられており、汗でキラキラ光って眩しい。そのリヤカーの土をえいしょ、えいしょと木の根もとまで運びます。

根覆いとは、木の根もとを土で覆うことによって侵食を防ぎ、雑草の成長を抑え、土壌の温度を根が育つのに丁度いい位の低い温度に保つのが目的。ただ樹皮が土で覆われてしまうとそこから腐る可能性があるので、火山口のように盛り上げた土の頂上を凹ませその中心に幹が来るようにするのです。

空気を含みフカフカした土はとても優しいぬくもり。両手で触れると大地の恵みを感じます。ミミズや虫たちが慌てふためき飛び出してくるのもご愛嬌。

全身汗だくで土と戯れ、へとへとになった後に食べる弁当は最高に美味しい。ペットボトルの水も甘い甘い。充実感に満ちた笑顔を、こざっぱりとした桜たちが涼しげに見つめています。

もちろん翌日は筋肉痛。ずっと両手を上げて高枝を剪定していたので、肩から背中にかけてかなり痛みます。サンブロックや帽子で予防はしていたのですが、やっぱり少し日にも焼けました。でも純粋にとても幸せな時間でしたよ。そしてこうしたボランティアに進んで参加してくれる人たちに感謝!

2009年5月25日月曜日

豚インフル狂乱について

今日は早朝から、日本から観光にいらした方々をお世話するお仕事をさせていただきました。皆様とお話して、日本で報道される豚インフルエンザに関する情報は、私もインターネット等で追ってはいたのですが、そのなんというか狂乱ぶりに驚かされました。本当にマスクが売り切れになっているなんて…。ツアー参加者も土壇場でキャンセルが相次ぎ、当初計画していた約半数の参加者しかいなかったとのこと。観光業界は商売あがったりですね。

政府がとった「水際作戦」は功をなさず、結局関西を中心に広がってしまったようですが、それって結局根拠のないまま精神的に煽られたたけで、何の意味もなかったということですよね。だいたいインフルエンザには潜伏期間があるのでしょうから、帰国時の症状だけで判断するのは片手落ちというもの。いったいどのくらいその「水際作戦」とやらにお金をかけたのか?疑いをかけられたばかりに隔離された人は訴えてよいのか?口を酸っぱくして言われる「うがい」「手洗い」「マスク着用」は本当に効果があるのか?疑問が次々と上がってきます。

例えが適切ではないかもしれませんが、鎖国をしたところで隠れクリスチャンが草の根運動で広がっていったのと同じような感覚を得ました。

2009年5月23日土曜日

ニューヨークはしんどい

某勉強会に参加するため、ニューヨークへ行ってきました。バスで片道2時間強、事前にインターネットでチケットを購入し往復24ドル。

少しずつ、少しずつ、今私がここでできる事を形にしていっている最中なのだと思います。ただニューヨークへ行くと疲れます。東京での生活を思い出すのですね。溢れる情報量に圧倒され、人ごみとクラクションの喧噪にもまれ、勝者と敗者の差が歴然としている様にショックを覚え、焦燥感と緊張で精神的にもみくちゃにされます。

特に仕事で行くと、たどり着き目的を果たして、食費を浮かせるために屋台でサンドイッチを買いロックフェラーセンターのベンチで食べ、地下鉄が苦手なのでなるべく歩き、少しでも時間があれば紀伊國屋へ寄り『ルポ 貧困大国アメリカ』と三浦しをんのエッセーを数冊買い、ですぐにバスに乗ってとんぼ返り。観光で来ている方が羨ましい。

フィラデルフィアでのゆったりとした生活に慣れてしまうと、もうこういった生活には戻れないなあとつくづく思います。ここだと流されるように生きてしまい、短期的に自分に課すゴールがどんどん高く、どんどん到達不可能になり、苦しむことが目に見えます。忙しさのあまり苦しみはところてんのように押し出され、悩むより「忘れる」能力が身に付いてしまった東京生活。思い出す事はまれですが、ニューヨークへ行くと蘇ってくる。

パワーをもらう前に、しんどいと思ってしまうのは、年のせいとは言わず、人生の転換期に差し掛かっているのだと前向きに捉えたいですね。

とはいえ、やはり往復4時間バスに揺られるのは疲れます。翌日、腰から背中、肩まで筋肉痛が。あいたた…。

2009年5月18日月曜日

やっと…



最近やっとリサイクルの意識がこの国でも高まってきたようです。写真のような分別回収ボックスが、今までのなんでも放り込んでOKだった、オスカー・ザ・グラウチでも住んでいそうなゴミ箱に代わり、街角に登場しました。
とはいえ、街の中心部や大学のキャンパス周辺くらいなもので、まだまだ治安の悪いエリアでは、廃屋となった落書きだらけの工場跡地やゴミの山と一緒に人々が暮らしていますが。
瓶やペットボトルのカバーまで剥がして捨てるような精神には、とうてい至らなそう。

2009年5月16日土曜日

フィリーズ観戦





















これでフィラデルフィア・フィリーズの試合を観戦したのは3回目。対戦相手はロサンゼルス・ドジャース。昔、野茂選手がいたところですね。

いつもまとめてチケットを取ってくれる友人がいて、今回は総勢20名くらいの大グループに。バックネット裏の一番後ろの、一番高い場所にある席。球場全体を見下ろせ、遥かかなたのフィラデルフィアの摩天楼まで見え、なかなか気持ちがいいものですが、ただ寒かった。地上10階かそれ以上の高さになるのではないかしら。風が吹きさらしでがたがた震えながら、なんで9イニングもあるのだと、途中めげそうになりました。長いよ…。7時過ぎに始まり終わったの11時過ぎだよ…。

日本のプロ野球事情はよく分からないのですが、こちらでは基本的に地元民は地元チームを応援しています。もちろん球場を埋め尽くしたファンはフィリーズのチームカラーの赤一色。フィリーズが攻勢になると、総立ちになり渾身の限りをつくして応援。逆に牽制球が投げられたりすると、球場中からブーイングの嵐。本当にブー、ブー言っています。

ホットドッグ1ドルdayでしたので、屈強なオトコどもは何個食べられるか競争、していたのでしょうが、我々のグループは実は毎回ホットドッグ1ドルdayにしか来ないので、もう珍しくもなくなってしまいました。私は2個も食べれば十分です。ビールは7ドルくらい。ビールの方を安くして欲しい。ベジタリアンの友人はベジホットドッグもちゃんと1ドルだったと感動していました。ベジタリアン結構いますからね、アメリカには。

近くでファン同士の喧嘩がおっぱじまり、ホットドッグを投げつけ合っていました。やれやれ、まったく。短気な人も多いですからねえ、アメリカには。

ちょっと素敵だったのは、球場でプロポーズした男性がいたこと。事前に予約しておいたのですね。スコアボードのビジョンに名前が載り、結婚行進曲が流れ、プロポーズを生中継。しっかり指輪を渡すシーンを見せてもらいました。球場中から祝福の声があがり、完璧なサプライズだったようで、彼女のリアクションがよかったです。映画みたいでした。

結果はフィリーズの勝利。球場は満足感に包まれ、帰途につく人々の顔には笑顔が。電飾のリバティーベルがキラキラと揺れて終了。今シーズンは日本人選手がいないのが残念ですが、やはり地元ですから応援しておきましょうか。フィリーズ。今年も優勝してくれるかな?

本日覚えた英語表現。
満塁= Bases are loaded.

2009年5月14日木曜日

Life goes on.

