2008年9月26日金曜日

有権者登録の風景


「もう登録はすませましたか?」
街角に設けられた特設コーナーの前で、そして地下鉄の中で書類を抱えたおじさんがこう呼びかけています。私も何回も声をかけられました。そしてその度に
「No. I'm not a US citizen.」

11月4日に迫ったアメリカ大統領選の一般投票にむけ、有権者登録を促しているのです。アメリカ大統領選に投票できる条件は、ここペンシルベニア州を例にとると(州により多少違うので)

① 選挙の少なくとも1ケ月前にアメリカ合衆国国民になっていること
② 選挙の少なくとも30日前にはペンシルベニア州そして選挙区の住民になっていること
③ 選挙日当日に18歳以上であること
④ 過去5年以内に重罪で刑務所に収監されていないこと

そして大切なのが以上の条件を踏まえた上で

☆10月6日までに有権者登録を済ませてあること!☆

日本と違い戸籍制度も住民票制度もないアメリカ。さらにしょっちゅう引越をする国民性ときているので、国は誰がどこにいるのかという情報はきちんと把握していないのですね。ほうっておいても選挙の通知ハガキが来る日本とは違い、投票するには自分で有権者登録をしなければならない。それも前回の選挙以降、引越したり、結婚・離婚などで名前が変わっていたらその度にする必要がある。と実に面倒な話です。そしてこんな草の根運動的な活動では、有権者登録に気がつかないまま終わってしまう国民もいるだろうに、という危惧が拭えません。

『見えないアメリカ』(講談社現代新書)で著者の渡辺将人さんは、2000年にアル・ゴア大統領選ニューヨーク支部アウトリーチ局(アジア系集票担当)で働いた経験を書いています。彼はキャンバシングという戸別訪問の投票勧誘と調査に志願して、オハイオ州クリーブランドの黒人ゲットー(貧民街)を一軒一軒歩いて回ったそうです。そこで語られる風景は、そのままノースフィラデルフィアに置き換えられそうな荒みっぷりで迫力があります。明らかに二年前に人が住んでいたはずのところなのに、手元のデータ帳の番地が存在しない。家によってはバリケードで塞がれ、窓ガラスが割られている。家そのものがあとかたもなく消え、芝生の空き地やゴミ置き場になっている。等々。

オバマとバイデンの看板を掲げた民主党色バリバリの登録ブースで今日も声をかけられました。
「登録はすんだ?」
「ごめんね。アメリカ国民じゃないのよ」
「あら、そうだったらよかったのに」(そうかい?本当にそう思っているのかい?)
「ねえ、ちょっと聞いてもいいかしら。ここは民主党の支持者しか登録を受け付けていないの?」
「いいえ、オバマは若い人に投票に行くよう強く訴えているから、共和党主義者でも誰でも登録できるのよ」(そんな事言ったってこれじゃ近付き難いだろうに)
「でもさ、こういった街角のブースに気がつかない人もいるんじゃないかしら?」
「市庁舎でも登録はできるし、街のあちこちにあるから大丈夫よ」(自信たっぷりだなあ)

異文化の人に選挙の説明ができて誇りに思うわと胸を張った、たぶんボランティアであろう白髪の女性。

見えるアメリカ。聞いて、読んで理解できるアメリカはその範囲を少しずつ広がってきています。でもまだまだ。分かったと思ったら、逆にもっと分からなくなる。その繰り返しです。

2008年9月23日火曜日

新渡戸稲造の足跡を追う





最近フィラデルフィアにゆかりのある日本人たちを取材しています。前回、ブリンマー大学に在籍した津田梅子については触れましたが、なんと新渡戸稲造(1868〜1912)もフィラデルフィアにいたんですよね。あの『武士道』で知られる、樋口一葉の前に5000円札の顔だった新渡戸さんです。

岩手県盛岡市で士族の家に生まれた新渡戸は札幌農学校(現・北海道大学)で学びます。1884年に渡米した彼はジョン・ホプキンス大学に入学し、熱心なクエーカー教徒に改宗します。

さらに彼は同じクエーカー教徒のメアリー・パターソン・エルキントンと国際結婚をしました。その結婚式の会場となったのがここ、フレンズ・ミーティング・ハウス(Arch Street Friends Meeting House)。

当時としてはセンセーショナルな一大事件で、翌日地元の新聞『フィラデルフィア・インクワイアラー』は1面で「東洋人を夫とする:クエーカー教徒のメアリー・パターソン・エルキントンが日本の新渡戸稲造と結婚 〜愛する人のための若き女性の犠牲〜」と見出しをつけて取り上げました。実際メアリーの両親に結婚の了解を取り付けるのは大変だったそうです。

