2010年12月19日日曜日

フラッシング 其の一

ラガーディア空港のすぐ側にあるため、数分置きに旅客機が腹を見せながら轟音と共に頭上を通過する。ビルの屋上に立って手を伸ばせば届きそうな低い位置を飛ぶので、なかなかの脅威だ。思わずそのつど顔を上げて見てしまうが、街ゆく人々は気にする様子もない。

クイーンズ区の奥地、フラッシングには濃厚なアジアの世界が広がる。70年代には日本からの駐在員やその家族が多く住んでいたそうだが、今ここに住む駐在員はほとんどいないだろう。

最初に増えてきたのは韓国系、その後台湾系、その他の中国の地域からの移民もぞくぞく押し寄せた。メインストリート駅の周辺には中国系や台湾系、少し外れると韓国系、さらにインド系も増えて来ている。

中国語と韓国語の看板が溢れる、道ゆく人はほぼアジア系。聞こえてくるのも中国語か韓国語がほとんど。白人や黒人の姿をみることはほとんどない。街には統一感とか、デザイン性といった計画性が見受けられない。ごちゃごちゃなのだ。街全体が市場。店先で山盛りにして売られる野菜や果物、漢方食材、立ち食い所でかき込む1杯数ドルのスープや1ドルの北京ダック、握りこぶし大のゴマ団子は1個75セント。海賊版のDVDやニセモノの時計を路上で売る人々、その横で布教活動に励む法輪功のメンバー。

マンハッタンのチャイナタウンやコリアンタウンが観光地だとすれば、フラッシングは生活感溢れる庶民の娯楽の場所。近隣の小さなチャイナタウンから週末ともなれば、大勢の中国人が現れ、買物や食事を楽しむのだという。駅周辺には広東料理、四川料理、福建料理、上海料理、台湾料理、さらにマレーシア料理やベトナム料理まで、さまざまなレストランがひしめき合う。

安くて上手い中華料理を食べたければ、マンハッタンのチャイナタウンではなく、フラッシングへ行った方が良いというのは当地に長期在住の日本人にとってはもはや常識。ただ難点はマンハッタンからちょっと遠い。英語が通じない店が多い。ウェブサイトを持たない店が多いため、行ってみないことには何が食べられるのか分からないとあって、食に対する探究心が旺盛なNY在住の日本人ブロガーの記事を読んでも、結局登場する店はいつも同じ小龍包の有名店か、韓国の焼肉店。

そこで私の勤める日系ローカル新聞では「フラッシング特集」を組み、冬オススメの中華スープを紹介することに。ちょうど良いタイミングで、上海で仕事をした経験のあるインターンが来たので通訳を頼み、まあなんとか興味深い店、メニューを紹介することができたのではないかな、と。

この仕事の一番の楽しみは、取材を通じて興味深い人に会えること。今回もYさんという中国育ちの韓国人のおじさんと、運命的な出会い(?)を果たした。彼については次回のお楽しみということで。

こちらが「フラッシング 冬の中華スープ紀行」の記事です。
http://www.ejapion.com/special/585/1/
http://www.ejapion.com/special/585/2
http://www.ejapion.com/special/585/3

2010年10月30日土曜日

原点回帰

横浜の友人宅のマンションより地平線を臨み、厚くたれ込めた雲海から顔を覗かせる青い尾根の美しさに、息をのんだ。富士山が見えなくとも、日本の景色には趣がある。むしろ富士山なんか見えない方がいいのかもしれない。あんな仰々しい、自己顕示欲の強い山。

ビザ更新のため、一時帰国中。帰国2日目にして、朝霞駐屯地で開催された陸上自衛隊の観閲式へ行き、菅直人を拝んできた。観閲式とは海上、陸上、航空の各自衛隊が、3年に一度開催する一大行事。戦車や戦闘機、隊員や防衛大学の学生らによるパレードやデモンストレーションが、数時間に渡って繰り広げられた。一糸乱れぬ行進を披露するため、1カ月は練習をするのだとか。

もっと物々しい世界を想像していたが、自衛隊のイメージアップのためのお祭りといった感じで、たこやき・焼きそばなどの屋台や、自衛隊グッズの販売などもあり、その道のマニアの方々は望遠カメラで興奮気味に戦車の写真を撮っていた。実に平和な風景である。

友人宅を点々としながら、ビザの発給を待っている。パスポートが米国大使館から送られてくるまで、足止め。しばし締切に追われる生活と、英語の恐怖から離れホッとする日々。今後当分は帰国できないので、お世話になった多くの方々にお会いし、お話をうかがっている。以前の上司、大学の教授、お世話になったジャーナリストの方々、旧友たち、足しげく通っていたバーのマスター、昔の恋人…。

昔の恋人に会うというのも不思議な感覚だ。あまりにも会っていない時間が長いと、そこにあったであろう錆び付いた愛の痕跡を意識するものの、それが喜びにも悲しみにもならない。あえていうならば、かすかな疼きと違和感。化石を掘り当て、掌においてじっと見つめる感覚とでも言おうか。それが眠っていた地層や保存状態から、歴史を紐解く鍵ともなるが、己を考古学的に分析するのには勇気がいる。そっと大地に戻し、砂をかけるほうがいいと最後には判断する。

海外に長期滞在後、母国に戻ると、好むと好まざるとに関わらず、原点回帰を強いられる。異国で暮らすことを選んだのは私の意志であり、そこには責任が生じる。自由と自己責任はセットで購入しないといけない。そして母国に帰ると、意識的に二足歩行を始める前の、己のカオスの時代と向き合うことになる。忘れてしまっていたのか、忘れてしまいたかったのか。

過去は憎しみの対象となりがちで、時折激情に突き動かされ、整形手術前の写真のように(これはあくまで比喩で、私は整形手術はしていない。手術をしてこの程度の顔では、ヤブ医者だ)葬りたくなる。だが、時には整形前の顔を見つめないといけない。隠したシワや、取り去ったたはずの顎のラインに、真実が隠されており、そしてそこに今後の生きるヒントがあるはずだから。

雲はとうとう山を覆い尽くし、灰色の重い空は街をも飲み込んでいく。雲の向こうの山は見えなくても、ある事実は変わらない。見えたり見えなかったり、美しい顔を覗かせたり、さらにその向こうに威風堂々と富士山が立ち上がったり。一時の風景で世界を褒めちぎることも、糾弾することもできない。己の原点もしかり。呼吸を整え、時間をかけて定点観測をする必要がある。。

2010年9月12日日曜日

2010年9月10日の夜




ファッションウィークで盛り上がるNY。
各地で関連イベントが繰り広げられ、街は華やいだ雰囲気が溢れています。
『Sex and The City』の衣装担当で知られるパトリシア・フィールドの店は、ファッショニスタやゲイの人たちで溢れかえり、熱気がむんむん、香水ぷんぷん、ドラッグクイーンのおっぱいはパンパン。全てがどぎつく、テレビの中の世界のよう。

年なのかしら。エネルギーが持たず、酔っぱらって、ドラッグに手を出し、誰か知らない人の家で頭痛とともに目が覚める、なーんてことにはならず、そそくさと退散。

外に出ると、世界貿易センタービル跡に立つ2本の光の柱が雲にぶつかり、不思議な光の輪を空に作っていました。まるで亡くなった魂が集結しているかのような。そう、もう9年も経つんですね。あの日から。

そしてNYに引越してきて1年が経つのだと気がつきました。
明日は取材のため、一日ハーレムです。

2010年8月23日月曜日

人生には音楽が必要だ

ブロードウェイミュージカル「シカゴ」ロンドン公演のヴェルマ・ケリー役などで知られる、女優兼歌手、ウテ・レンバー(Ute Lemper)のコンサート「The Bukowski Project」へ行ってきました。

それは単なるミュージックコンサートというより、朗読劇に近いものでした。タイトルにもあるように、アメリカの詩人で作家の、ヘンリー・チャールズ・ブコウスキー(Henry Charles Bukowskiの詩を読み上げたり、彼女が作詞作曲した歌を歌ったり。非常に多才な人という印象。

