2008年7月29日火曜日

梶芽衣子

「修羅の花って知ってる?」
と突然聞いてきたのは、毎週末通っているLanguage Exchange Clubで今日初めて会った黒人の男の子。
「修羅の花?」
「知らないの?Kaji Meikoの『修羅の花』」
「Kaji Meiko。かじめいこ。ああ梶芽衣子ね」
かなり面食らいました。久しぶりに聞いたなあ、その名前。

「ごめん。その歌は知らないや」
いそいそと彼のMP3プレイヤーで探してくれます。片方のイヤホンで聞いていたらもう片方を彼の耳に当ててきて、距離が近いっ!!特有の体臭が鼻を突きます。梶芽衣子ねえ。

「じゃあクリスタル・ケイは知っている?」
「クリスタル・ケイなら分かるよ。ああ、でもあまり詳しくないや」
また選曲して聞かせてくれます。
「この曲好き?」
特に嫌いという理由もないので「いいんじゃない」と適当に返事。ちょっと嬉しそう。この子は音楽から日本を好きになったタイプなのかしら。

「来年の2月に日本に初めて行く予定なんだ。ねえ日本ってどんな国?」
「そうねえ、うーん」
急に聞かれると困るのですが、一般的に国民性はシャイだと言われるよとか、東京は人がいっぱいいてニューヨークシティみたいだよとか、そうそう自動販売機が街中にあるよとか、答えてみますがもう興味は失せたみたい。

「日本にいったらヤクザを見たいんだ!」
「ヤクザ?!」
やれやれホント脈絡がないぜ。残念ながら私の知り合いにヤクザさんはいないなあ。

「日本の映画が好きなんだ」
「どの映画が好きなの?」
「キル・ビル」
「……『キル・ビル』は日本の映画じゃないよ。クエンティン・タランティーノでしょう」
そこで「ああ」と思い出しました。タランティーノは梶芽衣子のファンだって言ってた、言ってた。もしかして梶芽衣子はアメリカでは人気者なのかしら?ヤクザのイメージもそのあたりからかもねえ。

「あと『2LDK』って映画も見た」
これは日本映画でした。が、これも見たことがありません。

「『なぜ』と『どうして』はどう使い分けるの?」
どうしてこんなにも話題が飛ぶんだろう?
「たいした違いはないよ。どっちも同じ意味と思って大丈夫」

非常に不満そうです。すまんねえ。その違いはわからんよ。

日本ってどんな国なんだろう。梶芽衣子、クリスタル・ケイ、ヤクザ、キル・ビル、2LDK、なぜ、どうして…。よく分からなくなってきました。まあ上記の会話は全て英語なので、私にとっては良い勉強になるのですが(笑)。

もしご興味があれば、梶芽衣子の『修羅の花』です。映画を見ていないので知らなかったのですが、『キル・ビル vol.1』の挿入歌に使われていたようですね。

http://jp.youtube.com/watch?v=Ma3kdneCvcY

2008年7月23日水曜日

映画『Music From the Inside Out』


フィラデルフィア管弦楽団のドキュメンタリー。世界一流のクラシック音楽の演奏風景と、それを紡ぎだす楽団員の人生や情熱がインタビューや座談会を通じて穏やかな言葉で語られる。その言葉もまた音楽のよう。芝に染入る霧雨のごとく、しっとりと感動が広がる。

特にコンサートマスターのDavid Kimのインタビューは胸を打たれる。ピアニストの母親と大学教授の父のもとに生まれ、3歳のクリスマスプレゼントはバイオリンだったという、プロになることを運命づけられた少年時代。8歳でジュリアード音楽院。14歳で母親を胃がんで亡くす。1986年のチャイコフスキー国際コンクールでアメリカ人でただ一人の入賞を果たす。その後ソリストを経て、オケのメンバーになることを決意した経緯。決意の夜は月が綺麗だった。

チャイコフスキー国際コンクールの映像も流れ、勝ち気な性格がむき出しの表情をしていた青年が、こうも穏やかに柔らかく話せるようになるとはと驚く。オーケストラを率いるコンサートマスターの顔だ。そして

”Now I really feel I'm the luckiest guy in the whole world. I can play the greatest music ever written.”

