2009年9月30日水曜日

常にそこにある恐怖

ニューヨーク生活4年以上という同僚に、今までに怖い目にあったことがあるかと聞いところ、2年前のクリスマスイブの深夜、プレゼントの山を抱えて帰宅中、いつもは使わない暗い路地を通って近道をしようとしたら、ヒスパニック系の男女二人組に襲われ、銃を突きつけられ身ぐるみはがされた経験があるとのこと。家の鍵まで持っていかれ、部屋にもなかなか入れなかった。クレジットカードはなんとか止めたとのこと。

「ほんと、ホールドアップで何もできませんでしたよ。まあ、私が悪いんですけどね。ニューヨーク生活に慣れてきた頃で危機感も薄れてたし。クリスマスの荷物を抱えた日本人の女性なんて、金持っていそうだし、狙ってくれって言っているようなもんじゃないですか」

と淡々と言うが、背筋が凍った。私も仕事柄連日深夜の帰宅。24時間営業の地下鉄は閑散とし、暗く不気味な空気が漂っている。電車の発着間隔も空くため、駅でぽつんと一人20分以上待ったこともある。英語の勉強のために電車の中で聞いていたiPodも、帰り道では使用を控えることにした。音に気をとられ、背後から忍び寄る悪漢に気がつかなくなるから。もちろん電車でうたた寝なんてもってのほか。

「もし深夜タクシーで帰宅したら、運転手に家に入るまで見ていてくれって頼んだ方がいいですよ。タクシーで家の前まできたところと待ち伏せして、鍵を開けている時に襲い、そのまま家に押し入られてレイプされる事件けっこうあったんですよ。一時期日本人女性がよく狙われてね。駅が近いからいいと思っても、逆に電車の音でかき消され、叫んでも聞こえないから。知っているんですよ狙うやつは。そういうことも」

フィラデルフィアにいた時も、もちろん地域によっては毎日銃声が響いているところもあるらしいが、こうも身に迫る恐怖というのは感じたことがなかった。友人も多く、よく大人数で遊んでいたからかもしれない。ニューヨークで一人暮らしを始めることになり、アパートメントは安全性を第一に考え選んだつもりだった。治安もさほど悪くないし、駅からもすぐだし、ルームメイトは全員日本人女性だし、大家も同じフロアに住んでいるし。だが先ほど帰宅時に玄関先で会った大家に再度、この地域の治安を聞きただしてしまった。

「大丈夫。ここに20年間住んでいるけど、なにも事件なんかなかったよ。危険は路上だけじゃなく、家の中でも起きるんだ。だからうちは誰も招いてはいけないという厳しいルールにしているし、防犯カメラも二台設置して毎日監視しているんだ。だからこっそり友達を連れ込もうとした人にもすぐ注意できたし、今誰が家にいるかも、出勤したのかも分かるんだ。あんたが出勤していくのも見ているよ。いまあんたの階に住んでいる女性のうち二人は日本に帰国しているんだけど、それも全部カメラでチェック済みさ」

と、それはそれで、プライバシーもなにもあったもんじゃないと、ちょっとムカっときたが、まだ引越して1カ月。安全はお金で買うものねと改めて思った次第である。いざという時に頼りになる友人もほとんどいないし…。

マンハッタンの中心部は深夜でもネオンが煌めき、人の絶えることない不夜城だが、クイーンズやブルックリンは少し奥地へ入ると、あるいは数ブロック違うと一気に様相を変える。そして困った時にすぐに声をかけて来てくれる知人がいない。「パーティーもできなければ、友達も呼べないなんて監獄生活みたい」と友人たちは私のアパートメントを笑うが、私はこれでまあよかったのではないかと思っている。

仕事を早く習得せねば、英語ももっと使えるようにならねば、もっと本を読んで賢くならねば、そして自分の身は自分で守らねば。極度の緊張感の中暮らすと、不思議と睡眠時間が短くとも、食生活が不規則でも体調は壊れず、仕事中眠くもならない。夜3時過ぎに眠りに落ちても、朝目覚まし前に目が開いたりする。ぐったりと疲れることもできない。疲れてぼおっとすると注意力が散漫になり、危険だと体が知っているのかもしれない。