それは抜群の歌唱力とか、演技力とかそういったものではなく、何かが乗り移ったような凄みのある舞台でした。ブコウスキーの詩は難解で、彼女独自の解釈を加えたと思われる演出もあり、全体のイメージとしては、デカダンというかキャバレー的というか。ゆるゆると流れる煙草の煙と、瓶からラッパ飲みするウイスキーが似合う感じ。まあ会場となったヴィレッジにある「Joe's Pub」自体、そういった雰囲気を醸し出しているのですが。

ウテは同じドイツ人女優、マレーネ・ディートリッヒを彷彿させる美人なのですが、大柄で骨張った体躯や、高い眉骨や頬骨、目をカッと見開いたり、片方の口角をくいっとあげて皮肉めいた表情を見せるところなど、両性具有的な怪しくも高貴な魅力で見る者の魂を支配していきました。

舞台上ではこのプロジェクト及びツアー用に彼女が選んだ、ピアニスト、ベーシスト、ドラマーがサポート。ベースとなる音楽はジャズで、時折クラシック音楽も挿入される、完成度の高いパフォーマンスでした。特にピアノが良かった…。

コンサート後、ベーシストのスティーブ(友人です)と、ピアニストのバナ(Vana Gierig)、及び一緒鑑賞した日本人の友人と夕食を食べに。バナは初対面でしたが、非常に気さくな人で大いに打ち解け、話を聞いたところびっくり!

自身のトリオ「Vana Trio」も率いるドイツ人ジャスピアニストの彼は、かのフリードリヒ・グルダの愛弟子だったのです!! 誕生日も一緒で二人で祝ったこともあるとか。また日本にも何度もライブで訪れており、「ブルーノートやニューポート・ジャズ・フェスティバル・イン・斑尾にも出たよ」とのこと。

この”ニューポート・ジャズ・フェスティバル・イン・斑尾”を全く知らなかった私と友人に、彼は
「ほらマダラオって場所あるでしょう?」
「知らないよ」
「冬期オリンピックの会場の近くだよ」
「長野?」
「そうそう。有名なジャズフェスティバルなんだから。ニューポートって名前をつけたジャズ・フェスティバルは世界に3カ所しかなくってね…」
と、まったく怒りもせず丁寧に教えてくれました(申し訳ない)。

とても幸せな時間だったので、少しだけお裾分け。実際これらの曲はコンサートでは披露していないのですが…。

Ute LemperのAll That Jazz
http://www.youtube.com/watch?v=17SpgmurSok

Vana Gierigのピアノトリオ。インタビューもありプロモーション的なビデオです。私は彼のピアノの虜になりました…。
http://www.youtube.com/watch?v=4z1bYbPGoqU&feature=player_embedded

2010年8月7日土曜日

この場所はかつて…?

日本でも猛暑が続いていると聞きました。皆様お元気でしょうか?

さて、ずっと温めていた企画が通り、ニューヨークの建築をテーマにした巻頭特集を手がけることができました。この「巻頭特集」は、私が編集者を勤める日系新聞のウリ。3ページに渡り、毎回違ったネタで、読者であるNY及びその近郊に在住の日本人の方が面白いと思って頂ける記事を提供するのです。

建築をテーマに、といっても切り口は様々ですが、私はその建築の歴史的変遷をNYの歴史と絡めて見せたかった。それもエンパイアーステートビルや、クライスラービルディング、ワールドトレードセンターのように、誰もが知っているような有名建築でなく、普段何気なく目にしているような建築が持つ物語を掘り起こしたかったのです。そしてその建築が改装を経て、用途を変えながら、今なおそこで息づいているというところに注目したかった。見せたかったのです。タイトルは「この場所はかつて…?」としました。

思い入れのある企画でしたので、リサーチ、インタビュー、執筆、写真撮影まで、全て1人でこなしました。

紙面とレイアウトは異なりますが、ネットにアップされた記事はこちらです。お読みいただければ幸いです。

http://www.ejapion.com/special/566/1/
http://www.ejapion.com/special/566/2
http://www.ejapion.com/special/566/3

もう8月ですね。お彼岸も近いなあ。私もそちらの岸に、時折戻りたくなります。

2010年6月25日金曜日

渡る世間は…?

取材をしていると色々なことがあります。
いや、NYに住んでいるから色々なことが起きるのかもしれません。

この前、某国領事館に取材で何回か行く機会がありました。またその後も、メディア向けのイベントなどで、どういうわけか、その国の領事の男性と何回か顔を会わせる機会があり…。

で、口説かれました。口説かれるのは好きですよ。オンナ冥利につきるってもんじゃないですか。でもね…。

まあ、状況が状況だったのかも。その国名産の某アルコール(一応お立場がお立場なので隠しておきます)のテイスティングパーティーで、彼はほろ酔い気分でこう言いました。


「君とカーマスートラがしたい」


あのカーマスートラですか????
二の句が継げない私に、彼はこう畳み掛けました、


「君は大人の女性だから、割り切った肉体関係が結べると思う。毎晩電話してくるような、うっとうしいガールフレンドはいらないんだ。お互い、会いたい時に会える関係でいたい。僕も忙しいからね。

僕は仕事で世界中を回っているから、色んな性の技法を知っている。君と新しい世界をディスカバリーしたい。カラダで分かり合いたいんだ。君を裸にして2時間しっかりと指圧をしてあげよう。香港で勉強したから本物さ。

ブロードウェーを見に行こう。チケットなんか立場上、タダで手に入るんだ。でも一緒に行く女性がいない。君と観にこう。他にどんなことがしたいかい?

君はジャーナリストだろう。僕がお金を出してあげるから、僕の国へ取材に行っていろんな街を回っておいで。そして記事を書き、ジャーナリストとして羽ばたきなさい。

ああ、すっごいいいお尻だ。噛み付きたいね。舐め回したい。そこのトイレでセックスしようよ。だめ? You are too shy。オーケー、キスぐらいしてくれるだろう?それもダメなのかい」


一応物事には順番とか、駆け引きとか、嘘でもロマンスらしきものがないと、盛り上がらない私は、すっかりゲンナリしてしまいました。

国際ジャーナリストとなる可能性をばっさりと切り捨て、丁重にお断りしました。こう言って

Sorry. I do not feel chemistry with you.
(あなたにケミストリーを感じないの。つまりあなたには惹かれるものがないのよってことです)

意外にグサッとくる一言かもね。
でも後になって、

「Oh, She used to be my girl. Well, you know just one of them. Actually I can not remember even her face. But she had such a nice ass.....」

とか言われたくないので(笑)。

渡る世間は、ガツガツしたエロオトコだらけ in NY。

2010年6月1日火曜日

クイーンズ午前4時半

全身汗だくで覚醒した。冷房のないこの狭いアパートメントは蒸し風呂状態だ。

昨夜はいつ気を失ったのだろう。
おかしな筋肉痛がカラダを蝕み始め、風邪を引く予感がしたのでいつもより早く、といっても午後10時過ぎだが、帰宅。茹で野菜を塩、胡椒、オリーブオイル、アップルビネガーで和えたシンプルな夕食を食べながら、ネットフリックスで借りた『ディパーテッド』のDVDを途中まで見たのは覚えている。
意識が朦朧としていたせいかもしれないが、英語字幕をつけて見ても話についていけず、やたら「fuck」が連呼されるという印象。ディカプリオやマット・デイモンより、ジャック・ニコルソンに抱かれたいと思う私はおかしいのだろうか、と首を傾げながら、3分の1も見ないうちにギブアップ。そのままベッドに転がり込み、まどろむ間もなく、堕ちた。

ウォールストリートにある弁護士事務所に、午前8時半でアポが入っている。移民局から届いたビザの書類を受け取りにいくのだ。早起きは苦手なので、目覚まし時計を2つ、午前6時45分に設定しておいた、という記憶が夢を妨げる。午前4時ごろから5分おきに目が覚め、時計をチェックしては、舌打ちをして床に戻る。神経質なのだ。そして、午前4時半に諦めて起きることに。