の一言で堰を切ったように号泣してしまった。そんな幸せな言葉を瞳を輝かせながら自然に言える人が、いったいこの世に何人いることだろう。

邦題は『オーケストラの向こう側 フィラデルフィア管弦楽団の秘密』。

2008年7月21日月曜日

世界一大きなパイプオルガン




「Macy's」というデパートがあります。ニューヨークにあるのが観光客には有名かもしれませんが、フィラデルフィアのセンターシティにもあります。ただこちらの「Macy's」はもともと「John Wanamaker building」で、2006年にMacy'sに買い取られました。ビルの外壁にはまだその名が刻まれています。

「John Wanamaker building」はその名の通りJohn Wanamaker (ジョン・ワナメーカー/1838〜1922)が1911年にオープンしたフィラデルフィアで一番最初の、アメリカ国内でも初めてのデパートの一つ。ワナメーカー氏は小売業で大成功を収め、デパート王としてその名を轟かせました。

この今はMacy'sという名の建物は、シカゴの建築家Daniel H. Burnhamが設計。荘厳なフィレンツェ様式で、花崗岩製の壁の重厚長大さと内装の美しさに息をのみます。そしてなんと言っても頭上に君臨する世界一大きいというパイプオルガンが圧巻。通称「The Wanamaker Grand Organ」は1904年にロサンゼルスオルガンカンパニーによって作られました。10,000個以上のパイプ、当時の価格にして$105,000。この偉業が逆にたたり、会社は倒産。1909年にワナメーカー氏によって買い取られ、13台の貨物車を使ってフィラデルフィアに運び込まれ、セッティングが完了するまで2年。さらにパイプを追加に追加を重ね現在では28,482個のパイプで演奏されています。総重量は287トン。

そう、このパイプオルガンはたんなる装飾品としてではなく、日曜日以外は毎日正午と夕方に無料のコンサートが開催される「生きた世界一大きいパイプオルガン」なのです。平日の昼間からデパートで買い物をしながら、豊かなパイプオルガンの音色を楽しむ、こんな贅沢があるでしょうか。

昨日は時間があったので思い立ち、カメラを持って我が家から10分くらいのこのパイプオルガンに会いにいってきました。今までも偶然に時間帯が重なって聞いたことはあったのですが、鑑賞目的で出向くのは初めて。背中のまがった老人が2階のコンソール席に現れ、正午ちょうどにコンサートはスタート。買い物客、マネキン、様々な商品の頭上に高らかに神の歌声が響き広がります。デパートというより教会にいる気分。高い天井にのび上がるふくよかな音色は決して威圧的ではなく、シチュー鍋からたちのぼる香り豊かな湯気のよう。時としてパイプオルガンは圧迫感を持ってモンスターのように挑んでくるのですが、ここのオルガンはあの小さな老人オルガニストの腕が良いのかもしれませんが、実に心地よく、文字通り天にも昇るような幸せを感じました。

私の隣で同じように聞き惚れていた初老の白人女性が話しかけてきます。
「私このパイプオルガンが聞きたくてニュージャージーから往復3時間以上かけてバスでくるのよ。フィラデルフィアで生まれ育ったから懐かしくって。今日の演奏は本当に素晴らしい。いままでこんなに美しい演奏は聴いたことがないわ。曲目を知りたいの。あなた知っている曲あった?」
ドビュッシーの「月の光」と、バッハのフーガが演奏されたのは分かりましたが、それ以外は分かりません。演奏終了後にそのサンディーという女性と二人、コンソール席に駆け寄りオルガニストに質問。ところがなんとオルガニストが言うには

「今日はわたしはちょっとどうかしていたんだ。途中で間違えて焦ってしまい何を弾いたか覚えていない」

そんな馬鹿なと思いましたが、実にすまなそうに覚えていないと繰り返すばかり。サンディーはめげずに
「最初に演奏した曲だけでも思い出せない?あの曲初めて聞いたの。とても長くて美しいすばらしい演奏だったわ」
「ああ、あれかい。途中で間違えて思い出せなくなって自分で適当にその場で作曲して弾いたんだよ」

笑いをこらえるのに必死でした。でも即興で弾けるというのですから素晴らしい。彼は普段は月曜日のみ弾いていて、今日は臨時で急に頼まれたとのこと。びくびくしている彼をとっつかまえて根掘り葉掘り聞いたのですが、私の英語はさっぱり通じず、サンディーが通訳代わりになってくれました。彼は少年のころからパイプオルガンの教育をうけ、ニューヨーク州ロチェスターにあるイーストマン音楽学校(Eastman School of Music)を卒業したとのこと。名門校です。特にコンサートや教会で弾いているという情報は教えてくれませんでした。

そして私が日本人だと知ると目を丸くして、なんでここにいるの?と。あと日本にはパイプオルガンが何台あるのか、と逆に色々と聞かれてしまいました。もちろん知りません。そう答えるとちょっとがっかりしたように肩を落とされてしまいました。わざわざ日本から聞きにきたパイプオルガニストと思ったのかしら?