近所で仲良くしていた家族の母親が自殺したんだ。父親も数年前に癌で突然死していて、17歳、22歳、 24歳の子供達は両親とも亡くしちゃったんだ。

父親の死からあの家庭はおかしくなっちゃったんだよ。庭も家も手入れをしなくなって、めちゃくちゃに。母親は性格が変わっちゃってね、ものすごい太って髪もばっさり切って…。父親の死を受け入れられなかったんだと思う。

父親の死は本当に突然で、ちょっと不思議なんだけど、家族は死亡の2、3日前まで彼が癌だということを知らなかったんだ。

少なくとも以前は彼らは幸せな家庭だったんだよ。長男とは僕が5歳から12、13歳まで大の仲良しだった。いつも彼の家で遊んでいて、彼の両親は僕の第2の両親のようなものだったんだ。いつも幸せそうに見えてね。まあ、子供の目線から見えている世界に過ぎなかったんだけど。

父親はちょっと働き過ぎで、ヘビースモーカーで、でもそれ以外何か問題がある家庭とは思えなかったなあ。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


この話は以前「なんということもない不機嫌な日常」というタイトルで書いた人と同一人物です。
http://masakophiladelphia.blogspot.com/2009/01/blog-post_13.html

「あなたの周りには悲しい話が多いわ」と言ったところ、その返事は

”So I know how important it is to appreciate life. There's something positive to be gained from almost every experience...”

Life goes on.

2009年5月12日火曜日

フィリー・チーズステーキ


ニューヨーク在住の友人夫婦が遊びに来たので、みっちり観光におつきあい。フィラデルフィア美術館前では、ロッキーの銅像の前でお決まりの写真撮影。もちろん旦那さんは映画さながら階段を駆け上がってくれました。翌日はオールド・シティエリアを徒歩で散策。インディペンデンス・ホールからリバティー・ベルまで要所は押さえておきました。と、2日もあれば十分に回れる街の規模に感動したようです。

彼らはニューヨークとは言えどロング・アイランドの外れに住んでおり、マンハッタンまでは車で二時間。自然豊かと言えば聞こえが良いですが、蟻やダンゴムシが家に入ってくるのが大変とのこと。それは困るわ…。

名物のフィリー・チーズステーキを所望するので、久しぶりに食べてみました。実に1年数ヶ月ぶり。その名前から想像するものは、厚焼きのステーキにトローリと乗ったチーズという感じですが、実際はホットドッグの中身が炒めた薄切り牛肉とタマネギ、それにとろけるチーズがベターと塗り付けてある「超」高カロリー、「超」不健康そうな代物。久しぶりに口にすると、まあ最初の一口、二口は悪くはないですが、量の多さにゲンなり。胃がもたれました…。1年に1回も食べれば十分です。

あの店は美味しいとか、この店はダメだとか、この食べ方は亜流だとか、まあ友人たちは色々ウンチクをたれますが、私はどれも大差はないと思っています。名物にろくなものはない。さらにアメリカですからねえ。

元フィラデルフィア市長で現ペンシルベニア州知事のレンデル氏のでっぷりしたお腹をさして、とある英語教師が言いました。
「あれはフィラデルフィアにお客さんが来る度に、チーズステーキを振る舞って一緒に食べていたから、あんなになってしまったのよ」
そうなんでしょうなあ。

2009年5月5日火曜日

映画「Tokyo Sonata」を観て

最初から最後まで悲しい映画でした。そして見終わったあと、その悲しみが胸にしこりの様にいつまでも残り、苦しまされた映画でもありました。

アメリカの映画館で、アメリカ人の観客に囲まれ、日本の映画を、英語の字幕付きで見るというのはなかなか不思議なものです。彼らリアクションの大きさと、自身の感覚とのズレに、時折現実に引き戻されるからです。

「おかしさ」がそのまま「おかしさ」であり、ゆえに「悲しさ」でもある、という演出が散りばめられた作品でしたが、その機微がいったいどれだけ伝わっているのだろうという疑問。話し合いを避け、相手を察する。察するが故になにもしない。察するが故に理不尽とも取れる激昂へと誘われる、といういかにも日本人的な心性は、とうてい普通のアメリカ人には分からないだろう、と気になって仕方がありませんでした。

驚かされたのは、父親が子供を殴り飛ばすシーン。会場から怒りに満ちたどよめきが起き、褒めて伸ばす教育が浸透したお国柄からすると、信じ難い光景だったようです。もちろん子供への虐待がないとは言いませんが、わざわざ日本映画を見に来るような意識の高い、ある程度恵まれた知識層において、ということです。

私の胸で疼き続けた悲しみとは、言葉にしてしまうととても陳腐なのですが、そこに「希望」が持てなかったということです。どん底から立ち上がって生きようとする人間の、固い意志が見えなかった。

現実を直視できない弱さを持った人々が、実に他力本願なままプレート運動に身を任せてしまい、歪に堪えきれなくなり激しい地殻変動を起こす。ショック療法で立ち直ったかのように見えますが、結局のところ自助努力で成し遂げたものではない。天賦のピアノの才能を持った次男をサポートするという形で、淡いハッピーエンドらしきものに帰結するのですが、実に説得力に乏しい。でもこの「説得力」の乏しさこそが逆に、(あえて)日本人的な弱さとしては「説得力がある」と言えなくもないのですが…。ピアノの演奏が役者本人ではないことがバレバレで、急に安っぽいテレビドラマ風になってしまう。深読みすると、そこまで計算に入れた上での演出なのかもしれませんが、そうなるとますます哀れで、ダメな日本人像を突きつけられたまま、消化不良の感覚を「悲しみ」をして持ち続けさせられる。

映画の感想をメールで交換した友人の指摘がなかなか鋭かったので紹介します。

I also thought it was interesting that three of the family members, the mother and the two sons, had their redemption through something with a non-Japanese origin: the one son in Iraq , the other son with European piano music, and the mother through a ride in a Peugeot (French car). The father’s was a little unclear, it seemed like he had been lying there for days because he was covered in leaves. Almost like he was dead and then came back to life.

まあ私の「他力本願だ」という感想と一致したのですが、混沌とした状況を打開するには、意識するにせよしないにせよ、ガイアツに寄らないと無理だということでしょうか?

2009年5月4日月曜日

松風荘・千住博デー




「千住博デー」と名付けられた4月27日、千住氏の障壁画が寄贈された日本建築「松風荘」(しょうふうそう)で、関係者約40名を招待したイベントが開催された。千住氏本人も活動の拠点であるニューヨークから家族と共に駆けつけ、作品の主旨、芸術観、現在進行中のプランなどについて熱く語った。

1953年、ニューヨーク近代美術館の中庭に吉村順三氏の設計で建てられ展示された書院造建築「松風荘」は、その後フィラデルフィアのフェアマウントパークに移築され、1958年同市に寄付された。しかしその後管理が不十分であったため廃屋化が進み、一時期は目も当てられない状態に。建国200周年にあたる1976年、フィラデルフィア市長の依頼により日本の有志が資金を募り、大規模な修理がスタート。1982年に「松風荘友の会」が市から管理を引き継ぐ。そして破壊されてしまった東山魁夷氏の襖絵に代わり、千住博氏の「ウォーターフォールシリーズ」20点が奉納され、2007年5月から一般公開されている。

「アートとはコネクトするもの、ハーモニーだ」と千住氏。「何のアイデアも持たずに松風荘を訪ね、耳を澄ませたところ日本庭園から滝の音がしました。この空間に一番美しいハーモニーを奏でるものを作ろうと思ったのです」。庭園にある木、石、花、全ての色をカラーチャートで出し、それらを混ぜたものが滝の背後の独特なベージュ「松風荘色」となる。保存環境を考慮して動物性の膠ではなく、アクリル絵の具を使用したが、それはアメリカが生み出した技術と日本画の世界の融合でもあった。「日本人、アメリカ人というのではなく、みんな同じ人間だという、ピースメイキングプロセスなんです」という言葉に、一貫するコンセプトが明快に打ち出されている。

2009年4月30日木曜日

2009年4月21日火曜日

But it's only a pipe dream.