睡眠は脳を休ませるために必要というが、私の場合、睡眠中も脳がフル回転している感覚がある。特にこの仕事を始め、常に締切や取材の問題を抱えているため、残念なことに仕事の夢しかみなくなってしまった。夢の中では大抵、ヒドいことが起きている。校了後の紙面に大きなミスが発見された、取材先から記事に苦情が入った、インタビュー先で英語がまったく出てこなくなる、読者から届いた私の記事へのお褒めの手紙が、実は私が偽造投稿したものと発覚し、編集部から総スカンをくらう…。最後の夢にはさすがに自己嫌悪に陥った。いったい私はどれだけ「褒められたい」のだろうと。

煙草をくわえて表に出た。闇が青さに溶けはじめていた。部屋の中よりよっぽど空気が心地よい。新緑の街路樹に隠れた鳥たちの大合唱に、思わず微笑んだ。そうだ、鳥は早起きだった。足早に仕事に向かう労働者の姿もちらほら。

部屋に戻り、『LEE』誌上での、中山美穂と辻仁成の対談に目を通す。女性誌らしく、きれいにまとめられた内容だが、それでも生活のリアルさを感じられるのは、同じように海外でガイコクジンとして暮らしているからかもしれない。最近になって彼女が好きになってきた。リアル、があるからだと思う。生々しさでもなく、共感や親しみやすさでもなく、憧れでもない。ああ、この人の生き様がここに出ているなあ、リアルに表現されているな。と思うと、好きになる。それは彼女自身というより、編集方法が上手いからだ、とも言えるが。

ちなみに、日本の雑誌はニューヨークでも簡単に手に入るが、高い。『LEE』も17ドル50セントもした。一緒に購入した『BRUTUS6月号ーポップカルチャーの教科書』は14ドル90セント。今更ポップカルチャーだなんて、と苦笑しながら、でも買ってしまった。ホームシックなのだろうか?

街が起きてきた。さて、シャワーでもあびますか。

2010年5月17日月曜日

就労ビザが下りました

みなさま、ご無沙汰いたしております。
お元気でお過ごしでしょうか?

このたび顧問弁護士から、米移民局に申請しておりました就労ビザ(H1-b)の申請が許可されたとの連絡を受けました。正式な書類はまだ届いておりませんが10月1日からビザステータスが変更となります。現在のビザ(J2)の期限が10月14日まででしたので、スムーズに移行できる運びとなりました。

これをもちまして、雇用主の意向が変わらない限り、あるいは会社が倒産の憂き目に会わない限り、最長6年間(少なくとも3年間)の「自己理由による」米国滞在が可能となりました。非常に嬉しく思っております。

日系の新聞社での編集者としての仕事も充実しており、刺激的な日々です。英語もまだまだですが、仕事上なんとか使えるようになってまいりました。これをチャンスと思い、ますますステップアップしていく所存です。

多忙につきなかなか日記を更新できずにおりますが、元気に精力的に動き回っておりますので、ご心配なさらないでください。

今後ともよろしくお願いいたします。
ニューヨークにお立ち寄りの際は、是非お声をおかけ下さい。
お目にかかれますことを、心より楽しみにいたしております。

2010年5月5日水曜日

格闘家デビュー?













とあるジムに、キッズボクシングクラス(子どものためのボクシングクラス)があると聞いて取材に行きました。ウェブサイトにも子どもの写真があり、電話でも確認済み。これはいい記事が書けるぞとホクホク。ところが…。
「子どもの写真を撮るのには親の許可がいるんだけど、今日親は来てる?」
「親? 全員18歳以上だよ」
というスタッフとのやりとりに不安を抱えつつ向かったジムの奥にあるリングには、屈強なオトコどもとアマゾネス軍団が。焦って振り返り
「子ども向けのボクシングクラスでは?」
「いや、キックボクシング、ムエタイのクラスだけど」
「キッズとキックを聞き間違えたのね………」
スタッフ「ハーイ、彼女日本語の新聞の編集者なんだ」
トレーナー「おおっ、質問があったらなんでも聞いていいよ。写真も撮りな」
スタッフにすがるような目で訴える私。
「だって、ウェブサイトに子どものクラスがあるって書いてあったよね」
「ああ、あれ?アップデートしていなかったよ。ごめんごめん。だいぶ前の話さ」

サンドバッグに強烈なキックを打ち込む人。「シュッシュッ」と蛇が威嚇する時のような音を上げながら、シャドーボクシングをする人。
現場でよくパニックを起こす私ですが(常に焦っています)、これには参りました。が、まあせっかく来たのだからと、邪魔にならないように見学すること2時間。全身汗だくでパンチやキックを繰り出す女性たちの姿に圧倒されました。カラダもキュッと締まっているし、お肌もつるつる、ぴかぴか。笑顔も素敵です。話を聞くと。
「ウェブデザイナーよ。仕事でストレスが溜まっていてね、誰かを殴りたかったの。で、このクラスを見つけてハマっちゃったわ〜。週に4回は来ているの」

よし、決めた。この際このクラスを女性向けのお稽古クラスとして紹介しよう!

そして翌週、私は体験取材のため自らクラスに参加しておりました。格闘技なんて人生初めての経験です。ここ数年こんなに激しくカラダを動かしたことがないというくらい動き回りました。

ストレッチや筋トレからスタートし、パンチの練習。二人一組になって、片方がミットを持ち、それにキックやパンチを打ち込んでいく。はい腕立て20回。それキック。腕立て20回。それパンチ、腕立て20回。次はサンドバッグにパンチ20回、30回、40回。マットを敷いて腹筋20回…と途切れることのないハードなトレーニング。アップテンポの曲が大音響で流れる、蒸し暑い、剣道場のような匂いがするジムで、軍隊のようにしごかれました。
フラフラになりながら、後半の上級者向けクラスにも残り、見よう見まねでシャドーボクシングをはじめたところ、トレーナーに苦笑され
「もう今日はこれくらいでいいんじゃない?」。

文字通り、全身水を浴びたように汗だくで、息も絶え絶えでしたが、むちゃくちゃ楽しかった! こんなに体を動かすのが気持ちいいなんて。ムエタイ最高!

その時はかなり本気で入会を考えましたが、数日経って気持ちが落ち着いてきて、我に返りました。真剣勝負になった場合、防具をつけているとはいえ、顔を殴られるんだわ。だめ、顔は雅子の命だから殴らないで!!鼻血とか絶対にイヤよ!そういえば、現役ムエタイ選手のトレーナー、鼻が曲がっていたじゃない!無理無理絶対に無理。

まだ入会に尻込みをしています。いい運動になるからダイエットにも良さそうなんですけどね。セルフ・ディフェンス力もつきそうだし…。でも顔を殴られると思うと…。

2010年4月20日火曜日

豚の解体クラスへ



小雨の降る夜、キッチン用品や手作りソーセージが揃うこじゃれた「ブルックリン・キッチン」に、女性向けの素敵なクッキングクラスがないかと取材に来た私の淡い期待は、見事に裏切られた。

電話で何回も確認はしたのだけれど。
「その場で切った肉を、この部位はこういった調理法がいいと教えてくれるのよね。そこで調理したものを参加者は食べられるの?」
「うーん、そうね。たぶん…。まあ参加している人たちはいつも何か食べているわ」
「切った肉は持ち帰れるの?」
「その肉はだめだけど、受講料のうち20ドル分は店内の商品が買えるクレジットよ。あのさあ、私ベジタリアンだからよく分からないのよ」。
と、怪しさ満点ではあったが、どうしても見ておきたいという誘惑には勝てなかったのだ。

精肉台に横たえられた、首のない半身の豚。
マイケル・ムーアを彷彿とさせる、小太りでメガネのブッチャーは、缶からビールをグビグビ飲んでおり上機嫌だ。

この「豚の解体クラス」に参加するのは、同じく缶ビールを持った5人の男性。うち二人はレストラン経営者とのこと。他に大型のビデオを回している男性が1人、カメラを構えている女性が二人。このあたりは関係者だろう。

ブッチャーは大いに語る。信頼のおける良い農場から仕入れた良質な豚肉が、どんなに素晴らしいか。そしてビールを飲む。時折肉包丁を腰につけた磨ぎ棒でシャッシャッと研ぐ。そろそろ切り始めるかを客は固唾をのむが、まだまだブッチャーはしゃべり足りないらしい。