手持ちのデジカメのビデオ機能で録画したドビュッシーのベルガマスク組曲より 「月の光」。パイプオルガンバージョンは初めてでした。途中までですがよろしければ、他の映像と合わせて、右横の「Youtube」の映像でご覧ください。

2008年7月18日金曜日

失われた名画







ボストン美術館のすぐ側にボストンの大富豪の未亡人、イザベラ・スチュワート・ガードナーの美術館があります。ボストン旅行の際、当初は計画に入っていなかったのですが、ハーバード大学に勤める友人から「2時間もあれば回れるから是非行ってきなよ」と勧められ足を運んできました。

イザベラ・スチュワート・ガードナー(Isabella Stewart Gardner/1840-1924)はニューヨーク生まれ。1960年にジョン・ローウェル・ジャック・ガードナー( John Lowell "Jack" Gardner)と結婚しボストンへ。この夫の父親がスマトラからのコショウの輸入で財産を築いた大富豪。1844年に亡くなったときアメリカで最も裕福な人物の1人だったといいますから、その金持ちぶりは想像を絶します。

イザベラとその夫は世界各国を旅し、その優れた鑑識眼で絵画、彫刻、版画、調度品など総計2500点以上ものコレクションを収集。ブレーンとしてイタリアルネッサンス芸術の専門家で目利きとして有名なバーナード・ベレンソン(Bernard Berenson/1865-1959)もついていました。

1898年に夫を亡くしたイザベラは、その膨大な個人コレクションを収容する美術館兼邸宅フェンウェイコート(Fenway Court)を建てます。4階建てのその建物はルネッサンス期のヴェニスの宮殿をモデルにデザインされました。中央にガラス張りのドーム状の天井がついた中庭を取り囲むように3階までが美術館。4階は彼女の個人宅で今は事務所となっています。

イエロールーム、オランダルームなどと名付けられた比較的こじんまりとした部屋に壁を覆うようにびっしりと展示された絵画たち。彫刻や調度品も廊下や階段にすぐ触れる距離で展示されています。岡倉天心の後援者だったこともあり、掛け軸や屏風絵もありました。

建物内部の撮影が禁止されているため、作品はネットで見つけてきたものになりますが、3階のティツィアーノルームに飾られた傑作「エウロぺ」(Europa)などは美術史のテキストでお馴染みですね。 余談ですが「ヨーロッパ」の語源となったこのエウロぺのギリシャ神話。レバノンの南西部、地中海に面する都市テュロスのお姫様だったエウロペの美しさに一目惚れした絶倫神ゼウスが、白い牛に化けて戯れるフリをして誘拐しクレーター島まで連れ去り我がものにした。その時にかけ回った地域がヨーロッパとなったというお話です。

話はそれましたが、このイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館は美術史史上最大の悪夢が襲った場所でもあります。1990年3月18日の夜、ボストン市警に扮した強盗団が美術館に押し入り警備員を縛り上げ、フェルメールの「合奏」、レンブラントの「ガラリヤの海の嵐」、ドガ、マネの作品など計13点を強奪の上、逃走。事件は未解決のままFBIは懸賞金をかけて捜査中。

消えた絵画があった場所には持ち主のいない空っぽの額だけが寂しく飾られていました。いったいこれらの絵画はどこへいってしまったのでしょう?闇のマーケットで売買され、イザベラと劣らぬ大富豪がワインを片手にその芸術美を1人楽しんでいるのでしょうか?怪盗ルパン張りのお手並みに感心ばかりもしていられません。是非返していただきたいものです。特にフェルメール。

