2010年3月23日火曜日

ヨハネ受難曲


教会でバッハの『ヨハネ受難曲』が無料で聴ける。任意で寄付も歓迎との記事をみつけた時は心が躍った。本来であれば、この「心が躍る」という状態に、何かしら根拠があるはずなのだが、というよりあるべきだったのだが、例のごとく根拠なき動物的な衝動で私は吸い寄せられるように教会へ足を運んだ。バッハは好きだ。ただピアノ曲しか聴かない。それもグレン・グールドのみ。ヨハネ受難曲も聴いたことはあるはず。たしか父のレコードライブラリーにもあった。なぜか幼いころ、私は宗教音楽が好きでよくリクエストもしていた。それが何かも知らずに。

セントラルパークの西側、リンカーンセンターのすぐ近くにあるホーリー・トリニティー教会。日曜日の午後5時からの礼拝に間に合うように着いた時には、信者席はいっぱいだった。そう観客席ではなく、そこは信者の席。

コラールと男性と女性のソロパート、チェンバロと室内楽の玉が転がるような甘い呼応に、例によって簡単にカラダを許した愚かな私は、心地よさという悪魔の仕掛けたワナに落ち、意識を失った。第一部の終わりにさしかかり、両肩にひどい凝りを感じて目を覚ました時、隣に座る上品ないでたちの老女が、哀れみと怒りと少々さげすむような瞳を微笑みで包みながら、バッグから飴を出してくれた。目覚めよと呼ぶ声が、した。

第二部が始まり、回りの人が皆、入り口で受け取った薄いパンフレットをめくりながら聴いていることに気がついた。それも全員同じタイミングで、まるで譜めくりのように。パンフレットを改めて開くと、そこにはドイツ語の歌詞と英語の対訳があった。いや、むしろ台本だった。人々はこれを読みながら、理解していたのだ。

そこで稲妻のような衝撃が全身を貫いた。なぜそんな根本的なことすら知らずに、のこのこと教会に来ることができたのだろう。『ヨハネ受難曲』は『ヨハネによる福音書』の、イエスが磔刑にいたるまでの受難の物語を歌と音楽で描いたものだったのだ。イエス、死刑の宣告を民衆に迫られ、良心の呵責に苛まされる裁判官、語り部としての福音伝道者などそれそれパートがあり、彼らは歌うのではなく、調べに乗せて語る。淡々と美しく、悲しく。イエスを殺せと取り憑かれたように叫ぶ民衆はコラールが担当。時系列に沿った物語の展開のようでありながら、流れ星のごとく挿入されるアリアが、見る者の心を痛みを代弁したり、道徳的な感覚を植え付けたりと、実に多次元的に迫ってくる。大げさではなく、これは一大スペクタクルドラマだった。

神は確かに降臨し、集った民を祝福して、去って行かれた。最後の調べの短い波紋が落ち着いた時、最初に立ち上がり、掠れ声で「ブラボー」と叫んだのは、隣の席の老婦人だった。それをきっかけに皆立ち上がり、惜しみない拍手を歌い手と奏者たちに捧げた。

無料のコンサートだったが、出口には寄付を募る教会関係者がたらいのような入れ物を持って何人も立っている。たらいはすぐにお札でいっぱいになっていく。私も財布と相談して、小額ではあるが寄付させてもらった。

「解釈」や「理論」というのは、議論を巻き起こすための道具で、議論自体を楽しむためのマッチポンプ。あるいはそれに寄与すれば自分の座標が定まる、依存するための対象なのかもしれない、と帰り道、セントラルパークを歩きながら考えた。音楽にせよ、他の芸術にせよ、小説にせよ、解釈と理論と技巧と、そんなところに意識を集中させがちだ。あるいは「よいものはよい」という、分かったような分からないような精神論。

相手との関係性を読み解こうとするから苦しむのであって、その相手が自我を持たない超越した存在であれば、そういった傲慢さも雲散霧消するのである。今宵の語り部たちは、言わば巫女たち。シャーマン。扉を開けるための儀式としての宗教音楽の担い手たちに、解釈の眼差しを向けてはいけないのだ。

ソロパートを演じた歌手たちは、ジュリアード音楽院の学生や、プロのオペラ歌手。言うまでもなく、それはそれは素晴らしい完成度の高い世界だったが、ただ彼らの今宵の役割は、あちらの世界とこちらの世界を渡す船を漕ぐ船頭なのであって、個に執着した世界観とやらを展開させるパフォーマー(表現者)ではない。いや、逆にそれこそが真の表現者なのかもしれない。