ようやく長い前座が終わり、まず切り取ったのがちょこんとついていた腎臓。それから脂肪分。ヒレ、ローイン、足、バラ肉…。さまざまなナイフを使い分け、器用に切り分けていく。
「この部分はソーセージにいいんだ」、「後ろ足の部分は生ハムにするんだ。このブラウンシュガーと塩を混ぜたものをまぶすんだぜ」などと、なかなか講義内容も充実してきた。シェフの客はしっかりメモを取っている。途中、助手が隣のキッチンで自家製ソーセージやもも肉を炒め、まな板に乗せて運んで来てくれる。いい香りだ。オトコたちは争うように指でつまんで、口に放り込んでいく。ビールのつまみにはぴったりだろう。私も1つもらう。上質な脂の香りが舌に溶け、実にうまかった。

肩肉を切り離すと、別のブッチャーがバットを取り出した。そう野球のバット。それで肉を叩いていく。こうすることで肉が柔らかくなり、肉に残った血液も出してしまえるのだとか。細かい肉片が飛んできて、間一髪でかわした。

最後に解体した豚の部位を全て元通りに組み合わせ、拍手。2時間に渡る「豚の解体クラス」は終了。観客はほろ酔い顔で口々に「楽しかったぜ」と言いながら帰っていった。

途中、脳みそをフル回転して、このクラスをどうNYで楽しめる日本人女性向けのおケイコページに紹介するか考えたが、結局やめることにした。昨年はインド舞踊や、ガラスモザイクのお教室や、裁縫クラスを紹介したコーナーに、今年は「豚の解体クラス」を載せるというのはやはりおかしいだろう。という、多分しごくまっとうな結論に達したためである。

2010年4月11日日曜日

深夜の不条理劇場

ニューヨークの地下鉄は24時間営業とはなっているが、夜になると本数が少ない上、長引く工事のためダイヤが変更したり、走行していない路線があったりして、非常に使い勝手が悪い。その上、深夜の地下鉄の駅にはおかしな人が出没する。

ひょろっと背の高い白人の男が近づいてきた。精神異常者のような不安定な定まらない視線に、私は体を堅くした。その瞬間、その男はこう言った。
「ごめん。突然話しかけて。僕すっごいシャイだから、今まで誰にも告白したことないんだけど、君には聞いて欲しいんだ。あの、僕ゲイなんだ」
二の句が継げない私に、そいつはこう続けた。
「誰かゲイの男友達がいたら、紹介して欲しいんだけど」

ささやくような声だが、へんな迫力があり、無視できなかった。
「日本にはゲイの友人はいるけど…」
「その人はニューヨークには来ないの?」
「いや、来ないと思うよ」

おかしな沈黙が流れ、耐えきれなくなったので
「ごめん、私があなたにしてあげられることはないわ」

所在無さげな表情を浮かべ、私から離れこちらに背を向けるその男。私たちのやり取りを、薄ら笑いを浮かべながら見ていた別の男がいた。そいつは最初の男に近づき、なにやらヒソヒソ。で、今度はその第二の男が、私に近づいてくるでははないか。そしてニヤニヤしながら

「さっきあんた、あいつと話していただろう。あいつね、今すっごく傷ついているんだ。あいつの顔があまりに醜いから、あんたに冷たくされたんだって思っているんだぜ」。
「いいえ、別に私は彼が醜いとは思わないけど」
「それは君の意見かもしれないが、実際ものすごく醜いよ。こうぐしゃって潰れたみたいな顔をしている。そうだろう」
と、両手で紙をもみくちゃにするようなジェスチャーをしてみせる。まあ確かに、顔の造作はちょっと異常さをたたえていたが、そこまで言うことはない。それよりこの二人は何者?

「あなたは彼の友達なの」
「まあね。そんなものさ。あいつの顔、本当に醜いだろう」
「いやいや、私はそんなことは言っていないから」。

いったい、これは何の芝居なのだろう? この二人はそうやっておかしなストーリーを作って、人に話しかけ、反応を見るのが楽しみなのだろうか? 「コーヒーをこれから飲みに行かない?」と言うようなナンパは良くあるが、こんな薄気味悪い体験は初めてだった。非常に気持ちが悪かったので、話を切り上げようと少し離れたところ、第二の男は鞄から分厚い本を取り出した。

「この本読んだことある?」
なんだ、なんだ、新手の宗教の勧誘か?
そこにゴーっと待ちに待った地下鉄が入ってきたので、もう無視して乗り込んだ。これで振り切れたかと思ったら、そいつらも乗り込んできて、私のことだろう。なにやらヒソヒソと話している。

と、そこで気がついた。動揺していたのか、逆方向の地下鉄に乗っているではないか。家とは逆方向のブルックルンに向かっていくのに気がつき、愕然とした。もう相当の深夜なので、次の駅で降りて戻ろうにも、また数十分は地下鉄を待たないといけない。

これ以上地下鉄の駅にいると、何か危険に巻き込まれるのはないかという、非常に嫌な予感がしてきたので、次の駅で地上に出て、急いでタクシーを拾った。ウィリアムズバーグ・ブリッジでクイーンズに渡り、イーストリバー沿いにマンハッタンの夜景を見ながら帰宅。体にネバネバとまとわりつくような嫌悪感と戦いながら、いったいあれはなんだったんだろうと考えた。

「顔が醜いと言ってもらいたかったんじゃないですか? 貶められるのが好きな人っているじゃないですか。そういうプレイだったのかも。ゲイのカップルの」
と、話を聞いた同僚は笑って言った。
そうなのだろうか?
もし、そうだとしたら、「そう。彼の顔が醜いから、私冷たくしたのよ」と答えておけば、満足したのかもしれない。そうしたら、その後二人は

「お前の顔が醜いから、軽蔑されるんだ。地下鉄の駅で会った人にも言われたじゃないか」
「そ、そうだよな。オ、オレが醜いから…」
「気持ち悪いったらないぜ、お前の顔はよう、まったく潰れたカエルみたいだぜ」
「そ、そんなオレとつきあってくれて有難う」
というような会話を楽しみ、関係が蜜になったのかもしれない。

まあ、あまり興味はないけれども。

2010年4月3日土曜日

メイクオーバー



バーバラ・ビルカージックはやり手実業家だ。著名なメイクアップ・アーティストで、自分の名前をつけたコスメティックライン「bilkerdijk」を展開し、更にメイクサロン兼スパを経営している。顧客にはセレブリティも数多くいるとのこと。

彼女のサロンで開催されたメイアップイベントに招待された。モデルを使ったデモンストレーションで、参加者に今年の流行を伝え、その後は参加者もメイクオーバーを体験できるというもの。ワインや軽食も用意され、ソーシャルネットワーキングも兼ねている。

彼女が黒人というのは知っていたが、参加者も9割が黒人女性。アジア系で参加したのは私のみ。ターゲットを黒人に絞っているわけではないだろうが、やはり日本の雑誌などで紹介されるものとは全く異なり、非常に興味深かった。黒人は肌の色が濃いためか、鮮やかなアイシャドウやチークなど、色味をしっかり乗せていくのが主流らしい。アイシャドウを入れる幅も広い。クリス・ベンツやアナ・スイのファッションショーで使われたメイク方法も披露され、観客からは質問が次々と飛んでいた。

参加者の一人、オプラ・ウィンフリーそっくりのアイダとしばし歓談。彼女はセネガル出身で、グラフィック・デザインをイタリアで学び、その後、人の顔に絵を描くと思えば一緒だと、メイクアップ・アーティストに転向。フランス語と、イタリア語と、スペイン語と英語を流暢にあやつる。彼女ももうすぐ、自身のコスメティックラインを発表するのだと嬉しそうに語っていた。そういうパワフルな人がゴロゴロいるのが、ニューヨークの面白いところ。そして気さくに話しかけられ、すぐに仲良くなれるところが良い。