2008年7月17日木曜日

ボストン茶会事件跡地




少し前の話ですが、4/25〜4/27までボストンへ小旅行へ行ってきました。ボストンはフィラデルフィアと同じく東海岸にある古都。フィラデルフィアからは飛行機で1時間ちょっと。広大なアメリカの国土を考えれば目と鼻の先なのですが、緯度を日本に置き換えると仙台から旭川へ移動するくらい。思ったより冷えて薄着で行ってしまった私は、凍えながらの観光となりました。

ボストンと言って日本でお馴染みなのはメジャーリーグのボストンレッドソックスへ移籍した松坂大輔選手でしょうか。Daisukeというのはアメリカ人には非常に発音しにくいらしく「ダイスキ」となってしまう。当て字でDice-Kと書いて愛称となっているとのこと。ハーバード大学で研究している友人の話によりますと、日本人の奥さん連中の間ではどこどこで松坂夫人の柴田倫世さんを見たという情報がメールでまわっており、彼の奥さんも昼間で出没情報が出た公園に夕方行っていなかったと肩を落として帰ってきたとか。そりゃ一日中同じ公園にいるわけはないだろうと大笑い。

松坂大輔もいいのですが、ボストンといえば世界史の授業で勉強した「ボストン茶会事件」。ウィキペディアを引用しておさらいをすると、

1773年12月16日に、アメリカ・マサチューセッツ州ボストンで、イギリス本国議会の植民地政策に憤慨した植民地人の組織が、アメリカ・インディアンに扮装して、港に停泊中のイギリス船に侵入、イギリス東インド会社の船荷の紅茶箱をボストン湾に投棄した事件。アメリカ独立革命の象徴的事件である。

とまあこんな感じです。 Boston Tea Party Ship & Museumとして当時3隻の船のうちビーバー2世号を原寸大に復元して船内を見学できたり、実際に茶箱を海に投げ捨てたりできる観光スポットとして有名、のはずなのですが手元の『地球の歩き方』によると「2005年12月現在、火事のため閉鎖中」とのこと。それから2年以上経っているから復活しているかと思いきや、焼けこげた博物館が手を付けられないまま放置されているではありませんか。歴史的名所がこれでは・・・。帰ってからネットの過去記事を検索して調べたところ、2001年に稲妻に打たれ2009年までの再建計画が軌道にのっていたところを、2007年8月28日、今度は隣のCongress Street Bridgeから溶接工事の火花が木造の博物館に飛び引火。風が強く、潮の流れも消防艇の進路を邪魔して消火活動は思うように進まず、結果ご覧のありさまに。手元の『地球の歩き方』以降にも再度悲劇に見舞われていたことが判明しました。哀れ。

2009年までに再建の計画は継続中のようなのですが、全部取り壊さないとダメでしょうねえ。これでは。

2008年7月13日日曜日

「GUILD HOUSE」他















4th Street と Spring Garden Street の交差点に大きなアジア系のスーパーマーケットがあり日本食材も豊富だと勧められたので、我が家からは片道3キロ強はあるのだが思い切って歩いて行ってみた。

Spring Garden Streetはダウンタウンの北のはずれ、中央分離帯を挟んで往復3車線はあるフィラデルフィアにしてはかなり広い通り。平日の昼間は人が少なく、閑散としていた。これ以上北へ行くと毎日銃声が響いている危険な地域へ入ってしまう、その境界。

お勧めのスーパーマーケットは残念ながらハズレ。確かになかなか立派な中華系のスーパーで品揃えも良かったが、当たり前だがメイドインチャイナばかり。最近は中国製は怖くて手が出せない。同じアジア系なら韓国系スーパ—へ行く。まだ信用できる気がするし、だいいち店が臭くない。チャイナタウンを含め、中華食材の店はどうしてああも殺人的な生臭さで満ちているのだろう。気持ちが悪くなり、寿司の巻き簾のみを買い表へ出る。

照りつける太陽が道路に反射して目が痛い。4月でこうなのだから夏はどんなに暑いのだろう。
行きと順路を変え、Spring Garden Streetを西に向かう。ホコリっぽくヒッチハイクでもしたくなる風景。喉が渇く。

