2010年3月3日水曜日

AERAに感じる違和感

私のいる編集部は、雑誌「AERA」を購読しています。なぜ「AERA」であって、「文藝春秋」や「CanCam」だったりしないのかはよく分かりませんが、とにかく日本の雑誌は「AERA」だけが届きます。

よくできた雑誌だと思いますが、同時に読む度に暗い気持ちになります。読後感が非常に悪いんですよね。選ぶテーマも文体も構成も写真も、あえて読者の胸にしこりを作り、深い影を落とすことを目的としているのではないかと思ってしまいます。あるいは日本という国自体が、陰の部分をクローズアップするのを好むのかもしれませんね?まあ、朝日新聞が母体というのも、全体的に暗さが漂う理由かもしれませんが。

日本にいたころも仕事柄、毎週「AERA」には目は通していましたが、こういった違和感を持ったことが無かった。きっとこれは巷に、この手のネガティブな雰囲気が溢れている飽和状態になっていたからでしょうね。

もちろんアメリカからでもインターネットで日本の情報は手に入るし、NYの紀伊國屋やブックオフに行けば、日本の雑誌や本も簡単に手に入る。特にNYはアメリカ他の街に比べ、そう言った面では恵まれています。何が違うかというと、無意識に入ってくる(企業が意図的に消費者の脳に流し込んでくるものも含め)情報量が全然違うからだろうなと思います。情報量もありますが、その質感というか、温度というかが根本的に違う。

蒸した満員電車で見上げて読んだ電車の吊り広告、チューハイの缶を飲みながら見たテレビコマーシャル、仕事帰りに立ち寄ったコンビニで、ついつい見てしまう雑誌の陳列棚…。

日本語で提供される以上、好むと好まざるとに関わらず、泳ぎながら海水を飲んでしまうように、勝手に入って来てしまうんですよね。視覚と聴覚で。

なんとなく世の中は常に、"ネガティブ"な雰囲気か、スポーツなど一時的な狂乱に満ちていて、

「必死で抵抗する」
「とことん悲観的になる」
「明日のことを考えずに狂乱に身を任せる」

のどれかだった気がします。忙しさを言い訳にして、頭を使うことから逃げていたのだと、今になると思いますね。もちろんあーだこーだ悩んだり考えたりしていましたが、眼差しが世界に向いていなかった。あるいはそういう罠にはまっているのかもしれませんが。だから感覚がマヒしてきて、より強い、どぎつい刺激を求めてしまう。

情報消費社会というのは、どこも同じようなものかもしれませんが、アメリカにいると英語は第二外国語なので、日本語のように立っているだけで皮膚から情報が入ってくるような感覚にはならない。意識的に取捨選択をするか、あるいは最初からブロックがかかっている。ある意味、客観的になれるので良い状況ですね。

誰が作ったんだか、こねて、ねじって作り上げて、ばらまかれた、国を覆う悲壮感やネガティブな雰囲気、という物語。というコンテクストがないところで記事を読むので、いっそうその”ひねくれたネガティブさ”がしっくりきません。独特の暗さですよね。とても内向きなんです。自己愛が強くって。

まあ、日本の雑誌は「AERA」だけじゃないですからね。深読みし過ぎなのかもしれませんが。

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