ショーの後、勧められるままにプロの手によるメイクオーバーにチャレンジ。池袋の西武デパートのメイクコーナーで、数年前にしてもらって以来なので、少々緊張した。多分ゲイの、男性メイクアップ・アーティストに何回も「リラックスして」と言われながら、顔を任せること10分。素肌感を出す、引き算メイクが日本のメイク道の主流だとしたら真逆だった。真っ黒に塗りつぶされ太めに書かれた凛々しい眉、まぶたの上の方まで濃いパープルを入れ、ほお骨の下までふんだんに入れたチーク、さらにつけまつ毛まで。回りの人に、素晴らしいわ。彼女キレイになったわね、などと言われながら鏡をのぞくと、そこにはミスユニバース日本代表みたいな顔が…。ああやっぱり、このくらい派手にしないと、国際舞台には勝てないわけねと納得したのでした。

2010年3月23日火曜日

ヨハネ受難曲


教会でバッハの『ヨハネ受難曲』が無料で聴ける。任意で寄付も歓迎との記事をみつけた時は心が躍った。本来であれば、この「心が躍る」という状態に、何かしら根拠があるはずなのだが、というよりあるべきだったのだが、例のごとく根拠なき動物的な衝動で私は吸い寄せられるように教会へ足を運んだ。バッハは好きだ。ただピアノ曲しか聴かない。それもグレン・グールドのみ。ヨハネ受難曲も聴いたことはあるはず。たしか父のレコードライブラリーにもあった。なぜか幼いころ、私は宗教音楽が好きでよくリクエストもしていた。それが何かも知らずに。

セントラルパークの西側、リンカーンセンターのすぐ近くにあるホーリー・トリニティー教会。日曜日の午後5時からの礼拝に間に合うように着いた時には、信者席はいっぱいだった。そう観客席ではなく、そこは信者の席。

コラールと男性と女性のソロパート、チェンバロと室内楽の玉が転がるような甘い呼応に、例によって簡単にカラダを許した愚かな私は、心地よさという悪魔の仕掛けたワナに落ち、意識を失った。第一部の終わりにさしかかり、両肩にひどい凝りを感じて目を覚ました時、隣に座る上品ないでたちの老女が、哀れみと怒りと少々さげすむような瞳を微笑みで包みながら、バッグから飴を出してくれた。目覚めよと呼ぶ声が、した。

第二部が始まり、回りの人が皆、入り口で受け取った薄いパンフレットをめくりながら聴いていることに気がついた。それも全員同じタイミングで、まるで譜めくりのように。パンフレットを改めて開くと、そこにはドイツ語の歌詞と英語の対訳があった。いや、むしろ台本だった。人々はこれを読みながら、理解していたのだ。

そこで稲妻のような衝撃が全身を貫いた。なぜそんな根本的なことすら知らずに、のこのこと教会に来ることができたのだろう。『ヨハネ受難曲』は『ヨハネによる福音書』の、イエスが磔刑にいたるまでの受難の物語を歌と音楽で描いたものだったのだ。イエス、死刑の宣告を民衆に迫られ、良心の呵責に苛まされる裁判官、語り部としての福音伝道者などそれそれパートがあり、彼らは歌うのではなく、調べに乗せて語る。淡々と美しく、悲しく。イエスを殺せと取り憑かれたように叫ぶ民衆はコラールが担当。時系列に沿った物語の展開のようでありながら、流れ星のごとく挿入されるアリアが、見る者の心を痛みを代弁したり、道徳的な感覚を植え付けたりと、実に多次元的に迫ってくる。大げさではなく、これは一大スペクタクルドラマだった。

神は確かに降臨し、集った民を祝福して、去って行かれた。最後の調べの短い波紋が落ち着いた時、最初に立ち上がり、掠れ声で「ブラボー」と叫んだのは、隣の席の老婦人だった。それをきっかけに皆立ち上がり、惜しみない拍手を歌い手と奏者たちに捧げた。

無料のコンサートだったが、出口には寄付を募る教会関係者がたらいのような入れ物を持って何人も立っている。たらいはすぐにお札でいっぱいになっていく。私も財布と相談して、小額ではあるが寄付させてもらった。

「解釈」や「理論」というのは、議論を巻き起こすための道具で、議論自体を楽しむためのマッチポンプ。あるいはそれに寄与すれば自分の座標が定まる、依存するための対象なのかもしれない、と帰り道、セントラルパークを歩きながら考えた。音楽にせよ、他の芸術にせよ、小説にせよ、解釈と理論と技巧と、そんなところに意識を集中させがちだ。あるいは「よいものはよい」という、分かったような分からないような精神論。

相手との関係性を読み解こうとするから苦しむのであって、その相手が自我を持たない超越した存在であれば、そういった傲慢さも雲散霧消するのである。今宵の語り部たちは、言わば巫女たち。シャーマン。扉を開けるための儀式としての宗教音楽の担い手たちに、解釈の眼差しを向けてはいけないのだ。

ソロパートを演じた歌手たちは、ジュリアード音楽院の学生や、プロのオペラ歌手。言うまでもなく、それはそれは素晴らしい完成度の高い世界だったが、ただ彼らの今宵の役割は、あちらの世界とこちらの世界を渡す船を漕ぐ船頭なのであって、個に執着した世界観とやらを展開させるパフォーマー(表現者)ではない。いや、逆にそれこそが真の表現者なのかもしれない。

2010年3月22日月曜日

コリー・ハイム


俳優のコリー・ハイムが薬物中道で亡くなっていたことを、今日ゴシップ雑誌の表紙で知りました。まだ38歳という若さだったのですね。ハリウッドの子役上がりの薬物被害者がまた出たのかと思うと、非常に胸が痛みます。実は彼が出演する映画は、1本も見たことがないのですが、でも大変記憶に残っている俳優です。

私が小学校高学年のころ、近所に住むOさんという同級生の家にちょくちょく遊びに行っていました。小遣いなし、テレビも漫画も禁止、門限は4時半、妹と同じ机で中学生用の数学のドリル毎日やらされる、毎週のように親から渡される課題図書の感想を夕食の一家団欒で話すことを要求される、というような、かなりキビシい家に育った私の目に、Oさんの生活は夢のようでした。

一人部屋には自分専用のテレビがあり、駄菓子を持ち込んで食べていいなんて! 「最近これが好きなの」と、彼女がVHSで見せてくれる『スタンド・バイ・ミー』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を食い入るように眺め、「うちのお姉ちゃんはハリソン・フォードが好きって言うんだけど、おじさんよね。私はリバー・フェニックスとマイケル・J・フォックスが好き。あと、ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックもいいよ」などと言いながらめくってみせてくれる映画雑誌『スクリーン』から溢れ出す、私の日常生活にまったく縁のないアメリカ(ハリウッド)の匂いを全身に受けてくらくらしていました。

そう、そこでコリー・ハイムという、ティーンアイドルの存在を知ったのです。コリー・フェルドマンとセットで売り出していましたね。初めて見る青い目のどこか頼り無さげな甘いマスクに、やられました。胸が音をたてて「キュンキュン」いっている感じでした。ただ、前述のとおり、うちの両親にそんな雑誌を友人宅で見ていることを話そうものなら「そんなミーハーな子とは、おつきあいをやめなさい」とでも言われかねない雰囲気だったので、雑誌を買うわけにも、映画を見るわけにもいかず、(こっそりと)彼女の家に行く度に『スクリーン』で見せてもらうにとどまっていました。

Oさんは中学校まで一緒でした。そのころにはオーストラリア留学で身につけた、流暢なネイティブの発音で、英語の教師達からも一目を置かれるようになっていましたね。一方私は「ジスイズアペン」状態でした。別の高校へ進学して、その後連絡をとらなくなってしまった彼女。コリー・ハイムの死で、久しぶりに彼女の記憶が蘇りました。当時であれだけ英語ができたのですから、今ごろその能力を発揮して仕事にしているかもしれません。

私は結果として今、アメリカで生活をしていますが、Oさんと遊ばなくなってから、ハリウッド映画や海外生活に憧れをいだくことも特になかったですね。英語の成績も大したことなかったし。でも最初に、海外には愛知県の片田舎とはまったく違う世界があるということを教えてくれたのが、彼女でした。彼女が好きといっていた子役や俳優達が、軒並み薬物のワナにハマってしまったのは残念ですが。