4月20日は大麻サブカルチャーにおける特別な日である。カウンター・カルチャー的祝日ともされ、愛好者は集い摂取を楽しむ。4月20日が選ばれた理由は諸説あるが、1971年、カリフォルニアにあるサン・ラファエル高校の学生達が、放課後の4:20PMにパスツールの銅像の前に集まって吸っていたのが由来、というのが有力のようだ。

もちろんのこと大麻はアメリカ国内でも違法である。が、日本におけるそれとは全く扱いが違う。入手はいたって簡単だし、罪の意識も非常に低く、街を歩いていて独特の草っぽい匂いが漂ってくることも少なくない。「違法は違法だけど、大した問題ではない。むしろヘロインやアヘンに比べれば人体への害もほとんどない」という認識が圧倒的だ。罪も摂取そのものより、売人に課せられるものの方が遥かに重い。

メキシコの議会では密売組織を弱体化させるために、大麻を合法化してはどうかという議題が上った。オバマ大統領も先月のオンライン・タウンホールで「経済救済策として大麻を合法かするというのはどうか?」という主旨の発言をしてしまい、窮地に追い込まれた。

注)この箇所に関して「『経済救済策として大麻を合法かするというのはどうか?』というアイデアは、市民がオバマに尋ねたものであり、オバマは苦笑しつつも『良いアイデアではない』として却下したはずだ」とのご指摘がありました。読解不足をお詫びします。

そして先ほどNPR(National Public Radio)の放送を聞いていたところ、「もし大麻が合法化したらどうなるのか?」という仮説によるシナリオが描かれていて興味深かった。

大麻が合法化して2年の月日が過ぎ去った。アルコールと同じように21歳以上(アメリカの最低飲酒年齢は21歳)がライセンスを持った診療所からグラム単位で購入可能。課税対象商品となっている。幸せになった人も多いが…。と始まる。

著名なバラード歌手で、大麻通で知られるウィリー・ネルソン(76歳)は「賛否両論だね」と言う。「ムショにぶち込まれるこたあなくなったけど、おかげで古くからの売人仲間は仕事にあぶれちまってよ」

テキサス州オースティン。大麻合法化により、「オート・ウィリー」のようにかつては違法だった大麻用品販売店は取引が急増。マネジャーのダグ・ブラウンは、喫煙効果を和らげる円錐型の装置を指差し「これは高いよ。575ドルだ。入手困難でね」と言う。また彼は新規顧客に老人が多いことにも気がついている。「より富裕層、より楽しい人たちさ。大麻未経験だったけど合法化によって試してみようと決意したんだね」。

というように「架空の」事例が延々と続く。かつては密売組織が牛耳っていた大麻売買を、国家をあげて輸出戦略として売り出したメキシコ。だが合法化したとはいえ、コカインやヘロインといった違法薬物を密売する業者が後を絶たないという現状のリポートなど、なかなか真に迫っている。

NPRは最後にこう結んでいる。
「現時点では、合法化が大麻狂を発生させるか、単に人々にくつろいだ気分をもたらすかといった話題は、興味深い室内ゲームである。ただ、はかない希望に過ぎないが」(But it's only a pipe dream.)

番組ホームページのリスナーアンケートの調査によると、集計件数7,227件のうち、大麻合法化に賛成:91%、反対:4パーセント、賛成だが医療目的に限る:4%。

2009年4月19日日曜日

外来種の襲撃

「アメリカザリガニ」とアメリカ人の友人の前で言ったら「そんなもん知らん」と。
「ええっ、ザリガニ(crawfish)の赤いのだよ」
「ザリガニは知っているし、小さい時によく捕まえて遊んだけど赤いものなんかみたことないよ」

調べるとアメリカザリガニ(Procambarus clarkii)はミシシッピ川流域を中心とした北アメリカ南東部が原産。日本には1927年、ウシガエルの餌として持ち込まれたそうです。ウシガエルの養殖池から逃げ出した個体が持ち前の適応力で生き残り、1960年頃には九州まで分布域を広げたというからすごい。別名は「red swampcrayfish」「 Louisiana crawfish」などと言うようで、ペンシルベニア州にはあまり縁のない生き物だと言うことが判明しました。

逆にジャパニーズ◯◯という外来種はあるのかと聞いたところ、口を揃えて教えてくれたのが「Japanese Beetle」(マメコガネ)。

ウィキペディアの引用によると、

1916年にアメリカ合衆国のニュージャージー州・リバートン(Riverton)で発見された。これらはアメリカで甲虫類の検疫が始まった1912年以前に、日本から輸出されたアヤメの球根に幼虫が紛れて移入したものと考えられている。以後、マメコガネは天敵の少ない北アメリカで一気に分布を広げ、重大な農業害虫となってしまい、太平洋戦争時には「日本憎し」の宣伝材料にマメコガネも使われたほどであったといわれる。日本発の外来種であることから、現地では"Japanese beetle"(ジャパニーズ・ビートル)と呼ばれて嫌われている。

だそうです。おやまあ。知りませんでした。USDA(United States Department of Agriculture /農務省)のHPにも害虫として載っていました。
http://www.aphis.usda.gov/plant_health/plant_pest_info/jb/index.shtml

「子供の頃大量発生して、2ケ月くらい大変だったんだ。外を歩くと顔や体中にぶつかってきて最悪だったよ。パールハーバーの再来かと思ったよ」
とまあこのくらいの冗談は聞き流さないと(笑)。

Japanese Beetle専用のトラップが庭に仕掛けてあり、朝になると虫がわんさかかかっていたとか。 トラップはこんな感じです。
http://www.youtube.com/watch?v=HJ5NZm_ws7Q&feature=related

アメリカはちょっと郊外に行くと、こういった広い芝生付きの一軒家が並んでいます。ホームセンターに行くと芝刈り機や、ガーデニングキット、BBQセットが売られており、郊外生活者の日常が垣間みられます。

2009年4月15日水曜日

自炊生活 in Philadelphia




私は料理が大好き。なんだかんだ言って、自分で作ったものが一番美味しいんですよね。今日の夕食の3品。

『ホワイトアスパラガスのサラダ』
春の風味ホワイトアスパラガス。八百屋で大量に手に入ったので、ピーラーでしっかり皮を向き、レモン汁、砂糖、塩を少々加えた水で煮て一晩寝かせておきました。シャキシャキした食感がたまりません。醤油をたらしたマヨネーズをゆで汁で溶き、アスパラガスとゆで卵を和え、粉末パプリカをまぶせばこじゃれたオードブルに。

『ごぼうと牛肉の煮物』
ごぼうは英語では "burdock"。でもアメリカ人でもこの単語は知らない人が多い。韓国系スーパーかチャイナタウンで仕入れます。薄切り肉は日本の家庭料理には欠かせませんが、アメリカのスーパーでは売っていません。こちらも韓国系スーパーで大量購入。小分けにして冷凍庫で保存し、少しずつ使っています。
下茹でしたごぼうと牛肉を酒と醤油と砂糖で煮込む。ごぼう独特の歯ごたえと香りがたまらなくウマい。木の芽でも散らせば完璧ですが、そんな洒落たものはさすがに手に入りません。七味唐辛子でもけっこういけます。

『鮭の照り焼き』
フィラデルフィアでは鮮魚には恵まれないので、必ず火を通します。こちらは生姜の絞り汁、醤油、日本酒に一晩浸してフライパンで焼きました。生姜の力は絶大です。臭みが飛んで品のある仕上がりに。

こうした食事を毎日取ればアメリカでも肥満知らず。健全な魂は正しい食生活に宿る。と思いませんか?

