2013年10月1日火曜日

「言論の自由」という名のご印籠

ニューヨーク市の市長選が11月5日に実施されます。予備選を経て、民主党候補のビル・デ・ブラシオ市政監督官と、ジュリアーニ市長時代に副市長を務めた共和党のジョー・ロタ候補の一騎打ちとなりました。民主党の支持層が多いニューヨーク市。デ・ブラシオ候補が断然有利と見られています。

2002年の初当選から、自ら市長3選禁止規定を撤廃した上で3選。今日まで市長の座に君臨してきたマイケル・ブルームバーグ氏。大富豪のため、市長としての受給は便宜上1ドルのみ。私財を禁煙運動、銃規制運動にがっぱがっぱと投じて、己の方向性を誰にも文句を言わせず突き進んでいく姿は、独善的な部分もなきにしもあらずでしたが、概して市民からの支持は高かったようです。

さて、市長選に話を戻します。あまり優勢とは思えない共和党のロタ候補ですが、彼の支援団体が先月25日、個人が政治団体に献金できる金額の上限を撤廃するよう、連邦裁判所に訴えたのです。訴えを起こしたのは、政治団体の「ニューヨーク・プログレス・アンド・プロテクションPAC」。アラバマ州の富豪、ショーン・マカッチチャン氏とワシントンDCの弁護士クレイグ・エングル氏が代表を務める、共和党支援団体です。

同団体の訴えは、ニューヨーク州で年間最高15万ドルと定められている個人献金の上限は、「2010年の連邦最高裁判所の判決」に従い、言論の自由の発現として撤廃すべきだというもの。

なんのこっちゃ分かりませんよね…。

そこで、ちょっと調べたところ、この「2010年の連邦最高裁判所の判決」は、米国内では「Citizens United v. Federal Election Commission」という名称でよく知られているものでした。

2010年の連邦最高裁で、企業・団体等が政治広告に資金を支出することを制限した政治資金規制法を違憲とするという、判決が下ったのです。

ううん、まだなんのこっちゃよく分かりません。あまりにも内容が難しいので、いくつかそれに書かれた日本語の記事を読みました。その中でTBS報道局記者の金平茂紀氏が書いたものが(さすが新聞記者)、一番分かりやすかったので引用します。

http://www.the-journal.jp/contents/ny_kanehira/mb/post_50.html

この中で金平氏が書いている言葉をそのまま使うと、

この判決が日本人の感覚とあまりにもかけ離れたものなので、ちょっと理解しにくいかもしれない。判決は、あらゆる企業や、労働組合、非営利団体が政治(選挙)広告に無制限に資金を支出することを規制した連邦法は、言論の自由を保障する憲法に違反するとの違憲判断を下したのである。

判決では、企業法人も個人と同様に、連邦憲法修正1条(表現の自由)を行使する権利を保障されているとして、無制限の資金流入による(日本風に言えば)「金権政治の腐敗」よりは、企業・団体にも政治活動=表現の自由を重く見る、という主張が尊重されたことになる。

ということになります。
つまり、何よりも大切な「言論の自由」のためには、無制限の政治献金を認めろということ。その「政治広告」とやらは、大枚をはたいて作られた、対立候補の悪口を散々並べ立てたネガティブキャンペーンに化ける訳です。愚民の目を欺き、自分の候補へ票をかっさらうための。(実は国民はそんなに簡単に騙されないし、ネガティブキャンペーンは逆効果という話もありますが)

もちろん2010年の連邦最高裁の判決は、オバマ大統領を含め、各方面から非難ごうごうだったようですが、政治団体の「ニューヨーク・プログレス・アンド・プロテクションPAC」はこの判決を引っ張りだし

「もっと政治献金をさせろ。献金の上限を設けるなんて言論の自由に反するぞー」と騒ぎ出したということです。

こういったアメリカ的(?)な思考の展開は、わたしが単に慣れていないだけなのかもしれませんが、噛み砕いて理解するのに時間と労力を要します。
「えっと、言論の自由って、そういう時にも使っていいものなの?それでは、『控えおろー頭が高い。この方を誰と心得る』と懐から持ち出すご印籠と一緒ではないのかしら」

とまで思ってしまいます。つまりそこに、
「それって本当に、そんなに簡単に”言論の自由”とやらの範疇に入れていい問題なの?」
という素朴な疑問が存在しない。それってものすごく怖いことだと思うのですね。

もちろん「自分の意見を通すこと」が前提で、「言論の自由」はそれを理論武装するための手段でしかない、というのは常識で、本気で「言論の自由」とは何ぞやと今更考えようとすること自体、愚かなのかもしれません。いや、多分そうなのでしょう。でも単なるレトリックとして使われるのが「言論の自由」の存在価値だとしたら、それを獲得してきた歴史に対しての侮辱であると私は思い、それに対してちょっと憤りすら感じます。憤る方向が間違っているのでしょうか? なんだかわたしの愚かさを露呈しているだけのような気もしてきました。

何はともあれ、
「年間最高15万ドルと定められている個人献金の上限は低過ぎる。もっといっぱい献金したいのじゃ!」
と不満をぶつける富豪たちって、どれだけ金があり、どれだけ金の力で政治を動かそうとしているのでしょう。民主主義というのは、金がある人が何でも好きにしてよいというものとは違うと思うのですが…。