どこかでバッタリ彼女と再会するような予感がします。ただの予感ですが。

2010年3月21日日曜日

ハッピーサタデー


ミッドタウンで
ウズベキスタン人のスパオーナー
キルギス人のメイクアップアーティスト
フランス人のヘアスタイリスト
に会い、

ハーレムで
日本人のインテリアデザイナー
日本人のワイン専門家
に会い

ソーホーで
日本から、展覧会のために来米しているアーティストで、フィラデルフィア時代の親友と再会した。

一気に春を飛び越え、初夏の日差しのニューヨーク。久しぶりに履いたサンダルで靴擦れを起こしながら、一日よく歩いた。

会う人、会う人と
よくしゃべり、
よく笑い、
よく飲み、
心身ともに解放された、いい一日だった。
生きていて幸せ!と思えるのは、こういう時間がたまに訪れる時。

2010年3月14日日曜日

ホーボーケンへ





ハドソン川を挟んで、マンハッタンの対岸にある街、ニュージャージー州ホーボーケン。ここ数週間、仕事で何回か訪ねました。マンハッタンからはPATHトレインでたったの15分。先ほどまでの大都会の喧噪がうそのように、のんびりとした時間が流れています。

マイル・スクエア・シティと呼ばれる、1.6キロ四方の小さな街。30〜40年前は治安も悪かったそうですが、今はハドソン川沿いのウォーターフロントの開発も進み、非常に安全な街になりました。不動産価格もずいぶん上がったとはいえ、マンハッタンに比べると安い上、間取りも広いので、ここに居を構えマンハッタンに通勤する人もいます。ニューヨーク生活に疲れた人と、ニューヨークに行きたいがそこまでは行けない人の、両方が住むボーダーラインです。

ホーボーケン駅は、ニュージャージー・トランジットのほぼ全ての路線、バス、フェリーが到発着する、大きなハブ駅です。Kenneth MacKenzie Murchisonという建築家がデザインをし、1907年に建てられたボザール様式の建物です。ここの駅構内にある「The Waiting Room」(待合室)は、新古典主義のスタイルであるグリーク・リヴァイバル建築ということですが、クラシックな雰囲気が漂うものの、広々としており威圧感がまったくない。木製のベンチが温かさを演出しており、心穏やかになれるいい空間です。高い天井にはめ込まれたステンドグラスはティファニー製です。

写真をみて「あれっ、見覚えがある」が思った方はなかなかの音楽通ではないでしょうか。そう、エリック・クラプトンの名曲『Change The World』のミュージック・ビデオが撮影された場所なんですよ。

この街が誇るのは、フランク・シナトラが産まれた街であるということ、野球発祥の地であるということ、そして川の対岸にマンハッタンのパーフェクトな夜景が臨めるということでしょう。

ニューヨークにお越しの際は、ちょっと足を伸ばしてホーボーケンまで行ってみて下さい。マンハッタンの絶景を我が物にできる、Wホテル・ホーボーケンに宿を取るのも、良いかもしれません。

2010年3月7日日曜日

人種分布図の変動

私の家の回りには、ラテン系の移民が多いです。
ちょっとずんぐりむっくりで、浅黒い肌に黒髪の彼らは、非常に陽気でおしゃべり。さらにセックス大好き。いや、これは独断による発言ではなく、定説です。冗談としても言われるし、公言している人も。ラテン系の女性は、妊娠するのが好きみたい。

そう、彼らは非常に精力的に、子どもをわんさか作っています。彼らが違法移民の可能性は高いのですが、この国では移民ステータスに関係なくメディケイド(低所得者向けの公的医療保険)が使えるので、ちゃんと病院で出産できるのです。それも非常に安い医療費で。

ということで、その子ども達がまた、成長して子どもを産んでとねずみ講式に増えていくと、アメリカはそのうち中国人とラテン系に乗っ取られる可能性がありますね。

かつては黒人に押し付けていた辛い肉体労働を、今はメキシカンら、違法移民の力に頼るようになってしまった。表向きは「違法」としていても、労働力として頼って、こき使う。そうなると、下層階級の無意識の逆襲(?)として、子どもをたくさん作る。アメリカ国内で産まれた子どもは、アメリカ国籍が取れますからね。

移民たちは3世代(サード・ジェレネーション)くらいになると、収入的にも安定し、高教育も受けられるようになり、社会的に成熟してくるのだと聞いたことがあります。じいさん、ばあさんになったときに、孫の世代が成功していれば万々歳。老後も安泰です。

これはもっと視野を広げて見ると、遺伝子レベルでプログラミングされた、人種分布図の変動大作戦なんじゃないかと思います。民族大移動&移動先で増やす作戦。神の采配か?

日本も少子化が進むと、長い目で見たら似たような展開になると思います。高齢化高齢化と言いますが、いずれは高齢化された方もお亡くなりになるわけですからね。少子化対策もすぐに効果が出るとは思えないですし、人口及び労働力を増やすには、最初から生産能力の高い方々を輸入した方が即効性がありますからね。

ウン十年後、ウン百年後の世界の人種分布図を、今見ることができたら、面白いだろうなあと思います。

2010年3月5日金曜日

地下鉄エンターテイナー


地下鉄に乗っていると、ギターをもった3〜4人組の浅黒い肌の男性たちが乗りこんできて、突然「コンドルは飛んでゆく」や、どこかで聞いたことのあるようなアンデスの音楽を奏で始める光景に、よく出くわします。演奏が終わると帽子をとって、車内をまわり小銭をくれと要求してきます。一駅区間で一曲披露。次の駅に着くと、隣の車両で営業するため、さっさと移動していきます。

黒人男性数人によるアカペラミニコンサートのときもありました。リズム感とハーモニーが最高。太くて響く良い声で、なかなかセクシーでした。
大学生らしき若者二人によるバイオリン二重奏もありました。 地下鉄車両は室内楽のコンサート会場に。

なんの芸もないホームレスはただ大声を上げて、いかに己が不幸かをせつせつと訴え、そのあと金をくれと空き缶を持って回ってきます。

面白いのが、いい演奏の時はそこそこ乗客が金を払うこと。ミゼラブルさが堂に入っていると、やはり小銭がもらえます。地下鉄はエンターテイナーに溢れています。

失業率の高さや、健康保険問題や、終わらない戦争や、テロの恐怖や、銃や、ネガティブな要素を挙げたらきりがない国ですが、なんだろう、生命力がありますよね。人は人、私は私、でも良い物には素直に感動する。底を流れる博愛主義がまだまだ感じられる。

何時の世だって、天災やら、疫病やら、圧政やら、戦争やら、不幸なことばっかりですよ。でもそれはそれとして、タフにかぶいていくのが、庶民のしたたかさ。

日本の男性も、尻尾の折れた精子みたいな人ばかりにならないで欲しいなあ、と思いますね。あっこれは、生命力のある人であって欲しい、という例えですよ。

2010年3月3日水曜日

AERAに感じる違和感

私のいる編集部は、雑誌「AERA」を購読しています。なぜ「AERA」であって、「文藝春秋」や「CanCam」だったりしないのかはよく分かりませんが、とにかく日本の雑誌は「AERA」だけが届きます。

よくできた雑誌だと思いますが、同時に読む度に暗い気持ちになります。読後感が非常に悪いんですよね。選ぶテーマも文体も構成も写真も、あえて読者の胸にしこりを作り、深い影を落とすことを目的としているのではないかと思ってしまいます。あるいは日本という国自体が、陰の部分をクローズアップするのを好むのかもしれませんね?まあ、朝日新聞が母体というのも、全体的に暗さが漂う理由かもしれませんが。

日本にいたころも仕事柄、毎週「AERA」には目は通していましたが、こういった違和感を持ったことが無かった。きっとこれは巷に、この手のネガティブな雰囲気が溢れている飽和状態になっていたからでしょうね。

もちろんアメリカからでもインターネットで日本の情報は手に入るし、NYの紀伊國屋やブックオフに行けば、日本の雑誌や本も簡単に手に入る。特にNYはアメリカ他の街に比べ、そう言った面では恵まれています。何が違うかというと、無意識に入ってくる(企業が意図的に消費者の脳に流し込んでくるものも含め)情報量が全然違うからだろうなと思います。情報量もありますが、その質感というか、温度というかが根本的に違う。