2009年9月28日月曜日

ストーンパワー

初めてニューヨークを訪れたのは2003年。一週間の夏休みを利用しての観光旅行だった。自由の女神、MOMA、エンパイアステイトビル、セントラルパーク等を巡り、今宵はブロードウェイでミュージカル、とうきうきしていたら、例の東海岸からカナダまでを襲った大停電にやられた。信号も、地下鉄も、エレベーターも電気系統は全てダウン。街は真っ暗に。テロとの噂に震え上がり、全く通じない英語に焦りを感じ、キャンドルの光で夜を過ごし、予定より一日遅れて、ANAの臨時便でなんとか帰国。

旅の途中、ソーホーへも足を運んだ。軒を連ねる斬新なデザインのブティックに気圧され、入るのも戸惑いウィンドーショッピングをしていた時、一軒のジュエリーショップに吸い込まれるように足を踏み入れた。ディープパープルのアメジストが埋め込まれた、少しごつめの指輪に一目惚れをして購入。以後、右手の中指に毎日つけている。そのころから痩せたせいか、緩くなりグラグラしているが、お守りのようにつけている。

この週末、日本から友人が遊びに来た。いや正確に言うと「日本で知り合った友達が行くからニューヨークを案内してあげて」と、アメリカ人の友人に言われ会うことになった女性。彼女が滞在したホステルの前で会ったのが初対面。すぐに打ち解け、この2日間みっちり共に過ごした。アメリカは初めてという彼女だが、ニュージーランドとオーストラリアに留学経験があり英語は問題なし。海外旅行も慣れていて、逆にガイドを片手に私を引っ張って行ってくれたほど。9月からニューヨークで仕事を始めたものの、遊ぶ暇が全くなかった私にとって、2回目の観光となった。

57番通りの「ジョーズ上海」で小龍包に舌鼓を打った後、グラウンドゼロまでひたすら歩いた。互いの人生、仕事、悩みまで全て話し尽くしたころ、ソーホーにたどり着いた。そしてあのジュエリーショップを見つけたのである。記憶が堰を切ったように溢れ出す。全てがあの日のままだった。店員に「6年前にここで購入したのよ」と指輪を見せると、大喜び。石は違ったが、同じデザインの指輪をまだ扱っていた。指輪が私を再びニューヨークに呼び寄せてくれたのだと、思った。

彼女は十字をかたどった繊細な淡い緑のネックレスに心を奪われた。こんな高額なジュエリーなんか買ったことがないわと、そわそわしながら、狂おしいまでに見開いた瞳は真剣そのもの。美しかった。宝石を選ぶ瞬間の女性はこんなに美しいのかと、同性ながら惚れそうになった。白い肌をバックに石はケースの中より輝きを増し、鏡の中の瞳には決意がみなぎる。

「買うわ。着けた瞬間にものすごいパワーを感じたの」

深夜のフライトで帰国する彼女と、ハグをして別れたのは午後9時。「楽しかった。また来たいなあ」とつぶやく彼女。胸で十字がウインクしていた。大丈夫。きっと彼女もまたこの地に来ることになる。石が呼び寄せてくれるはずだもの。

2009年9月21日月曜日

フジコ・ヘミングというアイドル













恐ろしく冷房の効いたホールで、鏡獅子を彷彿とさせる、モシャモシャ頭に奇抜な色彩とデザインの服を纏った老女が、風邪気味で薬を大量に摂取していると言い訳をしながら、鼻をかみかみ(さらに鼻紙をステージに落とし、蹴飛ばして隠そうと試みていた)披露する、非常に不安定でミスタッチの多い、独特のこぶしを効かせたショパンやリストを鑑賞した。観客9割が日本人で、その演奏の善し悪しとは何ら関係なく、そこに彼女がいるということに深い感動を覚えているようだった。

というのが、正直な感想だった。先週金曜日の18日夜、リンカーンセンターのアリス・タリー・ホールで開催された、フジコ・へミングのピアノリサイタル。『ラ・カンパネッラ』が大ヒットし、またその数奇で苦悩に満ちた半生に、多くの人が胸を打たれた。というのは有名すぎる話。でもたぶん日本人の間で有名というだけなのだろう。