2009年4月13日月曜日

赤恥


先日の桜サンデー(Sakura Sunday)でのこと。大盛況のお土産物屋のヘルプに入り、扇子や唐傘といった日本グッズを売りさばいていたところ、初老のきつーい顔のおばさまが登場。

「私は著名なライターで某誌でコラムを書いているんだけど、この桜祭りの情報は事前に全然送られてこなかったわ。ちょっとおかしいんじゃない。どういうことかしら」

を息巻く。この忙しい時にそんなこと言われてもなあと、「すみませんねえ。今後は送るように言っておきますよ」と適当に誤ってすませようとしていたら、『Phila-Nipponica フィラデルフィアと日本を結ぶ歴史的絆』というフィラデルフィア日米協会が発行している冊子を発見されてしまった。これ、なかなか優れた本で英語と日本語の両方で書かれており、内容も充実しているのだが、なんと彼女はそれをタダでよこせと。

「ええと、これ売り物で10ドルなのよ。ちょっとタダでは差し上げられないわ」

と言うのに
「だからコラムで紹介してあげるって言っているでしょう!タダでくれるべきよ。はいこれが私のPRESSカード。ねっ、いいでしょう」と。

もの凄い剣幕に押されながらたじたじと、でも絶対にあげるまいと抵抗していたらそのままの口調で

「ちょっとあなた、気をつけなさい。そこ開いているわよ。危険だわ!」
なんのことやらとっさに分からず、慌ててチェックしてしまいました。


ズボンのチャック…。


爆笑する彼女。はい、違いました。開いていたのは寄付金BOXの蓋で、お札がひらひらしていたのを注意してくれていたのです。ああ恥ずかしい。

おかげで少しトーンダウンしてくれましたが、結局冊子は渡しませんでした。あとから聞いたところ、やっぱり以前からちょっとしつこく問合せをしてくるメンドクサイ方だったそうで、あげなくて正解だったようです。

2009年4月10日金曜日

花の季節




フィラデルフィアにも本格的な春が訪れました。午後5時を過ぎると、レストランやカフェの路上のテーブルでワインを楽しむ人々の姿が見られます。

街のあちこちに植樹された桜(cherry blossom)の木々も今が満開。日本の桜の名所のような迫力ある古木はありませんが、細い幹の若木でもこんなに立派に花をつけてくれるのかと胸がいっぱいになります。太く長く逞しく生きるんだよとエールを送り、そして自分もエネルギーをもらっています。

桜の一足先に、白い可憐な花を一斉につけるのが梨(pear)の木。街路樹として並んでいる通りはまるで、純白の花嫁たちが降り立ったような美しさ。背が高く扇のように細い枝が広がるこの木は、風を受けると花々が波打つようにそよぎます。

ハナミズキ(dogwood)やマグノリア(magnolia)も、鮮紅色の豊かな花冠を艶かしく揺らしています。少女たちが花びらを皿代わりにままごとをするのでしょうか?

レンガ作りの古い町並みに花々の映えること映えること。散りゆく儚さに「しづ心ない」春とは違い、アメリカで見る花は桜を含め、その柔らかさの中に芯のある強さを感じます。見る者の精神状態にもよるのでしょうが。

自然から教えられることは多い。明日もタフに生きようと思うのでした。

2009年4月8日水曜日

Sakura Sunday 2009





4月5日(日)、12周年を迎える「スバル・フィラデルフィア桜祭り」最大のイベント、『Sakura Sunday』(桜サンデー)がフェアマウントパークで開催されました。

フィラデルフィア市長のマイケル・ナッター氏や、日本から駆けつけた桜の女王らによる開会式&植樹式に始まり、メイン会場では日本舞踊や和太鼓の披露から、コスプレ愛好者によるショー、ビジュアル系Jロックバンド『音影』のライブまで多種多様な日本文化が紹介されました。武道セクションでは合気道や居合道。別会場ではお茶会や折り紙、書道、数独の紹介など、盛りだくさん。

晴天に恵まれ、会場となったフェアマウントパークは40000人の人出となり、祭りは大成功。年々規模が大きくなっていくこの祭り。運営本部のフィラデルフィア日米協会のメンバーは、実は私を入れて4人しかいません。本当に多くのボランティアの方に支えられてこの祭りは成功となりました。非営利団体である日米協会は寄付金によって成り立っています。メインスポンサーの「スバル」に始まり、個々の寄付や、メンバーシップの会費でどうにか形になりました。この不況下、ここまでこぎ着けたこと自体奇跡だと思っています。

前日までかたく蕾を閉じていたソメイヨシノも、陽気と熱気に押されるようにほころびを見せてくれました。ピンクの彼岸桜や「white fountain」という名の白いしだれ桜(日本ではあまり見ません)は満開となり、名実ともに「桜祭り」となりました。

私は主催のフィラデルフィア日米協会のスタッフとして、シャトルバスでの集金から、各種メディア対応、お土産物屋の運営、インフォメーションデスクでの対応、そして観客が去ったあとの撤収作業まで、一日中目が回るほど忙しかったです。日焼けもしてしまいました。

そして誰もいなくなった夕暮れのフェアマウントパークの噴水を見つめている時に、安堵感と大きな幸せを感じました。大きなトラブルもなく、お天気に恵まれ、笑顔で楽しむ人々をこんなに見られて、今までの努力が実った充足感が全身満ち溢れました。

今度は個人的にお花見に行きたいな。

2009年3月27日金曜日

背中のタトゥー


昨晩は日本とのコネクションを深めようと、シティバンクが開催したソーシャルネットワーキングレセプションに、フィラデルフィア日米協会のスタッフとして参加し、桜祭りのPRをしてきました。

閉店後の某支店で開催されたパーティーにはKIRINからのビールの提供、近所の日本食レストランからの寿司のケータリングと、なかなか豪華。ワインや日本酒もありました。日本とのビジネスを展開していたり、希望をしている方々、また日本文化に興味を持つ方など、50人くらい集まったかしら。和気あいあいとした楽しい会となりました。

デコレーション用に折り鶴を幾つか作ったところ大人気。一枚の紙から立体が折りあがる様子は"Amazing!!"だそうで、私は折り紙は苦手で鶴くらいしかできないのですが、臨時折り紙教室状態になってしまい、うさんくさい講師を務めてきました(笑)。

さらにさらに、皆さん酔いが回ってすっかり盛り上がってきたところ、シティバンクの顧客だというスウェーデン人の女性に

「私、以前に酔った勢いで背中に漢字のタトゥーを入れちゃったんだけど、意味が分からないのよ。ずっと知りたかったんだけど、ちょっと見て教えて頂戴」
とセーターをぐいっと持ち上げて見させられたのは、白い肌に黒字で彫られた

「歓勢魂愛」

うーん。それは中国語なのか?漢詩の一部なのか?そのコンビネーションでどういう意味になるかはよく分からないけど、一つ一つの漢字の意味なら、と

welcome/momentum/soul/love

と教えてあげました。自分では見えないというので漢字も書いてあげたところ大感激され、長年の謎が解けたと(笑)。いいのかなあこんな説明で。

アメリカにいる人のタトゥー率はかなり高く、入れることにあまり躊躇しないようですが、それにしても酔った勢いで意味の分からない漢字を体に彫ってしまうって…。

「歓勢魂愛」
まっ、素敵な漢字のコンビネーションよ!と大いに褒めてあげましたが。

2009年3月23日月曜日

フィラデルフィア偉人伝② 人形師、山本保次郎



1907年から1927年の20年もの長期に渡りフィラデルフィアに滞在し、今はなき「フィラデルフィア商業博物館」に勤務した人形師がいた。山本保次郎(1865-1941)。明治から昭和初期の三代にわたって、皇族や財界人らに愛された人形師「永徳斎」(えいとくさい)一族の第三代目となった人物だ。

彼は1904年、セントルイス万国博覧会にて日本の茶業組合の展示コーナーの陳列装飾担当者として39歳にして来米。間口二間、奥行二間の御殿風の部屋の中に、茶の湯の式に望む等身大の美人人形二体を配するという大掛かりなものであった。この万博会場で、のちにフィラデルフィア商業博物館の設立者となる、ペンシルベニア大学生物学教授ウィルソン博士と出会ったと思われる。

万博終了後、一旦は帰国したものの1907年に再来米。フィラデルフィア商業博物館の展示用生人形や模型の製作に従事した。まだCGによる解説や、展示用ロボットがなかった時代、ジオラマや人形モデルを利用した展示は今以上に効果的であったであろう。詳細につくられた等身大人形で世界諸国の生産労働や風俗を表現。