蒸した満員電車で見上げて読んだ電車の吊り広告、チューハイの缶を飲みながら見たテレビコマーシャル、仕事帰りに立ち寄ったコンビニで、ついつい見てしまう雑誌の陳列棚…。

日本語で提供される以上、好むと好まざるとに関わらず、泳ぎながら海水を飲んでしまうように、勝手に入って来てしまうんですよね。視覚と聴覚で。

なんとなく世の中は常に、"ネガティブ"な雰囲気か、スポーツなど一時的な狂乱に満ちていて、

「必死で抵抗する」
「とことん悲観的になる」
「明日のことを考えずに狂乱に身を任せる」

のどれかだった気がします。忙しさを言い訳にして、頭を使うことから逃げていたのだと、今になると思いますね。もちろんあーだこーだ悩んだり考えたりしていましたが、眼差しが世界に向いていなかった。あるいはそういう罠にはまっているのかもしれませんが。だから感覚がマヒしてきて、より強い、どぎつい刺激を求めてしまう。

情報消費社会というのは、どこも同じようなものかもしれませんが、アメリカにいると英語は第二外国語なので、日本語のように立っているだけで皮膚から情報が入ってくるような感覚にはならない。意識的に取捨選択をするか、あるいは最初からブロックがかかっている。ある意味、客観的になれるので良い状況ですね。

誰が作ったんだか、こねて、ねじって作り上げて、ばらまかれた、国を覆う悲壮感やネガティブな雰囲気、という物語。というコンテクストがないところで記事を読むので、いっそうその”ひねくれたネガティブさ”がしっくりきません。独特の暗さですよね。とても内向きなんです。自己愛が強くって。

まあ、日本の雑誌は「AERA」だけじゃないですからね。深読みし過ぎなのかもしれませんが。

2010年2月27日土曜日

そして街は真っ白に





















数日降り続けた雪により、ニューヨークは真っ白になってしまいました。
今朝、玄関のドアを開けたら、まだ大家が雪かきをしていなかったせいで、膝まで雪にズボッ。

ハドソン川を挟んで対岸の街、ニュージャージー州のホーボーケンに住んでいる同僚の家の回りは、3フィートくらい積もったとのこと。腰まで雪に埋もれ、何回も転びながら駅までたどり着いたそうです。

市内の学校は休校。米系の会社に勤めるルームメートの話によると、前回の大雪の時、アメリカ人の同僚たちは、誰に連絡することも無く、あたりまえのように全員会社を休んだそうです。翌日「昨日は雪合戦をして楽しかったわ」ですって。疑うことも無く出社した彼女は、非常に面食らったとのこと。私の会社は日系ですので、全社員誰に言われなくても出社します。真面目だなあ、日本人って。

雪による被害も出ています。セントラルパークでは、雪の重みに耐えかねた太い枝が、折れて真下にいた通行人の頭を直言。即死でした。雪の日は、木の下は歩かない方がいいでしょう。

歩道に積もった雪を、人々は専用シャベルでせっせと路肩に積み上げています。おかげで歩道と車道の間には、高い雪の壁が。建物の前の雪かきを怠り、そのせいで通行人が転んで怪我をしたら、訴えられるそうです。私は借家住まいなので、雪かきをする必要はないのですが、持ち家がある人は大変だと思います。雪かきって腰にくるみたいですし。

2010年2月21日日曜日

グッゲンハイム美術館で語る



グッゲンハイム美術館が好きです。ニューヨークで最も美しい建築だと、私は思っています。見つめているだけでも幸せですが、中に入り包み込まれる感覚に酔いながら、らせん状のスロープをゆっくりと上がっていくと、昇天するかのような深い快楽に身も心もしびれます。

先週末、久しぶりに会いたくなり、吸い寄せらるように足を運びました。
入り口前にはチケット待ちの長い列。しばらく入れないだろうと覚悟して並んでいたら、若い男性が近寄ってきてチケットをくれました。そのまま入り口に行けば入れるからと。半信半疑で列を離れ、受付の人に見せるとすんなりと中へ入れてくれるではありませんか。

驚いたことに中には全く展示物がありませんでした。いや正確に言うならば、脇の小部屋のギャラリーには、常設展と企画展が別世界のように開催されていましたが、スロープ状の坂を登りながら見学する展示スペースには何もなかったのです。

吹き抜けの天井から差し込む光が柔らかい、一階フロアの中央では、非常にスローに愛し合う男女がパフォーマンス中。ゆっくりとゆっくりとお互い抱きしめ合い、キスをして、まさぐりあい。衣服は着用していましたが、いつそのまま脱ぎ始めてもおかしくない愛の営みが繰り広げられていました。

とりあえず上を目指そうとスロープへ向かったところ、小学校低学年くらいの少年が声をかけてきました。
「僕についてきて」
不思議の国のアリスのようだわと思いながら、いいわよとついて行くと突然
「君にとってimprovementってなに?」
と非常に抽象的な質問が飛んでくるではありませんか? そんなこと急に言われても答えられないわと返したのですが、まっすぐな瞳で再び、
「ねえ、improvementってなんなの?」
しかたがないので、
「私はアメリカ人じゃないのよ。日本人なのね。だから私にとって英語が上達したらそれはimprovementかもしれない。それはむしろachievementかしら?」
と答えながら一緒に歩いて行くと、突然20代とおぼしき、哲学的な悩みを瞳にたたえた青年がでてきて、少年とバトンタッチ。少年は「この人とimprovementとachievementについて話した」と告げ、去っていきます。

青年はその後を引き継ぎ話を続けます。
「君は日本人なんだよね。日本というのは、技術におけるachievementはおおいに達成した国だと思う。でも文化についてはどうかな?」
こうなってくると私の英語力では、さらに突然振られた質問ですから、答えようもありません。だいたい何がここで起こっているのかさっぱり分からず、上手く答えられないまま彼の持論を聞きながら一緒に歩き、しばらく進むと今度は初老の女性が登場。そしてバトンタッチ。

さすがに我慢ができなくなり、彼女に聞きました。
「いったいこれは何なの? 何で色んな人が話しかけてくるの?」
彼女は言いました。
「これは美術館で語りながら歩こうという企画なのよ」
…。
そうでしたか。キュレーターか、あるいはボランティアが集まり、何も知らずに訪れた客をつかまえて突如謎かけのような質問をふる、そういう企画なんですね。

彼女は「今までどこの国を訪ねたことがある?」と比較的答えやすい質問をしてきます。ドイツ、イタリア、アメリカ、香港くらいかしら。「アジアの国はもっと行ってみたい?」「そうね。でも私は欧米の方が好きかも」「なぜ」「なぜかしら?」

最後に穏やかな微笑みを浮かべて近づいてきたのは、ベン・バーナンキ似の老人。
「1つ素敵な話を聞かせてあげよう。ある村にね一人の女性がいたんだ。彼女はキルト作品を作るのが得意でね。あるとき非常に良い作品ができたから、彼女の回りの人たちが、村から30マイル離れた場所で開催されるフェアに出品することを勧めたんだ。馬車に乗ってね、彼女は30マイルの旅をした。キルトは好評だったよ。でも、彼女にとってそれが一生でたった1回の旅だったんだ。それ以前も、それ以降も彼女は小さな村を1回も出ずに一生を送った。彼女の知っている世界というのは、たった数十人だけだったんだよ。この話を聞いてどう思うかい?」
「どうかしら、私には非常に不幸な話に聞こえるけど。もっと私は他の世界を知りたいし、世界に出て行きたいわ」
「そうだね。そう思う人もいるかもしれない。でも、彼女は本当に幸せだったんだよ」
と、そこまで彼が語ったところで美術館の頂上までたどり着きました。彼は微笑み
「君と話せて楽しかった」
と握手をして去っていきました。狐につままれたような感覚が解け、我に返ると、私以外にも多くの人々が、同じように突然話しかけられ、歩きながら話させられるというこの、一風変わった企画に取り込まれていました。
一定の時間と空間を他者と共有し、話すこと自体が展示。参加することで自分も作品になる、ということなのかもしれません。