先に顔を見せたのはエドガー・アラン・ポーの家。「地球の歩き方」に一行で紹介されていたのを思い出す。看板がなければ気がつかない何と言うこともない家。近づいてみたが水曜日から日曜日までしか入れないとの表示が。路上の案内板によると、彼は妻と義母とこの家に住んでいたそうだ。1843〜1844。たった1年間だが、フィラデルフィアに現存する家はこれ一軒だけとのこと。庭に置かれたカラスのブロンズ像が不気味だった。裏手に回り込んで写真を撮ろうかと思ったが、嫌な予感がしてやめておいた。
変な静けさと、口をあけて威嚇をするようなカラスのブロンズ像、写真を撮る私を通りすがりに振り返って見つめた黒人の眼差しが、去り時だと告げていた。

Spring Garden Streetに戻り西へ向かおうと思った瞬間、興味を引かれる建築物があるのに気がついた。なにか引っかかる。シンメトリーな赤褐色のブロック造り。どこかで見た事のある特徴的なファサード。「GUILD HOUSE」と看板がでている。建物の前では車椅子にのった老人が2人、暇そうにしゃべっていた。建物を見上げるように写真を撮り、道を渡り全体像を撮り、そのまま正面まできて車が途切れるのをファインダー越しに待っているときに、ああ、と思い出した。
これは世界的に有名なポストモダン建築家、ロバート・ヴェンチューリ(Robert Venturi)が手がけ1966年に完成した老人ホームだ。随分前にその存在を教えていただき、ウェブサイトで一回写真を見たきりになっていた建築にこうして偶然出会えるとは。
2月の頭にチェスナットヒルまで見に行った「Vanna Venturi House」(母の家)」を思い出した。完成した時期も近いし、モダニズム建築なんてツマラン!"Less is bore"って鼻息荒く言っていた頃なのだろう。
http://masakophiladelphia.blogspot.com/2008/07/blog-post.html

ちなみに日本では栃木県にある大江戸温泉物語 「湯屋日光霧降」が彼の作品。かつてのメルモンテ日光霧降の建物を大江戸温泉物語株式会社が営業しているとのこと。ううむ、郵政事業の天下り先だったに違いない。

「GUILD HOUSE」を離れセンターシティを目指し南東の方角に舵を切ったとき、また不思議な建築を見つけた。建築と言っていいのだろうか?廃墟となった工場のような。ドラマ「華麗なる一族」で万俵鉄平が専務を務めていた阪神特殊製鋼がこんな感じだったような気がする。
3つの煙突からは一筋の煙もでていない。銃口を上に向けて転がされ、何十年も放置され錆び付いた戦車を思わせる。

推理小説家の家、ポストモダン建築の巨匠の建てた老人ホーム、廃墟となった工場。今日の出合いは全てが偶然。でも偶然にしてはちょっと不思議な取り合わせとなった。

青空が怖いくらいにきれいだった。
光が強いと、影も濃い。


注)この日記は2008年04月16日にmixiに書いたもののアーカイブとしてブログへ転用しました

2008年7月11日金曜日

韓国人に英語で日本語を教える

週に3回通っている英語の教室のうち、一つは韓国人の講師が担当をしています。彼女は13年のアメリカ生活を生かし、英語圏以外の国の人に英語を教える資格を、ペンシルベニア大学に通いながら取得中。ティーチングスキル向上のためボランティアで教えにきてくれています。

西海岸にずっと住んでいたためフィラデルフィアについて何も知らないというので、観光案内をしてあげ、一緒にランチを食べるなど仲良くなってきた矢先、
「日本語を勉強したいの。妹夫婦が日本にいて多少はなじみがあるし、他の言語を学ぶよりは韓国語に近いから勉強しやすいと思って。だから私に教えてよ」
と言われ、うまく断れず「そのうちね」と生半可な返事をしてありました。

それから約1週間後
「急で申し訳ないけど、明日もし時間があれば一緒にランチをしましょう」
と電話がかかってきたので、ホイホイとチャイナタウンにあるミャンマーレストランに出向いたところ、彼女はインターネットで検索した日本語教材を山のように印刷して待ち構えていました。

そして質問の嵐。レストランで注文する際の会話、テーブルを窓際に移動したいときはどう言えば良いか、味が気に食わなかったときどうクレームをつければよいのか、などもうランチを楽しむどころではありません。さすが英語講師になろうとしているだけあって実に細かいところまで突いてきます。