「黒山の人だかり」とは、日本人の髪が黒いから使える表現なのだということを、初めて実感した。ホールを埋め尽くしたニューヨーク在住の日本人、数百人。ロビーでも日本語しか聞こえない。

ドビュッシーの『ベルガマスク組曲』、ベートーベンの『テンペスト』、ショパンの『夜想曲第1番変ロ短調作品9−1』、『黒鍵のエチュード』『別れの曲』、バッハの『主よ、人の望みの喜びよ』、リストの『ため息』など、超がつくほどメジャーな楽曲の数々。身を乗り出して聞けない自分に気がつく。音に乗って、辛さが伝わってきてしまうのだ。体調が優れない中、無理して弾いているんだなあ、と。

そしてお待ちかねの『ラ・カンバネッラ』。ここでフジコは踏ん張った! 全神経を集中させ、床の鼻紙など気にならなくなるほどの、ぐいっと引き付ける芯の通ったパフォーマンスを見せた。満ち潮のように広がるスタンディングオベーション。花束や手紙を持って駆け寄るファン。涙ぐむ人も。

マイクを持って挨拶する彼女。最初は日本語で、次に英語で話し始めたが、途中からドイツ語に変わってしまい、英語はあまり得意ではないとみた。アンコールに『亡き王女のためのパヴァーヌ』ともう一曲弾いて終了。再びスタンディングオベーション。そして楽屋に走るファンたち。CD売場にも列が。

フジコ・ヘミングはピアニストというより、「アイドル」なのだと思えば全てが納得のいくショーであった。風邪を引いていても来てくれた。渾身の力を振り絞り最後まで頑張ってくれた。異国の地で生きる我々NY在住の日本人に、勇気を与えてくれた。有難うフジコ。あなたがそこにいるというだけで、私は幸せです。

ただそれは多くのアイドルと同じく、あまりにもひいき目に見ないといけない演奏内容であったことは否定できない。世界のクラシックファンを魅了する、綺羅星のごとく輝く名ピアニストたちと、比較する対象ではないということが、私は残念だった。通の方々はとうに知っていたことなのだろうが。

帰りの地下鉄の駅で、楽しげにサックスを吹いていたお兄さんの方がずっとよかった。ゴウッという電車が到着する音にかき消されてしまっていたが。

2009年9月14日月曜日

コインランドリーにて



小さい方が1.5ドルなのは分かった。大きい方は値段が書いていない。果たしてどちらを使うべきか。

2週間分の洗濯物とバスタオル類を抱えて途方に暮れる。初めてではないが、いまいち使い方が分からない。そんなことも知らずに、よくまあ一人暮らしを始めたものだと呆れながら、説明書きを数回読んでみる。だいたいのところは理解できたものの自信がない。

日曜日の午後8時過ぎ。コインランドリーはヒスパクニック系の隣人でごったがえしていた。まわりを見て一番優しそうな若者に声をかける。

「使い方がよく分からないの」
「大きい方は3ドル。でもその量なら小さい方でオーケーだよ。ここにコインを入れて、洗剤はこの注ぎ口から2回に分けていれるのさ。クウォーターしか使えないんだ。ああ、ドアはもっとちゃんと閉めないと」

と横に来て丁寧に教えてくれた。

何人分の、そして何日分の洗濯物だろう? 一番大きな4ドルの洗濯機2つと、小さい方1つまでも使って次々と服、タオル、シーツ、そして枕まで放り込んでいく、太り肉の女性を見つめる。ドレッドヘアに安物のピアスとネックレスを着けた、むっちりとした子供たちがまわりを跳ね回ったり、クウォーターを手のひらに隠しておどけたりして、母親をいらつかせている。洗剤の匂いが溢れ、通り一帯を生暖かく浸していく。生活の匂いは落ち着く。生きている人を見るのも、知らない言語と笑い声が満ちた空間に身を置くのもいいものだ。