スロープを下っていく間は、誰にも話しかけられませんでした。私に話しかけた人たちが他の人と話しているのを脇目に、ゆっくりと滑るように降りてきました。ちょっとネタバレ感があるのが玉に傷ですが、日本の美術館では味わえない面白い時間でした。

ただ私は美術館へは一人で行き、誰にも話しかけられない方が好きですね。私は建築と、作品と、作家と、一対一で向かい合いたい。

雪が積もったセントラルパークに寄り道をしながら、帰途につきました。スキーをしている人がいましたよ。

2010年2月16日火曜日

オフブロードウェイ


「The Accidental Pervert(偶然の倒錯者)」という、まあけったいな芝居をオフブロードウェイの小さな劇場で見てしまいました。

久しぶりに予定がなく、ぽかんと空白になった土曜日の午後。暇だったら遊ぼうと声をかけた女優の友人に、「じゃあ一緒に芝居見ようよ」と誘われたのがこれ。

公演ギリギリになると、破格でチケットをさばくサイトで手に入れたチケットは4.5ドル。ステージと客席が同じフロアの、下北沢の小劇場のような狭い舞台はすぐに満席に。いやあ実にくだらない、抱腹絶倒のコメディー一人芝居でございました。

11歳の少年が、偶然に父親が隠し持っていたポルノビデオコレクションを発見してしまい、それからはセックスの虜になっていくという、しようもないお話。彼が大人になるにつれ、実際の性生活ではビデオの通りにいかないと気づくジレンマや、家政婦相手に妄想を繰り広げたり、敬虔なカソリックの女性に惚れこみ結婚したのはいいが、そこからは子づくりのため、妻の要望に応じて拷問のようにセックスをしなくてはいけなくなったという、半生を追ったもの。最後は「今は娘とこのビデオを観ています」と、セサミストリートが流れて終わる、そんな芝居でした。

40代くらいの、なかなかハンサムな白人男性の役者によるモノローグ。自嘲気味に語り、叫び、舞台上を走り回り、ビデオを見てはティッシュを投げ散らかし、そして時折スライドで挿入される映像は、映画や名画のパロディー。

もちろん十分にお下品だったのですが、でもちっともエロくない。あっけらかんとしているので、げらげら笑った後はさっぱりしたものでした。簡単なシナリオだったおかげで、ほぼストーリーについていけたのも嬉しかった。そして、笑いのセンスがアメリカナイズされてきている自分に気がつき苦笑。最近たまにYoutubeで日本のお笑い芸人のコントを見ても、さっぱり面白さが分からないからなあ。

そしてこの手の男子のお悩みは、ユニバーサルなのかもねと、最後にちょっとかわいそうになりました。カチンコチンに芸術ぶっているのもいいですが、たまにはこういう超がつくB級ものも悪くないです。

2010年1月25日月曜日

New Museum of Contemporary Art


ローワー・イーストにある、ニュー・ミュージアム・オブ・コンテンポラリー・アートで開催中の、スイス人アーティスト、ウルス・フィッシャー(Urs Fischer)展を観てきました。

目的は展覧会ではなく、金沢21世紀美術館などを手がけた、妹島和世と西沢立衛による建築ユニット、SANNAが手がけた、美術館そのものにあったのですが、展示もよかったです。

ガランとした、天井の高い箱のような部屋。壁も天井も美しい鈍色に染めあげられたこの部屋の、インスタレーションはたったの二つ。天井からつるされたクロワッサンに蝶がとまっているものと、高温で溶けたかのように、ぐにゃっと潰れた紫色のグランドピアノ。この部屋は実に印象的でした。

他の部屋でも、空間をたっぷり使って展示された巨大なインスタレーションの間を歩きながら、静かに作品との対話を楽しみました。久しぶりだなあこういう時間。

安らぐわけでも癒されるわけでもない。誰もが文句なしに認める「芸術」を再確認しにいくわけでもない。最先端のアート世界を、全身で感じようという意気込みがあるわけでもない。もちろんデートでもない。

静謐な、でも作品たちが饒舌になれる、彼らの解放区・宇宙へと、しばし旅に出ていたのです。ここで何が作者は言いたいのか? 作品のテーマは何か? 歴史的、社会的観点から見て、これを作成した意義とは? といった小理屈で、理解しようとしていない自分に気がつき、成長したのかしらと思いました。 

そういうものはあるかもしれないし、ないのかもしれない。結局対峙する私と君(作品)との間に、温かい血が通いあうかどうかの問題。それだって、こちらの精神状態だったり、置かれている状況だったりによって、まったく異なるし、何も起きないことだってある。

私はともすると、自分の中で結論の出ている物語に対象を引きずり込み、パズルのように、そのピースはめ込み満足する悪い傾向があるのですが(これはとても不幸なことですね)、今回はまあ、疲れていたせいもあるでしょうが、もう少し偶然性に身を委ねることができた。

こうやって、少しずつ、少しずつ、己をがんじがらめに縛る見えない鎖から、解放されていきたいですね。

展覧会の案内ビデオです。

http://www.youtube.com/watch?v=OrKXtegv7BE&feature=player_embedded

2010年1月11日月曜日

持つべきものは友

ニューヨークは寒い日が続きます。歩道と車道の隙間に張った氷は、いっこうに溶ける様子がありません。

こうも寒く、仕事が思うようにいかず、毎晩深夜に凍えながら帰宅し、プライベートでも辛いことが続き、相談できる相手もいないとなると、さすがに凹みます。自分を鼓舞するのにも疲れてきます。

心の隅に大きな穴が開き、つねにそこから冷たい風が吹き込んできて、芯から精神が蝕まれていくのがよく分かります。解消の仕方の分からない不安と、焦り、絶望、底知れぬ淋しさに、心だけでなく、胃までキリキリと痛み始めます。誰かの胸に顔を埋め泣き続け、全ての苦しみから楽になれるのであれば、どんなにいいだろうと思いますが、泣いたところで何ともならないことは、人に言われなくても悲しいほど承知しています。大都会で一人暮らしをする女性、それも海外でとなると、大なり小なりこういった気持ちは誰もが抱くのでしょうね。

情緒を安定させるためには、客観的に自分を見て分析できる視点の確保と、揺るがない自信が必要なのであって、一時の”癒し”や、他人への依存では解消されないと、私は思います。し、そうしようと試みています。

こういった感覚は誰しも一生持ち続けるものなのかもしれません。向き合うことができて良かったのかもしれない。100%満たされるということは生涯ないような気がします。

私自身は現在特定の宗教を持っていませんが、アメリカに来て、何かしらの宗教に入っている日本人在住者が多いことが、だんだんと分かってきました。その理由が最近分かるような気がします。どこかに精神的な拠り所がないと、信教を通して信者の人と繋がっている、あるいは神から見守られているという絶対的な安心感がないと、異邦人として生きていくのは、辛いのかもしれません。

「どんなに富を得ても、地位を得ても、幸せな家族を得ても、人は心の底にいつも解消できない淋しさというのを持っているものよ。それはハートの形をした穴なの」とクリスチャンの友人に真顔で言われました。気圧され、ううむ、そうかもしれないねえと思いました。

まあ、こう弱っていると「つけこまれる」危険性があるので、より用心しないといけないといけないのですが、とは言え心を閉ざすのはよくない。

そろそろ限界だと思った時にヘルプのサインを出して、久しぶりにフィラデルフィアで仲良くなった友人とスカイプで話しました。お互いよき理解者で、今後もこの友情は一生続くだろうと確信できる、数少ない真の友人です。話す前に携帯電話に届いたメッセージに、彼の深い優しさを感じて、目頭が熱くなりました。

「オーケー。後で話そうね。もし時間があったら何かデザートを買っておいで。そうしたら僕たちはスカイプで話しながら、デザートを一緒に食べられるよ。僕はアイスクリームを持っていくからさ」

ダウンを羽織って、駆け足で近所のオーガニックの店へ行き買ってきたのは、シチリア島産のレモン味のシャーベット。爽やかな冷たさに少しだけ、ハートの形をした穴の腫れは引き、熱が下がったように感じました。