「ランチは美味しいです」
「ランチが美味しいです」
「ランチも美味しいです」

の違い。これを英語で説明しろと!そんなの日本語だってうまく説明できないのに。さらになぜ
「ランチを美味しいです」
とは言わないのか。そうは言わないんだもんというしかありません。

まあ「ひらがな」は読めるし、挨拶程度の日本語は知っていたので、全く1から教えるという訳ではありませんでしたが、でも逆に質問攻めでヘトヘトになりました。そして日本語ってなんて面倒な言語なんだろう、私が外国人だったら絶対にこんなややこしいものに手を付けたりしないぞという気になりましたね。尊敬語、謙譲語、丁寧語などかつて恐怖の文法の授業で学びましたが、それをさらに英語で言えって、無理です。

モノのカウントの仕方も実にややこしい。なぜ鉛筆が一本(いっぽん)、二本(にほん)、三本(さんぼん)、四本(よんほん)、五本(ごほん)、六本(ろっぽん)・・・、と同じ「本」の字なのに「ほん」だったり「ぼん」だったり「ぽん」だったりするのか。六本だけは「六本木」の地名を知っていたのですんなり覚えてくれましたが。英語はその点楽ですね。名詞の前に数詞を置き、名詞を複数形にするだけでたいてい表現できる。

そういえばまだ私が3歳か4歳だったころ、この辺りが苦手だったことを思い出しました。「ひとつ」「ふたつ」「みっつ」「よっつ」「ごっつ!」と言ってしまい、何度も母親に直されたなあ。

彼女ももっと楽だと思っていたらしく、ランチを終え、お茶をしていた頃ようやく疲れた表情で解放してくれました。今回は急に誘ったから仕方なかったけど、次回はあなたも何か準備してきてねと念を押されましたが(笑)。

あっ、さすがにランチは奢ってくれましたけどね。

2008年7月8日火曜日

Boyz II Menはフィラデルフィア出身
























7月5日、独立記念日の翌日の土曜日はまだ余韻もなにも、お祭り気分のまま。
ウィリアム・ペンがクェーカー教徒を引き連れて上陸したデラウェア川の河川敷、ペンズランディング(Penns landing)では数日にわたって様々なイベントが開催されていましたが、その中でも地元フィラデルフィア出身のメガヒット黒人ヴォーカルグループ「Boyz 2 Men」の無料コンサートはものすごい人出で盛り上がりました。

まずは前座のDJ Jazzy Jeff(俳優になる前のウィル・スミスとのhip hop デュオ「DJ Jazzy Jeff & the Fresh Prince」のDJ)のパフォーマンス。そういえばウィル・スミスもフィラデルフィア出身なんですよね。

そして「Boyz 2 Men」。さすがフィラデルフィアが生んだスターだけあって、みんな歌う歌う。全曲歌詞を暗記しているのではないかという陶酔ぶりでした。

私がまだ高校生だった頃ラジオで聞きかじった、でも曲名が思い出せないものばかり。濃くなる夕闇、黒人の人ごみ、川面のさざ波と美しいハーモニー。総立ちなのでほとんど歌っている彼らは見えないのですが、会場が一体になっていく大きなうねりに身を委ね楽しみました。

が、プログラムも後半にさしかかった頃、怪しかった雲行きがこらえきれなくなったように大粒の雨を落とし始め、すぐに土砂降りに。「End Of The Road」を背中に聞きながら早々に退散しました。サンダルは泥水でぐちょぐちょ。押し合いへし合いで出口にたどり着き、やっと人ごみから抜け出せたと思ったら大音響と共に花火が次々に打ち上げられました。霧と煙にむせぶ古都の空に、少々やっつ
け気味に色とりどりの花を咲かせお開き。

そのまま比較的庶民的な日本食レストラン「葵」へ行き、アジフライ定食を食べて帰ったのは11時近く。揚げすぎでガチガチの衣が胃に応えました。

フィラデルフィアは70年代にはフィラデルフィアソウル(Philadelphia (or Philly) soul)と言われるソウルミュージックが一世を風靡した音楽の街でもあるんですね。
「Boyz 2 Men」とは時代が違いますが、その歴史の延長線上にあるのは確か。R&Bやソウルミュージックが好きでという理由ではなく、住んでいる街の歴史を知りたくてという理由で最近興味が湧いてきました。街への愛着がこんなに強くなるなんて、日本ではありえなかった感覚です。なぜでしょうねえ。