2010年3月22日月曜日

コリー・ハイム


俳優のコリー・ハイムが薬物中道で亡くなっていたことを、今日ゴシップ雑誌の表紙で知りました。まだ38歳という若さだったのですね。ハリウッドの子役上がりの薬物被害者がまた出たのかと思うと、非常に胸が痛みます。実は彼が出演する映画は、1本も見たことがないのですが、でも大変記憶に残っている俳優です。

私が小学校高学年のころ、近所に住むOさんという同級生の家にちょくちょく遊びに行っていました。小遣いなし、テレビも漫画も禁止、門限は4時半、妹と同じ机で中学生用の数学のドリル毎日やらされる、毎週のように親から渡される課題図書の感想を夕食の一家団欒で話すことを要求される、というような、かなりキビシい家に育った私の目に、Oさんの生活は夢のようでした。

一人部屋には自分専用のテレビがあり、駄菓子を持ち込んで食べていいなんて! 「最近これが好きなの」と、彼女がVHSで見せてくれる『スタンド・バイ・ミー』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を食い入るように眺め、「うちのお姉ちゃんはハリソン・フォードが好きって言うんだけど、おじさんよね。私はリバー・フェニックスとマイケル・J・フォックスが好き。あと、ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックもいいよ」などと言いながらめくってみせてくれる映画雑誌『スクリーン』から溢れ出す、私の日常生活にまったく縁のないアメリカ(ハリウッド)の匂いを全身に受けてくらくらしていました。

そう、そこでコリー・ハイムという、ティーンアイドルの存在を知ったのです。コリー・フェルドマンとセットで売り出していましたね。初めて見る青い目のどこか頼り無さげな甘いマスクに、やられました。胸が音をたてて「キュンキュン」いっている感じでした。ただ、前述のとおり、うちの両親にそんな雑誌を友人宅で見ていることを話そうものなら「そんなミーハーな子とは、おつきあいをやめなさい」とでも言われかねない雰囲気だったので、雑誌を買うわけにも、映画を見るわけにもいかず、(こっそりと)彼女の家に行く度に『スクリーン』で見せてもらうにとどまっていました。

Oさんは中学校まで一緒でした。そのころにはオーストラリア留学で身につけた、流暢なネイティブの発音で、英語の教師達からも一目を置かれるようになっていましたね。一方私は「ジスイズアペン」状態でした。別の高校へ進学して、その後連絡をとらなくなってしまった彼女。コリー・ハイムの死で、久しぶりに彼女の記憶が蘇りました。当時であれだけ英語ができたのですから、今ごろその能力を発揮して仕事にしているかもしれません。

私は結果として今、アメリカで生活をしていますが、Oさんと遊ばなくなってから、ハリウッド映画や海外生活に憧れをいだくことも特になかったですね。英語の成績も大したことなかったし。でも最初に、海外には愛知県の片田舎とはまったく違う世界があるということを教えてくれたのが、彼女でした。彼女が好きといっていた子役や俳優達が、軒並み薬物のワナにハマってしまったのは残念ですが。

どこかでバッタリ彼女と再会するような予感がします。ただの予感ですが。

2010年3月21日日曜日

ハッピーサタデー


ミッドタウンで
ウズベキスタン人のスパオーナー
キルギス人のメイクアップアーティスト
フランス人のヘアスタイリスト
に会い、

ハーレムで
日本人のインテリアデザイナー
日本人のワイン専門家
に会い

ソーホーで
日本から、展覧会のために来米しているアーティストで、フィラデルフィア時代の親友と再会した。

一気に春を飛び越え、初夏の日差しのニューヨーク。久しぶりに履いたサンダルで靴擦れを起こしながら、一日よく歩いた。

会う人、会う人と
よくしゃべり、
よく笑い、
よく飲み、
心身ともに解放された、いい一日だった。
生きていて幸せ!と思えるのは、こういう時間がたまに訪れる時。

2010年3月14日日曜日

ホーボーケンへ





ハドソン川を挟んで、マンハッタンの対岸にある街、ニュージャージー州ホーボーケン。ここ数週間、仕事で何回か訪ねました。マンハッタンからはPATHトレインでたったの15分。先ほどまでの大都会の喧噪がうそのように、のんびりとした時間が流れています。