パイプ椅子に腰を下ろし、ジュンパ・ラヒリの『停電の夜に』を開く。既に内部崩壊を起こし、見ないフリを決め込んで現状維持をしていた関係が、停電とろうそくの光によってもたらされた一瞬の偽りの安らぎののち、言葉の棘によって激しく砕け散っていく。「何故」という疑問が浮かぶ余地のない辛さ。それは、そうなるしかなかったから。というのは経験者だから分かる悲しみ。この作者は何を見て生きてきたのだろう。秀逸で緻密な文体と、根底を流れる温かい柔らかさが、染みた。染みて肉体を超えて夜空に広がり、風景までも変えていく。

終わりがくるのは見えていたのに。逆にどうして続けることができてしまうのだろう。人というものは。既得権益にまみれ腐敗した経済はどこかで終焉を迎える。痛みを伴う改革は、本当に痛い。

次の作品が読めなくなり、ひたすら、ぐるぐると回る、洗濯物と乾燥機とシーリングファンを見つめる。ぐるぐる。ぐるぐる。私の人生はどこかで終わる。終わるから、いいのかもしれない。誰も私の事を口にしなくなるというのは、最大の救いなのではないか? 

乾燥機の値段は1クウォーター。出てきた洗濯物はまだ湿っていた。


写真は9/10の夜、退社時に見たワールドトレードセンター跡地にそびえ立つ2本の光の柱。

ここは日本なのか、アメリカなのか

我が社はお昼時になると、『フジケータリングサービス』の背の高い兄ちゃんが「弁当でーす」と売りにくる。日替わりでメニューで何種類か用意され、献立表も事前に配布されたり、ネットで見る事ができる。「豚の生姜焼き弁当」、「根菜入りハンバーグ」、「うな重弁当(けんちん汁つき)」、「北海道風みそバターラーメン」等々、なかなか凝っている。前もって注文する人もいるが、毎回少し多めに持ってきてくれるので、「今日は何が余っていますか?」と聞いて買う人も。他にも何カ所か回っているようで、雨の日には外出を控える人が多いため、余り分がない場合もある。昼休みは無いに等しい状況なので、この弁当屋タイムだけが、ピリピリしたムードがほっと和らぐ瞬間だ。6ドルから7ドルと値段も手頃。生活が不規則な編集部員たちは、ここで栄養補給をしている。

木曜日か金曜日になると「ビデオ屋さん」が現れる。宮藤官九郎をさらに不健康にした感じの兄ちゃんが、日本で放映されているドラマやお笑い番組、そしてアダルトものまで、DVDに焼いたものを売りにくる。メールで次回の注文票が届くので、こちらも事前注文する人が多い。やはりというか、お笑い番組が人気のようだ。1枚4ドル、3枚買うと1枚おまけとか、そんな値段設定だったような。私はたぶん今後も買わない。

営業部から「得意先から差し入れがありましたので給湯室に置いておきます。各自取って下さい」との一斉メールが。マルちゃんの「赤いきつね」と「緑のたぬき」に、伊藤園のお茶の缶だった。フィラデルフィアで働いていた時は、同様のメールでも山盛りのベーグルだったのに。

まだ入社して一週間ちょっとだが、どっぷりと日本社会に浸かってしまっている。約20人の社員は全員日本人。1人、2人インターンらしきアメリカ人もいるが、器用に「お疲れさまです」と言って帰っていく。こりゃ日本語しか使わないだろうと思っていたら、電話ではみなさん、営業から取材のアポ入れまで流暢な英語で対応しているではないか。考えてみれば、こちらの大学か大学院、少なくとも語学学校くらいは出ている人が就職する会社。

「あのお、決して私英語がペラペラというわけではないのですが…」
と近所の『牛角』で開催してくれた歓迎会で漏らしたところ(だいたい歓迎会があるという時点で、非常に日本的)
「えっ、話せるものと思って採用していますから」
とさらりと社長に返されてしまった。

ああああああああああああああああああうううううううう

そうですよね……


どうあがいても語学学校へ行く時間を捻出することなど不可能なので、通勤電車で今までにないくらい猛烈に英語を勉強している雅子なのでした。

フランス人の友達に「ニューヨークってさ、日本にいるのと全く変わらないんだよ」と言ったところ、「フランス人にとってはフランスと全く変わらないんですよ。それがニューヨーク。多国籍な街ですから」という事です。