彼のフィラデルフィア滞在中の作品は、テンプル大学に小型のものが3体残っているだけで、その足跡は謎に包まれたままある。しかしそれらの作品から、彼が伝統的な愛玩用の日本人形の枠を超えて、より写実性を追求し、大胆な表現形態を模索したことが見て取れる。帰国の翌年、二代目であった兄が亡くなり、保次郎は三代永徳斎を継ぐのである。


※これは「週刊NY生活」NO.246、『フィラデルフィア偉人伝』シリーズに筆者が寄稿した原稿の転載になります

2009年3月20日金曜日

鼓童










フィラデルフィア桜祭りのメインイベントの一つでもある、和太鼓芸能集団『鼓童』の4年ぶりの公演が3月17日(火)の夜、同市内のキンメルセンター・ヴェライゾンホールでおこなわれ、会場を埋め尽くした約2400人の観客を魅了しました。

女性4名を含む若手14名のパフォーマーで構成された今回の北米ツアーは、躍動感と軽快さが特徴。大太鼓の連打に圧倒され、小型の締太鼓の合奏が編み出す小波のような繊細な音色に耳を傾け、踊り子や篠笛が盛り上げるお囃子の調べに体を預け、そして最後は割れんばかりのスタンディングオベーションが会場を揺らしたのです。

『鼓童』は1981年、ベルリン芸術祭でデビュー。多様な文化や生き方が響き合う「ひとつの地球」を目指し、「ワン・アース・ツアー」というタイトルで世界各地をめ ぐり、これまでに45ケ国で3100回を越える公演を行っています。北米ツアーは3月27日のワシントンDCで終了。5月からはヨーロッパツアーが始まるそうです。

彼らは古典芸能の伝承者ではなく「パフォーマー」なのだなあと強く感じました。どうしたら海外の観客を引き付けられるか、よおく研究を重ねている。笑いあり、華あり、迫力ありと、飽きさせないように上手に構成されていました。それを「媚び」とか「迎合」だと言ってしまうとあまりにも冷たい。そこで躍動する鍛えられた肉体には嘘は無い。結果やセオリーではなく、進化し続けようとする生き様に”気”とか”エネルギー”をもらう。それが生の舞台を観る醍醐味なのかもしれませんね。

私は昨年同様、懲りずに振袖姿で桜祭りをPR。だから何歳なんだって話ですが(笑)。チラシを配ったり、イベントのPRをしたり、お仕事、お仕事。着物の威力はすごい。ジーンズ姿だったら振り返りもしないような方々から、カメラを向けられ気分はモデル。即席ヤマトナデシコだか、インスタント芸者だか…。
えっ?馬子にも衣装?

2009年3月19日木曜日

いくら緑だからって…


昨日はSaint Patrick's Day(毎年3月17日に行われるアイルランドの守護聖人であるパトリックを祝う祭り)。緑色の物を身につけて祝う日で、「緑の日」とも呼ばれるそうです。 アイルランド系やカトリック教徒以外の者も参加することが多く、北米のニューヨークやボストンなど、アイルランド系移民の多い地域・都市で盛大に祝われるようですが、ここフィラデルフィアでも数日前から街は緑色の衣装や帽子を身につけた人であふれ、アイリッシュバーには人だかりができていました。まあ、楽しく飲む口実ですな。
で、昨日かなりぎょっとするものを見つけました。ご覧の緑色のベーグルに、緑色のクリームチーズ。いくら緑の日だからってこれは…。食べ物につける色ではないでしょう?!
時折アメリカ人のセンスを疑いたくなります。一口だけ齧ってみましたが、まあ味は普通のベーグルとクリームチーズでした。
でも…。
ねえ…。

2009年3月16日月曜日

一時帰国の感想

先日、2週間ほど日本に帰った時に強く感じたのですが、特に東京という大都会を歩いていると、人々が大衆という”無”の中に個を溶かして、意志ではなく”気配”を漂わせて、理解ではなく”察する”という圧力をかけたりかけられたりしながら、暗黙の均衡を全体で保とうとしている。そのバランス感覚たるやすごいもので、これが共産主義国的な教育を施した結果でないとしたら、逆に洗練された感性の文化なのかしらとも思いました。(いや多分ある意味共産主義的な教育を施しているのですが)自己主張するのを美徳とせず、なんらかの型(満員電車の通勤客、会社員、OL、無言の通行人)に自分を当てはめて演じきることにより、1日を無難に回していく。様式美というか型の文化というか。

見た目だけではありません。話し方からも同様の印象を得ました。婦人服売場の販売員はなぜあんな独特の高音で「いらっしゃいませー、こんにちはー、どーぞー。ご覧下さいませー」と語尾を伸ばしてオールリピートをかけてくるのだろう?チェーンのレストランや飲食店でも同じく浴びせされる「笑顔」と「かけ声」。何か言うと「へー、そうなんですねー」という小馬鹿にしたような相槌。この薄っぺらい接待の型に順応することによってマシンとなり、考えることを放棄しているとしか思えない、消費者もそのthe 接待を受けることにより「私は消費者である」という安心感を得ている。
私がここにいられるのは、その役割をもらえたから。

日本国内だけでなく、ニューヨークにある日系の人材派遣企業に転職し、最近研修を受けたばかり友人の話にも衝撃を受けました。その会社のイメージにあった社員を作る為にまずは、見た目、そして所作から教え込んでいくのですね。お酒のつぎ方、大きすぎるイヤリングはダメ、お化粧は程々に、カラフルなバッグは相手先の印象を悪くしたり、汚れるのではと気にされてしまうから、そういった心配を先方にかけないために色は黒にすること。あなたニューヨークにいるのに…。自由とファッションの街にいるのに…。

どうなんでしょうね。こういった研修をフムフムと問題意識を持たずに聞き、受け入れていけるものなのでしょうか?日本にいる日本人の人々は。私はこのバッグのくだりには特に疑問をもってしまいましたが。お洒落なバッグを持っていたら、「素敵ですね!」をそこから話題が盛り上がり、ビジネスも上手くいくのではと思うのですが。なぜそこまで規律を重視し「個」や豊かさを無理矢理消したがるのだろう?

私もかつてセールスの仕事をしていたことがあり、地獄の「マニュアルトーク研修」の劣等生だった記憶がありますから、企業の狙いが分からないわけではありません。

で、そんなことでいいのかな〜と思うのです。型や規範によってオートメーション化された工場で「人材」や、あるいは「消費者」が大量生産され、思考回路まで支配されていく。大きな視点で、おおきな、おーおーきーなー視点で捉えて、考えてみて下さい。果たしてこれで人間として、幸せなのでしょうか?このまま、この国は突き進んで良いのでしょうか?新たな芸術や文化は芽吹くのでしょうか?子供達は幸せに育つのでしょうか?