マイル・スクエア・シティと呼ばれる、1.6キロ四方の小さな街。30〜40年前は治安も悪かったそうですが、今はハドソン川沿いのウォーターフロントの開発も進み、非常に安全な街になりました。不動産価格もずいぶん上がったとはいえ、マンハッタンに比べると安い上、間取りも広いので、ここに居を構えマンハッタンに通勤する人もいます。ニューヨーク生活に疲れた人と、ニューヨークに行きたいがそこまでは行けない人の、両方が住むボーダーラインです。

ホーボーケン駅は、ニュージャージー・トランジットのほぼ全ての路線、バス、フェリーが到発着する、大きなハブ駅です。Kenneth MacKenzie Murchisonという建築家がデザインをし、1907年に建てられたボザール様式の建物です。ここの駅構内にある「The Waiting Room」(待合室)は、新古典主義のスタイルであるグリーク・リヴァイバル建築ということですが、クラシックな雰囲気が漂うものの、広々としており威圧感がまったくない。木製のベンチが温かさを演出しており、心穏やかになれるいい空間です。高い天井にはめ込まれたステンドグラスはティファニー製です。

写真をみて「あれっ、見覚えがある」が思った方はなかなかの音楽通ではないでしょうか。そう、エリック・クラプトンの名曲『Change The World』のミュージック・ビデオが撮影された場所なんですよ。

この街が誇るのは、フランク・シナトラが産まれた街であるということ、野球発祥の地であるということ、そして川の対岸にマンハッタンのパーフェクトな夜景が臨めるということでしょう。

ニューヨークにお越しの際は、ちょっと足を伸ばしてホーボーケンまで行ってみて下さい。マンハッタンの絶景を我が物にできる、Wホテル・ホーボーケンに宿を取るのも、良いかもしれません。

2010年3月7日日曜日

人種分布図の変動

私の家の回りには、ラテン系の移民が多いです。
ちょっとずんぐりむっくりで、浅黒い肌に黒髪の彼らは、非常に陽気でおしゃべり。さらにセックス大好き。いや、これは独断による発言ではなく、定説です。冗談としても言われるし、公言している人も。ラテン系の女性は、妊娠するのが好きみたい。

そう、彼らは非常に精力的に、子どもをわんさか作っています。彼らが違法移民の可能性は高いのですが、この国では移民ステータスに関係なくメディケイド(低所得者向けの公的医療保険)が使えるので、ちゃんと病院で出産できるのです。それも非常に安い医療費で。

ということで、その子ども達がまた、成長して子どもを産んでとねずみ講式に増えていくと、アメリカはそのうち中国人とラテン系に乗っ取られる可能性がありますね。

かつては黒人に押し付けていた辛い肉体労働を、今はメキシカンら、違法移民の力に頼るようになってしまった。表向きは「違法」としていても、労働力として頼って、こき使う。そうなると、下層階級の無意識の逆襲(?)として、子どもをたくさん作る。アメリカ国内で産まれた子どもは、アメリカ国籍が取れますからね。

移民たちは3世代(サード・ジェレネーション)くらいになると、収入的にも安定し、高教育も受けられるようになり、社会的に成熟してくるのだと聞いたことがあります。じいさん、ばあさんになったときに、孫の世代が成功していれば万々歳。老後も安泰です。

これはもっと視野を広げて見ると、遺伝子レベルでプログラミングされた、人種分布図の変動大作戦なんじゃないかと思います。民族大移動&移動先で増やす作戦。神の采配か?

日本も少子化が進むと、長い目で見たら似たような展開になると思います。高齢化高齢化と言いますが、いずれは高齢化された方もお亡くなりになるわけですからね。少子化対策もすぐに効果が出るとは思えないですし、人口及び労働力を増やすには、最初から生産能力の高い方々を輸入した方が即効性がありますからね。

ウン十年後、ウン百年後の世界の人種分布図を、今見ることができたら、面白いだろうなあと思います。

2010年3月5日金曜日

地下鉄エンターテイナー


地下鉄に乗っていると、ギターをもった3〜4人組の浅黒い肌の男性たちが乗りこんできて、突然「コンドルは飛んでゆく」や、どこかで聞いたことのあるようなアンデスの音楽を奏で始める光景に、よく出くわします。演奏が終わると帽子をとって、車内をまわり小銭をくれと要求してきます。一駅区間で一曲披露。次の駅に着くと、隣の車両で営業するため、さっさと移動していきます。