2008年7月5日土曜日

Liberty BellとIndependence Hall




















7月4日はアメリカ独立記念日(Independence Day)。国を挙げてのお祭りですが、建国の歴史と言えばここフィラデルフィア。ここ数日様々なイベントで街はにぎやかになってきました。

独立宣言の時打ち鳴らされ、その後「自由」のシンボルとして奴隷解放運動や、反戦運動の際にも用いられた、ご存知ヒビ入りの鐘「Liberty Bell(自由の鐘)」はLiberty Bell Centerに設置され、手荷物チェックだけで無料で見られます。もう3回は見に行きました。

1776年に独立宣言が採択されたほか、憲法制定会議も行われた「Independence Hall」(独立記念館/1749年に、ペンシルバニアの議事堂として建設された)の写真はこちらです。ユネスコの世界遺産(文化遺産)として登録されています。かつてLiberty BellはこのIndependence Hallの時計台にかけられていました。ベンジャミン・フランクリンやトマス・ジェファソンらアメリカ建国の志士らも、この鐘の音に鼓舞されイギリスの圧政からの独立を胸に固く誓ったことでしょう。

ちなみにアメリカの議会は「上院 (upper house)」「下院 (lower house)」と言われますよね。これはアメリカの首都がフィラデルフィアであった頃、議会が使用していたここIndependence Hallで、議員数の多い代議院 (House of Representatives) がその1階部分 (lower house) を、少ない元老院 (Senate) が2階部分 (upper house) を使用したことからこう呼ばれるようになったんですよ。

3枚目の写真は警備員のおじさんに無理を言ってカメラを渡し、Liberty Bellの内部を撮ってもらったものです。なかなかめずらしいでしょう!

2008年7月3日木曜日

「超」未整理法

渡米前は想像できなかったことですが、こちらにきて韓国人や中国人の友人が生まれて初めてできました。お互いつたない英語で必死で伝え合うとき、そこに嫌韓とか、反日感情とか、歴史問題、領土問題といった阻害要素が介在せず、驚くほど素直に向き合えるのです。

あそこでアジア系の食材が安く手に入る。
あそこで無料の英会話教室がある。
近所のお祭りはいつだ。

同じ場所で共に生きぬく、というシンプルかつ根源的な悩みを個人レベルで共有したとき、以外にあっさりと問題は解決するのではというのが実感です。

昨日会った中国人の女の子には本当に驚かされました。日本が大好き。日本のものなら食べ物も、文化も、価値観も全部好きという彼女。某日本人歌手によく似た愛くるしい顔立ち。身につけているクリスタル系のピカピカした小物もよく似合います。英語ほどではないですが、日本語も1年しか勉強していないというわりには流暢。日本が好きと言ったところで、アイドルやアニメが好きな程度だろうと高をくくっていたら大違い。

「中国の政府は本当に馬鹿みたい。南京の虐殺だって何回も持ち出しては日本政府に謝れって言うでしょう。でも私知っているのよ。日本の政府はもう何回も謝ったし、お金だっていっぱい中国に渡している。第一アメリカなんか原子爆弾を広島に落としているのに、一度だって謝っていないじゃない。あと日本でたった一校か二校、中国との戦争の表記が間違っている教科書を取り入れた高校があったときも、中国じゃ新聞の一面の大見出しよ。それで中国じゅうが日本のについて間違った情報で混乱して、日本を憎み続ける。おかしいよ。日本はあんなに小さな島国なのに、世界第2位の経済大国でしょう。もっといっぱい学ぶべきものがあると思うのよ日本から。いま中国じゃ土地がないからってすぐに木を切っちゃって、誰も環境のことを考えていない。中国にいるときに日本人の留学生にいっぱい会ったけど、みんな優しくって私によくしてくれた。そしてとっても頭がいい。ほんの数ヶ月いただけでも必死に勉強して中国語をマスターしていく。でも日本に長いこといる中国人で全然日本語を話せない人、いっぱいいるよ。」

唐辛子粉で染まった細ちぢれ麺のラーメンをすすりながら、英語で語る語る。その勢いに押されしばし呆然。

彼女の情報が100パーセント正しいかはともかく、そんな風に考えられる中国人がいたということに本当に驚きました。そしてそれを日本人である私に伝えようとする必死さにも。上記の捉え方は、比較的私にとって受け入れやすいし一般的にも浸透されたものだとはいえ、あえて面と向かって話題にすることは避けてきました。正直、そういったナショナリズムを背負ってアイデンティティにするのは嫌ですし、あまりクリエイティブだとも思えないので。