というようなことを言い出す異分子には変人のレッテルを貼られ、企業や社会にそぐわないということになり、さらに労働者としては、この不況下「特にいりません」と追い払われるのでしょうね。くわばら、くわばら。

ま、ようは私がどう生きるのかが問題なのですが、いままでどう生きてきたか、どう生きてこさせられたかを、どうしてあんなに生きるのが辛かったのかを、母国で他人を鏡に再体験した旅となりました。

ゲイルとの再会


ゲイル姉さんは逞しい。彼女と出会ったのは日本人とアメリカ人(あるいは他の国の人)が週1回フィラデルフィア市内のカフェに集まり、互いの言語を勉強しましょうという勉強会にて。

結婚まで考えていたボーイフレンドの浮気に激怒。彼の顎に強烈なパンチを食らわし一緒に住んでいた家を飛び出した。連日自宅に籠り大失恋に泣き明かし、ピザを食べまくった結果「かなり大きめ」になってしまったが、顔立ちはなかなか愛くるしい。そして、建築家という素晴らしいキャリアも持っている。
友人が日本で英会話の教師をしていたことから、ここいらで心機一転日本へ行き私も英語の教師になろうと。気持ちを切り替えて人生を再スタートするわ。とはいえ、日本に行くのも初めて、日本語も1から勉強。なかなかの決断力である。

彼女とはよく遊んだ。アトランティックシティにある彼女の父親の家に呼んでくれたり、友人もたくさん紹介してくれた。パーティー大好き、姉御肌の気さくな、そしてめっちゃパワフルで、非常に気が強い。でも根はとても優しい、という全てがオーバーサイズ気味のアメリカンガールに、私のフィラデルフィア最初の1年は、振り回されたというか、お世話になったというか。日本へ旅立つ送別会では、巻寿司を作って持っていき押しつぶされそうなビッグなハグをもらった。

そして私の帰国の折に日本で再会しようと約束。アメリカに戻る前日、成田のホテルを取ったことを知った彼女は
「私の家は勝田台よ。成田のホテルなんかキャンセルして私の家に泊まりなさいよ。昼間は学校で教えているからその間はあなたは昼寝してて。夜9時ごろ戻るから夜を徹して飲み歩きましょう。飛行機で寝て帰れば時差ぼけもないし、バッチリじゃない」
と相変わらず強気のオファーを。はいはい。言うことを聞きますよ。

勝田台の駅前で待ち合わせ、驚いた。なんとまあすっきりとしたこと。
「日本食は痩せるわね。毎朝、卵かけご飯を食べているのよ。持ってきた服がブカブカになっちゃたわ。今は日本のLサイズの服が入るのよ」
日本語も随分上達していた。散歩しながらいつもiPodで日本語のプログラムを聞きながら音読しているとのこと。

そしてすっかり地元に馴染んでいた。行きつけの居酒屋を1人で開拓し、扉を空けると「ゲイルさ〜ん」と声をかけられるまでになっていた。その夜、語り尽くしながら回った居酒屋は記憶の限りで言えば4軒!行ってみたかったけどホステスバーと区別がつかないからついてきてと、共に開発したところも1軒。

「もうすぐパパが遊びにくるの。英会話の教室に連れて行って生徒をびっくりさせるつもり。だって彼すっごく大きいでしょう。その後一緒に沖縄に行くの。石垣島も。だからユウキュウ(有給)を貯めているのよ」

「若い女性の生徒さんたちがニューヨークに行きたいって盛り上がっているんだけど、This is a pen.くらいしかしゃべれないのよ。絶対に無理だわ、と思って空港にうちの弟を迎えに行かせることにしたの。ね、彼ものすごくハンサムで、優しい子でしょう。彼女たちは彼の虜になるわ。そしてそのあとパパが彼らを連れて観光案内をして家にも泊めてあげることになっているの」

姉御肌のところは相変わらず。優しさも、美しさも増して益々輝く彼女に圧倒された。異国の地で生き抜くという意味では私も彼女も一緒。励まし合って、パワーをもらって、日本最後の夜は過ぎていった。

「日本にきて何が一番自分の中で変わったと思う?」
「すこし静かになったかしら。色々と考えるようになったわよ」

飛行機の中で飲みなさいと睡眠薬までもらったが、実際必要なかった。ぐっすり眠って時差ぼけ知らず。

2009年3月13日金曜日

フィラデルフィアに帰ってきました


昨夕、フィラデルフィアに戻ってまいりました。そうここ2週間は日本にいたのです。渡米以来初の帰国でした。「凱旋帰国」でも「強制送還」でもなく、まあ1年5ヶ月ぶりだし、諸々用事もたまってきたのでここいらで1回帰っておくか、といった感じでした。連日ビジネスとプライベートと、両方のアポが入ってしまい、文字通り目が回るほど忙しかったです。

さらに2週間「東横イン」暮らしはしんどかった。いやね、安価な割には適度なサービスが行き届いていて、いいホテルだと思うのですが、2週間も暮らすところではないですね。

まあ久々に母国の地を踏むと面白いもので、日本がとっても不思議な国に見える。またおいおい考えをまとめていけたらなあと思います。ただ食べ物はやはり素晴らしいですね。日本人に生まれて良かったと思うのは、本当に美味いものを食べるた時、舌が喜んで口の中で踊ること。「嬉しいなあ。美味しいなあ」って舌が跳ね回るんですよね。私は決して美食家ではありませんが、この幸せを知っているかいないかで、人生変わるんじゃないかと思ってしまいました。ジャンクフードだけ食べていると不健康なだけでなく、食べる喜びという大きな幸せを知らずに終わっちゃうんだろうなあ。満たされないから大量に摂取して肥満になるんでしょうね。

シカゴ経由でフィラデルフィアに戻ってきました。快晴のシカゴ上空から見下ろす、湖畔の摩天楼の街の美しさに胸を打たれ、ああまたこの国に帰ってきたのだとドキドキしてきました。ところがその後、入国審査の指紋採取で引っかかり、理由も告げられず係員に別室へ連行されてしまいました。なぜだ?!前科はないはずだゾ、と首をかしげてしばらく待たされ、やはり問題はなかったようで、特に何も言われないまま解放されましたが、あまり嬉しいものではありませんね。

そして追い打ちをかけるように、フィラデルフィア行きの便が遅れに遅れ、結局キャンセルに。同じユナイテッドの後の便にチケットを変更しろと言われたものの、すでにウェイティングリストには多くの名前が。満席で次の便にも乗れず、5時間も空港で待つはめに。まっ、おかげで本を一冊読み終わることができました。日本で購入した村上春樹の旅エッセー『辺境・近境』。メキシコ大旅行、ノモンハン、アメリカ大陸横断から、讃岐うどん巡りの旅まで、なかなかディープな旅を楽しみました。

次回は日本に帰るための資金を、他の国への旅行代に回してもいいなあ。

2009年2月19日木曜日

日本人とは…

私は今、日本とフィラデルフィアの架け橋となる事務所で仕事をさせていただいています。主に文化的な分野での仕事ですが、そうなると如何に「日本文化」的なものに疎かったのか思い知らされます。

海外で国境の差の無いグローバルなテーマに取り組んで生きていける人は別として、英語もそこそこのまま外国人として一から仕事の機会を得ようとするとその門戸は意外に狭い。何かかしら母国の文化を伝えるという形に集約していくのが妥当な線であるというのは、好むと好まざるとに関わらず受け止めなければ行けない事実のようです。

そうなると「華道」であれ、「茶道」であれ、「着物の着付け」であれ、「寿司職人」であれ、手に職というか、一芸に秀でている人は非常に強い。アメリカ人を対象にしたビジネスはもちろん、外に出て初めてアイデンティティの喪失を味わった日本人在住者もマーケットとなるわけですから。

かく言う私も、日本にいる時はこういった世界に見向きもしませんでした。「日本人論」的な世界が、どうしても偏狭な「愛国心」に結びついてしまうのではという恐怖から逃れられなかったのですね。さりとて、欧米至上主義やもっと他の国の価値観へのめり込むような度胸というか、きっかけもなかった。日常を日常として生きてきただけで、客観的に己を取り巻く世界を捉えようという発想にいたらなかったわけです。まあ私に限らず、多くの人がそう生きているのではないかと思うのですが。

で、海外にでると「お前さんは何者なのか?」という問いにぶつかるわけです。これは避けようが無い。まずは、シンプルに見た目から判断されてアジアンに括られる驚き(これは驚きです。日本人も中国人も韓国人も台湾人みんな一緒ですからね。アジアンという意味では)と、そこから違いを訴えたいという切なる思いが生まれる。また私個人に興味を持ってくれた場合「日本はこういう国なの」と言わなければならない機会の多さに、上手く説明できないもどかしさを感じる訳です。まあ1に英語がままならないというのがありますが、2に「そんなことよう知らんわ」という、無知の知にぶつかるのですね。相手を訝しがらせてしまう。「だってあなた日本人でしょう」と。

