2015年3月5日木曜日

多様性 および生命体としての街について

お元気ですか?東京は梅や桃の花の季節なのでしょうね?
ニューヨークは2月20日にセントラルパークで-14.4℃が観測され、1950年の-13.8℃の記録を65年ぶりに更新したとのこと。我が家の周りはまだ雪で覆われており、連日スノーブーツで通勤しています。

さて、今回のテーマは「ダイバーシティー」(diversity)について。ニューヨークで非常によく聞く単語の一つで、「多様性」、特に民族・人種・宗教の多様性という意味で使われることが多いです。

それを象徴するようなニュースがこちら。
ニューヨーク市のビル・デブラシオ市長は3月4日、ブルックリン区の公立学校で会見を開き、公立学校の休日にイスラム教の祭日を2日加えると発表しました。

この休日は今年9月に始まる学年度から適用され、同月24日が、預言者イブラーヒームが息子を神への犠牲として捧げようとしたこと記念するイド・アル=アドハーの祝日で休みとなります。

またラマダーンの終了を祝うイド・アル=フィトルも休みとなるそうですが、来年の夏からスタートするためか、具体的な日付は明らかになっていないようです。市長は「(この決定は)市の多様性に対する敬意の表れ」とコメントしていました。

ニューヨークはイスラム教徒の人口が非常に多く、あるニュース記事によると60万人〜100万人はいるとされており、学校に通う児童の10%がイスラム教徒とのことです。

市長のこういった会見は、いかにもといった場所で開かれることが多いのですが、今回の会見が開かれたブルックリン区の学校は、前回のイド・アル=アドハーの日に全校生徒の36%が休んでいたということ。つまりイスラム教徒が多く住むエリアへ敢えて出向き、「お宅のお子さんは今後、正々堂々と公休日として宗教的祭日を祝うことが出来るのですよ」とアピールしているわけですね。

ニューヨーク市の公立学校の休みって、そもそも何があるのだろうと調べたところ、7月、8月の大型休暇、サンクスギビングデー、メモリアルデーといった国をあげての祝日以外に、ユダヤ暦の新年祭「ローシュ・ハッシャーナー」、ユダヤ教の贖罪の日「ヨム・キプル」(どちらの9月)というのが目に飛び込んできました。さすがユダヤ教徒の多いニューヨーク。

少し脱線しますが、化学者の夫がブルックリン大学で教えていたときも、大学がユダヤ教徒の居住区の近くにあるため、かれらの休みを尊重しなくてはいけなかったそうです。たとえば「いついつまでにレポートを提出して」と伝えると、「せんせー、それユダヤ教の休みとかぶっているんですけどー」というような反応が返ってきて、締め切りの変更を強いられ、ふつふつと怒りが湧いたそうです。政治的力の差を感じます。

公立学校の休みに話を戻しますと、公民権運動の指導者として知られるキング牧師の功績を称える、その名もマーティン・ルーサー・キング・ジュニア・デー(1月の第3月曜日)も入っていました。これは外せませんね。

さらにまだ実現はしていませんが、市長が実現に向けて働きかけていると明言しているのが、英語でチャイニーズニューイヤーと呼ばれる、いわゆる旧正月。マンハッタンやクイーンズ区にあるチャイナタウンでは毎年、町をあげて2月の旧正月を祝うため、ニューヨークの風物詩の一つになっていますが、なぜこの日を公立学校の休みにする必要があるのか?
それは、それだけ移民が多い、つまり学校に通う中華系の子供が多く、さらに二世、三世が政治家になったり、事業で成功するなどして、政治的な発言力を持つようになっているからだと推測されます。

まあ、私たち日本人はこの町ではマイノリティーですし、政治的に働きかけて権利を主張する人も特にいませんし、ほとんどの人が選挙権を持っていない(つまり票田にならない)生き物ですので、日本の祝日が公立学校の休日になる日は来ないでしょう。

逆に少子化の深刻化が叫ばれている割には、移民政策をしているようには全く見えない日本政府ですが、いずれはこういった形で、移民として日本に来てくれたアジア諸国やブラジルなどの祭日を、学校や国民、あるいは市町村の休日に取り入れるような柔軟さがでてくるのかなあ、と考えています。そうしないと、国としての未来がないとすら思えるのです。

生物学者で作家の福岡伸一さんは、生命とは何かという問いに対し、「動的平衡」(絶え間なく壊される秩序)というキーワードを使った回答を、鮮やかに展開してくれます。

手元にある彼の著書『生物と無生物のあいだ』と『動的平衡』から要約すると、わたしたち生命体を構成する分子は高速で入れ替わっており、生命体というのは、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかなく、常に分子を外部から与えないと、出ていく分子との収支が合わなくなる。

生命とは動的平衡にあるシステム。可変的でサスティナブルを特徴とするシステムは、その物質的構造基盤、つまり構成分子そのものに依存しているのではなく、その流れがもたらす「効果」である。つまり生命現象とは構造ではなく「効果」である。ということです。

この「生命体」をニューヨークという街、あるいはアメリカという国に置き換えても、そっくり同じシステムで説明できるのではないかと最近思うのです。この街、そして国は移民で構成されており、一時、あるいは一時代淀んだら、また入れ替わっていく。その流れのハンドリングをするのが市や連邦政府の役割で、サスティナブルに息づき継続するために、ダイバーシティーを受け入れながら、あれこれ施策を練っているのですね。だからこの国にはダイナミズムが感じられるのかもしれません。

日本という国も「生命体」の一つ。こちらは可変的でサスティナブルかどうか、外からみていると「うーん、どうなんだろう」と思ってしまいます。

学校の休日システムの話から大分膨らみましたが、ニューヨークという怪物のような生命体にを通過する一分子として、周囲に流れゆく分子たちを見ながらちょっと思いを巡らせてみたのでした。