もし昨年くらいに彼女に日本で出会っていたら、もっと心を動かされのたかもしれません。好むと好まざるとに関わらず「愛国心」とか「日本人論」といった虚実のトレンドを、マスコミがムーブメントにしようとしていた影響を、少なからず受けてしまったでしょうから。

強烈なインパクト後の感情が帰結する場所を失い、しばらく彷徨いました。もしかしたら彼女のように自国を客観視できる人が中国にも増えてきているのかもしれない。いやでも、そこまで愛されるほどの国なのか日本は?という問い。アメリカかぶれならぬ日本かぶれになっていないかい?という彼女への疑問。

しかし最後はシンプルな思考へと大きなループを描いて戻ってきます。結論がでないまま小さな引き出しを作って、そこへペンディングにしておくしかないなあと。気になってまた開けて見てしまうかもしれないし、二度と思い出さないかもしれない。海外に住むと、こういった引き出しがどんどんと増えていきます。簡単に整理できる方法は、ないですね。

2008年7月1日火曜日

「エシュリック邸」と「母の家」






渡米以来の夢だった、現代建築の2大巨匠、ルイス・カーンの「Esherick House」(エシュリック邸)と、ロバート・ヴェンチューリの「Vanna Venturi House」(母の家)をやっと、やっと、見にいくことができた。

フィラデルフィア郊外の閑静な高級住宅街、Chesnut Hill。
R8の電車で終点の一個手前の「Highland」に降り立つと、オレンジ色の胸をした鳥たちのにぎやかなコーラスと、冬の木立をかき鳴らす風の竪琴の歓迎を受ける。

駅から徒歩数分。
隣接して建つこの趣向の異なる傑作を目にしようと足並みはどんどんと早くなる。
通りがかった老人に道を訪ねると

「有名な建築なんでしょう。エシュリック邸の方には私の友人が住んでいるよ。私はここの生まれ育ちでね、外科医をしているんだ」

と静かに微笑み、親切に両方の建築の前まで案内してくれた。


『エシュリック邸』
明るい砂色の壁に、カプセルのように埋め込まれた茶褐色の木枠と広い窓。

個人宅というのが理由かもしれないが、今まで私が抱いていたルイス・カーンのいわゆるモダニズム的、禁欲的な構造美の追求という固定観念を見事に打ち砕いてくれる、衝撃的な出会いだった。

裏庭に面した壁の一部とも言える広い窓が、空と自然を取り込み、溶かし込み、放出する。
静態である建築空間に動揺を誘う風の揺らぎ。
木々のささやき。
遠い雲の影。
外部と内部がクラインの壷のように永遠に巡る。


『母の家』。
この色は「水浅葱」というのだろうか?「湊鼠」というのだろうか?
いやきっとそのどちらでもない色に、多分最近塗りなおされたであろうのっぺりとした顔を持った家は、郊外の住宅街の中でひっそりと目立っていた。
窓から覗くと、彫刻のような老人の横顔がかすかに動いた。

ロバート・ヴェンチューリはルイス・カーンのもとで学んだポストモダンの建築家、現在もフィラデルフィアに事務所を構え活躍している。
モダン建築を否定した彼の代表作言われるのが、母の為につくったその名も「母の家」。

コンクリート造にもかかわらず近代建築が忌避した、切妻形という「家」を象徴するファサードを大胆にも採用したところにこの建築の歴史的意味がある。のだそうだ。


神への賛美であったり、哲学の具現であったり、人間性の復古であったり、自然との共生であったり。
意味を追い、空間を創造し、そしてそれを否定する
建築の果てない戦い。

この二つの建築もいずれ古典になる。いやもうその価値を否定されない以上「古典」なのかもしれない。

私はただ、そこに人が住み、郊外の美しい風景の中にこれらの「家」が生きて呼吸をしているという事実が嬉しかった。

家とはその「意匠」とやらを額に入れて飾るのものではなく、住むところだから。



注)この日記は2008年02月08日にmixiに書いたもののアーカイブとしてブログへ転用しました