黒人男性数人によるアカペラミニコンサートのときもありました。リズム感とハーモニーが最高。太くて響く良い声で、なかなかセクシーでした。
大学生らしき若者二人によるバイオリン二重奏もありました。 地下鉄車両は室内楽のコンサート会場に。

なんの芸もないホームレスはただ大声を上げて、いかに己が不幸かをせつせつと訴え、そのあと金をくれと空き缶を持って回ってきます。

面白いのが、いい演奏の時はそこそこ乗客が金を払うこと。ミゼラブルさが堂に入っていると、やはり小銭がもらえます。地下鉄はエンターテイナーに溢れています。

失業率の高さや、健康保険問題や、終わらない戦争や、テロの恐怖や、銃や、ネガティブな要素を挙げたらきりがない国ですが、なんだろう、生命力がありますよね。人は人、私は私、でも良い物には素直に感動する。底を流れる博愛主義がまだまだ感じられる。

何時の世だって、天災やら、疫病やら、圧政やら、戦争やら、不幸なことばっかりですよ。でもそれはそれとして、タフにかぶいていくのが、庶民のしたたかさ。

日本の男性も、尻尾の折れた精子みたいな人ばかりにならないで欲しいなあ、と思いますね。あっこれは、生命力のある人であって欲しい、という例えですよ。

2010年3月3日水曜日

AERAに感じる違和感

私のいる編集部は、雑誌「AERA」を購読しています。なぜ「AERA」であって、「文藝春秋」や「CanCam」だったりしないのかはよく分かりませんが、とにかく日本の雑誌は「AERA」だけが届きます。

よくできた雑誌だと思いますが、同時に読む度に暗い気持ちになります。読後感が非常に悪いんですよね。選ぶテーマも文体も構成も写真も、あえて読者の胸にしこりを作り、深い影を落とすことを目的としているのではないかと思ってしまいます。あるいは日本という国自体が、陰の部分をクローズアップするのを好むのかもしれませんね?まあ、朝日新聞が母体というのも、全体的に暗さが漂う理由かもしれませんが。

日本にいたころも仕事柄、毎週「AERA」には目は通していましたが、こういった違和感を持ったことが無かった。きっとこれは巷に、この手のネガティブな雰囲気が溢れている飽和状態になっていたからでしょうね。

もちろんアメリカからでもインターネットで日本の情報は手に入るし、NYの紀伊國屋やブックオフに行けば、日本の雑誌や本も簡単に手に入る。特にNYはアメリカ他の街に比べ、そう言った面では恵まれています。何が違うかというと、無意識に入ってくる(企業が意図的に消費者の脳に流し込んでくるものも含め)情報量が全然違うからだろうなと思います。情報量もありますが、その質感というか、温度というかが根本的に違う。

蒸した満員電車で見上げて読んだ電車の吊り広告、チューハイの缶を飲みながら見たテレビコマーシャル、仕事帰りに立ち寄ったコンビニで、ついつい見てしまう雑誌の陳列棚…。

日本語で提供される以上、好むと好まざるとに関わらず、泳ぎながら海水を飲んでしまうように、勝手に入って来てしまうんですよね。視覚と聴覚で。

なんとなく世の中は常に、"ネガティブ"な雰囲気か、スポーツなど一時的な狂乱に満ちていて、

「必死で抵抗する」
「とことん悲観的になる」
「明日のことを考えずに狂乱に身を任せる」

のどれかだった気がします。忙しさを言い訳にして、頭を使うことから逃げていたのだと、今になると思いますね。もちろんあーだこーだ悩んだり考えたりしていましたが、眼差しが世界に向いていなかった。あるいはそういう罠にはまっているのかもしれませんが。だから感覚がマヒしてきて、より強い、どぎつい刺激を求めてしまう。

情報消費社会というのは、どこも同じようなものかもしれませんが、アメリカにいると英語は第二外国語なので、日本語のように立っているだけで皮膚から情報が入ってくるような感覚にはならない。意識的に取捨選択をするか、あるいは最初からブロックがかかっている。ある意味、客観的になれるので良い状況ですね。

誰が作ったんだか、こねて、ねじって作り上げて、ばらまかれた、国を覆う悲壮感やネガティブな雰囲気、という物語。というコンテクストがないところで記事を読むので、いっそうその”ひねくれたネガティブさ”がしっくりきません。独特の暗さですよね。とても内向きなんです。自己愛が強くって。

まあ、日本の雑誌は「AERA」だけじゃないですからね。深読みし過ぎなのかもしれませんが。