2009年9月8日火曜日

こうしてNYの夜は更けていく


今日はレイバーデイ(Labor Day)。日本で言うところの勤労感謝の日。9月の第一月曜日にあたり、土日と合わせて通常会社は三連休。だが、私の勤務する日系の会社は関係なし。

まだ入社したてで、抱えている仕事もないので、残業する同僚に申し訳ないとは思いつつ6時半で退社。深夜残業、土日出勤は当たり前の会社。アメリカ人に話すとクレイジーだと言われるが、東京の生活にもどったと思えば同じ事。働く事は生きる事。仕事があるだけ有り難い。仕事を趣味にすれば、別に辛くもないでしょう。

せっかく時間と体力があることだし、ここ連日イーストヴィレッジの職場からクイーンズの自宅までまっすぐ帰っていたので、土地勘をつけるためにも途中ミッドタウンを散策することに。

グランドセントラル駅で途中下車し、41ストリート周辺の日本食材の店に寄ろうと思ったが、ここもレイバーデイでお休み。観光客を乗せたバスは満席だが、ビジネスエリアは心なしか寂しい。ブックオフは開いていた。ガラス戸を開けすぐの右側の掲示板には、英会話教室、ルームメイト募集、ベビーシッターします、フラワーアレンジメント教室等の張り紙が所狭しと貼られている。簾状に切り込みが入った紙にちまちまと書かれた電話番号。破られているものあり。そのままのものあり。すべて日本語。

ブックオフ内を流れる、従業員が録音したと思われる棒読みのアナウンスが非常に煩わしい。

「ニューヨークにきて3年が経ちました。友達もいっぱいできました。そして来月日本に帰る事になりました。英会話の教材を売ろうと思います。そんなお声、大歓迎です。ぜひブックオフであなたの本をお売り下さい」

中型店舗だが、日本に比べるとやはり品揃えが今イチ。昔読んでどこかへやってしまったポール・オースターの『ムーン・パレス』が欲しかったのだが見当たらず。8時の閉店間際まで迷ったあげく、唯一あったボール・オースターの作品『シティ・オヴ・グラス』(1ドル)と、ジュンパ・ラヒリの『停電の夜に』(5ドル)を購入し表へ。ブライアント・パークの木立越しに、エンパイア・ステイト・ビルが見え隠れ。なぜか薄暗い公園では卓球をする人たちが。

タイムズスクエアまでくると、さすがにいつものごったがえした風景だった。電飾の華やかさにホッとすると同時に、フードトラックから立ち上る肉の焦げる匂いにはじめて空腹を覚えた。地下鉄に乗り、iPodで英語プログラムを聞きながら帰宅。車両の軋む音が尋常ではないので、いつも耳が壊れんばかりの大音量で聞いている。人目も気にせず音読。今日のテーマは『工場の閉鎖を従業員に伝える』というものだった。

最寄り駅近くの、ヒスパニック系のおばあちゃんが「アメリカンチーズなんかいらないよ」と大声でどなっているグローサリーストアーでバドワイザーを買い家にたどり着く。ちびちび1人でやりながら納豆ご飯に缶詰のミネストローネをかきこんだところで、ヒドい頭痛に見舞われた。ヒスパニック系の住民たちは花火を上げて外で大騒ぎ。レイバーデイだからか? 

狭い部屋ではますます気が滅入るので、空気を吸いに外に表へ出ると、1階の住人Aさんがタバコを吸っていた。もうアメリカ生活は10年以上という彼女。年も私より十は上。日本にいたころは地方の新聞にコラムを持っていたらしい。紆余曲折あって、今はマンハッタンにある日系のグローサリーストアーで働いている。引越してきた夜に知り合い、意気投合。なかなかの才媛でマルクスからショスタコービッチまで、「わたしなんかジャンキーで、いいかげんなオンナよ」とふわふわと笑いながら、すぱすぱタバコをすいながら、のんびり話してくれたっけ。ええ2時間ばかし。けど、今日はそんな気分になれず、二言三言話して部屋に戻った。

こうしてニューヨークの夜は更けていく。また明日があるので、明日があることを前提としなければいけない生活なので、このあたりでおやすみなさい。明日はチャイナタウンで、究極の餃子を探す取材…。