実家には仏壇も神棚もあった、宗教的に言えばごく一般的な家庭だったと思いますが、実際のところ無宗教の部類に入ると思います。祈ったこともなければ、信ずる神もいません。墓参りもしたことがない。また家系図も見たことが無いので、遠くまで遡ればどこか他の国の人の血が混じっているかもしれませんが、多分普通に「日本人です」と自己紹介する他ない生き物なのだと思います。

これがアメリカにいるとそうはいかない。宗教的な差異は実生活に確実に反映されていますし、また◯◯系アメリカ人と言われる人々は、強烈にそのアイデンティティを意識して生きている。結婚を目前にしたユダヤ系アメリカ人の友人はきっぱりと「子供はたくさん欲しい。だってユダヤの血を残したいから」と言い放ち、フィンランド系の血を引くフランス人の友人は「日本人の奥さんが出来たら、僕の子供には多くの血が流れることになる。それも楽しそうだなあ」と嬉しそうに言う。

そういう人たちに「日本人ってなんなの?」という質問をされて、初めて動揺して考えるはめになるんですよね。まさしくこれは、新渡戸稲造が『武士道』を書くきっかけとなったのと一緒の理由。名著だかなんだか知りませんが、彼はベルギーの法学博士ド・ラヴレー氏に「あなたのお国の学校には宗教教育はない、とおっしゃるのですか」との質問を受け、日本の道徳教育についてなにかしらまとめなくてはいけない義務感にとらわれる。そしてそれを「武士道」に集約させることで自分を納得させた。『武士道』は英語で書かれたんですよね。だから。それも書いたのはフィラデルフィアでなんですよ。

まあ日頃考えて生きてきた訳ではないので、付け焼き刃的にまとめようとするとボロが出る。不安定な精神状態を強いられるのを嫌い、広く知られる日本文化的なものに身を寄せるのも手ですが、結局のところ私はそれですっきりできる生き物ではないのですね。悶々と生きるしかない。

ペンシルベニア大学はイースト・アジア研究が盛んで、図書館にもかなりしっかりとした日本語コーナーがあります。日本の小さな図書館なんかは比べようも無いくらいの素晴らしいコレクション。本の森を彷徨い歩くと、悲しいかな、結局のところ「日本人論」のセクションにたどり着いてしまう。そしてその手の本の多さに呆然となります。いったいどこから手を付けて良いのやら。とりあえず『日本人は思想したか』という吉本隆明vs梅原猛vs中沢新一の鼎談本を借りてみました。

さて、読んでみますかねえ。

2009年2月16日月曜日

フィラデルフィア偉人伝① 岩倉使節団



岩倉具視を特命全権大使とした「岩倉使節団」は、近代国家日本の指針を求めて明治政府が欧米諸国に派遣した公式の使節団である。

1871年12月に横浜港を出発し、帰国したのは約1年10ケ月後の1873年9月。そのうちフィラデルフィアに滞在したのは1872年6月22日から25日の4日間。この間彼らは合衆国造幣局、フェアモントパーク、州議事堂(現独立記念館)、蒸気機関車の製造工場などを視察して回った。

一行がとりわけ注目したのが造幣局。使節団に随行した歴史学者の久米邦武がまとめた旅行記『米欧回覧実記』には、鋳造過程や貨幣のコレクションの見学の模様が詳細に描かれており、明治政府が対外貿易のため諸国との交換率を定め改鋳した新しい貨幣「円」の行く末を、彼らが見つめていたことがうかがえる。

18世紀を通じてフィラデルフィアは北米最大の都市であり、独立戦争の舞台となったアメリカの自由のシンボルの街でもある。独立宣言の起草が行われ、合衆国憲法が制定された州議事堂。ここを訪れた感想を久米は次のように記している「いまでは堂々たる合衆国憲法のもとに、3億7000万ドルの歳入を持ち、世界に隆盛を示しているアメリカであるが、その起源は、この議事堂に愛国者たちが集まり、苦心を重ねながら自主の権利を勝ち得たのである。その時の状況はどのようであったろうと想像してみた」。

岩倉使節団がこの地で吸収したものは、アメリカの"技術"であり、また自力で勝ち得た"自由"と"権利"の歴史的重みであったのだ。


※これは「週刊NY生活」NO.242、『フィラデルフィア偉人伝』シリーズに筆者が寄稿した原稿の転載になります

2009年2月1日日曜日

ジョン・トラボルタの息子死亡の裏側

ハリウッド俳優ジョン・トラボルタの息子、ジェット・トラボルタ(享年16歳)の死について、ジョンが信者となっている新興宗教「サイエントロジー」(Scientology)の教義が絡んでいるのではないかというニュースが大々的に報道されている。

公にされた死因は心臓発作で、幼い頃より煩っていた「川崎病」との関連の可能性もあるとみられている。(川崎病は英語でもKawasaki Disease)。だがジェットは自閉症であったとの噂がもっぱらで、ジョンの弟で俳優のジョーイ・トラボルタも自閉症で、病を取り上げたドキュメンタリー映画を製作している。つまり遺伝子的にはありうる話。

しかし「サイエントロジー」の教義では自閉症は認められておらず、ジョンも息子の病気を否定。同教団は精神医学を真っ向から否定し、精神病を煩う人は堕落しているとみなされる。原因は心因的なものとされ、霊的なヒーリングで治療すべきだと主張。このためジョンが適切な科学治療を怠ったのが、息子の死になんらかの関係があるのではという憶測が飛び交っている。

自閉症と心臓発作との関連は不明だが、カルト集団として名高い「サイエントロジー」への、新たな非難の矛先となった形だ。ちなみにトム・クルーズも同宗教集団の信者として知られている。

私も一度街頭で「サイエントロジー」の信者に声をかけられたことがある。最初は宗教名を口にせず、「911」やハリケーン等の被害者を助けるボランティアの活動の報告をしているから見ていって、とテントへ案内。暇だったのでついていったところ、
「あなたは精神的に落ち込んでいませんか?」
「あなたは夫婦関係が上手くいっていませんか?」
「あなたは仕事上の悩みがありませんか?」
と質問攻めにされ、「そんなあなたにオススメの本やプログラムは…」ときたので、自己啓発系のセミナーか新興宗教に違いないと思い、問いただしたところ「サイエントロジー」と判明。かねてから良くない噂を聞いていたのできっぱりと
「サイエントロジーなら興味ないです」
と突き放したところ、それまで説明をしていたまだ高校を卒業したばかりのようなあどけない少女は口をつぐみ、ぞっとするような裏切られた瞳で見つめ返してきた。長居は無用と踵を返して立ち去ったが、背中に刺さる視線が痛かった。

2009年1月27日火曜日

社交界デビュー


社交界という大富豪のみが参加できる、この上もなく豪華で排他的な世界があるということを思い知らされてきました。

土曜日の夜、アカデミー・オブ・ミュージック(Academy of Music)で、年に一度のフィラデルフィアオーケストラの里帰り公演があるから、良かったらとチケットをいただきました。そう、いまはフィラオケの本拠地はKimmel Centerというガラス張りのモダンな建築内にありますが、かつては1857年に建てられたアメリカで一番古いオペラハウス、Academy of Musicで演奏会が行われていたのです。

年にたった一度だけの開催されるかつての劇場でのコンサート。しかし意味合いはそれ以上で、この日フィラデルフィアの富裕層達が集い、彼らの子供達を社交界デビューさせる1大イベントなのですね。コンサートの後は近くのホテルへ移動して、舞踏会。全て込みで一番高いチケットは2500ドル!!これはほぼAcademy of Musicへの寄付ですね。富裕層は文化や芸術へのサポートを惜しまない。またそれが義務でありステータスであるという、まあねえ。誰もがそう生きられたらいいですよね、と肩をすくめたくなるような生活を実際送っている人々の世界。

「1階席は皆ドレスアップして来るけど、まあ3階席なので学生さんもいるでしょうし、気楽な格好で行っても大丈夫」
という言葉を信じて、それでも一応こぎれいな黒のワンピースを着て行った私。はい、劇場に着いた瞬間に大きな勘違いをしていたことに気がつきました。

ほぼ全員、正装で来ていました…。
穴があったら入りたいとは、このことです。

女性は肩から背中をあらわにした、裾を引きずったロングドレスに毛皮のコートをまとい、彼女たちをエスコートする男性陣は燕尾服。リムジンで乗り付ける人もいて、なにかの映画祭の式典にでも迷い込んだような感じ。煌めく宝石、たちこめる香水、そして観客を見下ろし燦然と輝く、約23,000のクリスタルを使用したというシャンデリア。

この燕尾服とタキシードの違い。私今回初めて知ったのですが、タキシードの方が略式なんですね。黒い蝶ネクタイをすることからブラック・タイとも言われ、アメリカでは高校時代の最後にプロム(Prom)と呼ばれるダンスパーティーがあることから、ブラック・タイを持っている人は結構います。ブラック・タイがドレスコードのパーティーもちょくちょくあります。ただ燕尾服ことホワイト・タイ(その名の通り蝶ネクタイが白い)となると、王室や政府の公式の晩餐会でもないかぎり、なかなか見ませんよね。

帰宅後調べたところ、コンサート後の舞踏会にまで参加する人のドレスコードは、男性はホワイト・タイ、女性は床に届く丈の夜会服。コンサートだけ鑑賞する人はビジネススーツかビジネスカジュアルでとありました。

久しぶりのエッシェンバッハの指揮。つかつかと彼が舞台に登場した時、楽団員は全員起立して待っていました。そして国歌の演奏。と分かった瞬間に、客席も一斉に立ち上がり胸に手を当て歌い上げます。劇場は感動の嵐に(苦笑)。
私はもちろんアメリカ国民ではないのですが、こういう場面では一応敬意を払って立つことにしています。国歌や国旗への揺るがぬ忠誠心は、アメリカは子供の頃から徹底して教育しているのでしょうが、ちょっと恐ろしいものがあるます。もう「君が代」を歌う、歌わない云々というような議論とレベルの違う、精神的なユナイトぶりを見せつけてくれます。

ベルリオーズの「ローマの謝肉祭」序曲、ブラームスの「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲イ短調」、ストラヴィンスキーの組曲「火の鳥」の最終楽章。と、ここまでは格調高いヨーロッパ的な世界が繰り広げられていましたが、後半はどんどんとエンターテイメント化してきて、フレッド・ウィラード(Fred Willard たぶん有名なコメディアン)のおどけた司会による、歌って踊れるコーラス隊のパフォーマンスが会場を一気にお平な雰囲気にしてしまいました。

そして後半はギターを抱えて歌うジェームス・タイラーとオケの共演。ジェームス・タイラー(James Taylor)というのも、まったく知らなかったのですが、グラミー賞受賞やロックの殿堂入りをしており、日本語のウィキペティアでも解説があるくらいなので、相当有名なシンガーソングライターみたいです。ご存知の方いらっしゃいますか?

コンサートの翌日、オケのピアニストの方にお会いして色々お話をうかがったところ

「最近コンサートのレベルが下がってきてポップスを取り入れたりして、観客に媚を売るようなプログラミングで、がっかりなんですよ。かつてはもっともっと格式が高くて、ホロヴィッツも弾きにきたくらいなんですのよ」
とのこと。念のために彼女にジェームス・タイラーってご存知でしたか?とうかがったところ、ぴしゃりと

「知りません!」

なにはともあれ、不況不況というものの、アメリカには日本人の想像を超えるような大富豪がいるものだと思い知らさせた夜でした。貧富の差が日本の比になりませんね、これは。ブッシュ前大統領の政策で、彼らは税制上美味しい思いばかりしてきました。さらに相続税が低いから、いった金持ちになると、子孫代々半永久的にずーーーーーっと金持ち。

フィラデルフィアの郊外、メインラインと呼ばれる一帯は超高級住宅街です。マンションと呼ばれる大邸宅(日本のマンションとは意味合いが違います。日本のマンションはこっちではアパートメントです)が、うっそうとした森の中に点在。正門から車でしばらくいかないと玄関にたどりつけないような、城のような豪邸は、一般人は見ることができません。資金集めのため、フィラデルフィアオーケストラのメンバーが、かれらの個人宅に呼ばれて演奏することもあるようです。パトロンと楽士の関係ですね。

なんと羨ましい生活。と憧れている以上、絶対に庶民から抜け出せない。努力とかそういう問題ではなく、もうどうすることもできない身分の差ですよね。うっかり興味を持って忍び込んだら、映画『アイズ ワイド シャット』(Eyes Wide Shut)のようにひどい目に遭うんだろうなあ。

2009年1月25日日曜日

雑誌と人種と平等と


アメリカにきて驚くのは「黒人のみを対象にした雑誌」の多いこと多いこと。もちろん今はオバマブームですから、表紙という表紙をオバマかミッシェル夫人が飾り、「黒人の」生き方、「黒人の」音楽、「黒人の」恋愛、「黒人の」最新ファッション、「黒人の」セックス等、雑誌のモデルもみんな黒人でしっかり意識を分けている。

白人と諸々の権利の「平等」は訴えるという意識と同時に、自らのアイデンティティーをこれでもかと打ち出して、差異化をはかっているのです。

最初はこれに本当に戸惑いを感じました。本気で「平等」を訴えるのであれば、同じ雑誌に白人も黒人もアジア系も全てミックスしたカルチャーを打ち出すのが当然ではないかと思ったのですね。

「平等」と「みんな一緒」という意識の違い。これはまったく違うのですが、今まで考えたことがなかった。多分私はこの「みんな一緒」という思考に支配されていたのだと思います。小学校の校則に反抗して以来、かなり抵抗して生きてきたつもりだったのですが(笑)

「平等」とは権利における平等であり、またその個々人の「違い」が差別なく受け入れられる「平等性」なのですね。違いとは肌の違い、人種の違い、文化の違い、宗教の違い、性の違い、性的指向の違い、等々。もちろん日本国憲法14条でも「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とはうたっていますが、日常生活において人種的に平等や不平等を意識しないといけないという状況は、あまりないですよね。

「みんな一緒」で周囲と波長を合わせて、その中で「とても小さなこだわり」をアピールするのが日本人らしさだなと思います。特にファッションの世界では。「自分らしさ」を尊重するように見せかけて、実際のところ見た目はさほど違いがない。日本へ遊びに行ったことのあるアメリカ人の友人らから、よくこのようなことを言われます。

「どうして日本人の女性はみんな雑誌からでてきたような格好をしていて、あんなに綺麗なのか?アメリカ人の女の子ももう少し気を使って欲しいよ。でも日本人はみんな見た目がそっくりだよね。あと昔から日本のビジネスマンは黒っぽいスーツにネクタイで、ファッションに変化がないよね」

まあ黒人は肉体的にも、髪質も、顔の作りも西洋系とは違うわけですから、雑誌等で黒人向けのファッションやヘアスタイルの特集を組むことは、その巨大なマーケットに合わせてサービスを提供するという、ビジネスの戦略としては間違っていない。

でも不思議なことに「黒人」の色もさまざまで、歌手のビヨンセや、元スーパーモデルで今は看板番組をいくつも持っているテレビ司会者タイラ・バンクスのように、黒というより明るい茶色に近い肌の色の方がモテるようですけどね。あと黒人の男性は白人の女性が好きな傾向があって、アジア系の女性が異常に好きという人もいると聞きます。だから黒人の女性は白人や他の人種を憎むという傾向もあるみたい。白人の女性も黒人の巨大なイチモツが好きだという人もいるし、黒人向けの雑誌だけど結局購入しているのは白人という噂も。

まあお下品は話は置いておいて、黒人向けの雑誌の市場や、雑誌数、販売部数、読者層。その歴史なども紐解いていくのも面白いだろうなあと思います。