その現場をアポなしに突撃(さらに閉館20分前)したにもかかわらず、2人の職員は実に丁寧に対応してくれました。そして私が日本人だと知ったとたんに

「私、日本語ちょっとできます」

と微笑んだ白髪のNiel氏。戦後3年間、新宿区の戸山ハイツでクエーカーの布教にあたっていたそうです。
「私ともう1人アメリカ人がいて、あと皆日本人だった」
「あなたは牧師ですか?」
「クエーカーには牧師はいないんだ。誰もがその教えを広めることができるのさ」
勉強不足を恥じました。確かに、飾りのない質素な礼拝堂の中で人々が集い、音楽も司会者もいなくひたすら祈ると聞いた事があります。

当時の戸山ハイツは、焼け野原で何もない東京に作られた、陸軍戸山学校跡地の広い土地を利用した集合住宅でした。そんな歴史をここフィラデルフィアでアメリカ人の老人から聞くとは。

「新渡戸稲造ね。一番有名な日本人クエーカーですね」

私以外にも新渡戸稲造の足跡を求めて訪れる人がいるのかもしれません。怪しい日本語で書かれたパンフレットと、フレンズ・ミーティング・ハウス以外の彼ゆかりの場所が載った案内をくれました。またクエーカーに関する本を色々調べてくれ、新渡戸稲造の結婚に触れた箇所を探し出してくれたりと本当に親切。またその章の著者がエリザベス・グレイ・バイニング夫人(現天皇が皇太子時代の家庭教師。クエーカー教徒)だったのも驚きでした。

閉館時間を大幅に過ぎて、老人が眠そうな顔になってきたので今日はここで終了。彼は月曜日だけのボランティアなんだとか。また会いに行き、日本の思い出話を聞きたいものです。

2008年9月18日木曜日

Bryn Mawr College


フィラデルフィア中心部から電車で25分。北米を代表する名門女子大学・ブリンマー大学まで出向き、津田塾大学の創設者・津田梅子の資料にあたってきました。事前に図書館の特別資料室とのメールや電話でのやり取りを経て、ようやく迎えたこの日は緊張の嵐でした。

郊外の高級住宅街に位置する広々としたキャンパスには、石造りのずっしりとした建物が、ぽつぽつと住宅展示場のように配置されていました。これが密集していたらやぼったい印象になりますが、適度な距離と芝生や木々とのバランスで、多少退屈な、でも安堵感を得られる景色になっていました。遠くから聞こえる虫の声と、ときたま通る女子大生のさざ波は、のどかな秋の午後にさらなる眠気を誘います。私の母校のキャンパスによく似た雰囲気で、ふと懐かしくなりました。(日本ですよ)

1890年前後、2度目の留学先としてブリンマー大学を選んだ津田梅子は、生物学を専攻し蛙の卵の研究をしていたのですよ。その後、日本の女子英語教育の船出に向け生涯を捧げる事になる彼女の、もしかしたら唯一全てから開放され、純粋なる知的好奇心に没頭できた幸せな時間だったのかもしれませんね。

図書館には彼女の写真、当時の学長に当てて書いた直筆の手紙、日本語・英語の様々な資料などが私宛にまとめて用意されて待っていました。優秀な図書館員、バーバラに感謝。そしてこういった原物資料に素手で触れられたことに大興奮。一つ一つ目を通し、舐めるように瞳でスキャン。は、できないのでコピーを依頼したところ、1枚25セントとなかなかお高い!厳選し、結局手紙と、寄贈された津田塾大学紀要のコピーをもらってきました。また当時の寮や学び舎が現在もそのまま利用されていたので撮影。津田梅子の肖像写真のデータも希望したところ、手際よくメールで送ってくれました。

津田梅子で有名なブリンマー大学ですが、その後多くの日本人女性が留学をしており、なんと恵泉女学園の創始者である河合道(かわいみち)も通っていたという面白い発見もありました。新渡戸稲造の紹介で1900年〜1904年まで学んだ彼女はその後、津田塾大学で講師を勤めたり、日本YWCA同盟の最初の日本人総幹事に就任したりとキャリアを積み1929年、恵泉女学園を設立します。恵泉はクリスチャン系のお嬢さん大学ですが、授業に農作業を取り入れているのが特徴の一つ。キリスト教の精神からくるものなのでしょうか?でも何よりも気になるのが、以下ウィキペディアからの抜粋になりますが

「敗戦後、マッカーサーの高級副官として来日したボナー・F・フェラーズは、同じクエーカー派の大学に留学していた河井の一番弟子にあたる一色ゆり(旧姓・渡辺)と河井の消息を捜し当てた。フェラーズは二人を、1945年9月、昭和天皇とマッカーサー元帥が初めて会見をする4日前にアメリカ大使館に招待。天皇の戦犯問題について、二人の意見を取り入れながら、天皇不起訴を進言する覚書を作成した」

という点。なんだ、なんだ。津田梅子より遥かに面白そうじゃないか!と思ってしまいました。が、河合道についてはこのあたりでペンディングにしておいて、さて、これから持ち帰った資料と格闘です。

2008年9月16日火曜日

9月11日に会った人


ニューヨークで発行されている東海岸在住の日本人向けフリーペーパーで、記事を書かせていただけるようになりました。そしてその第一弾のお仕事となったのが2001年の9月11日の同時多発テロ事件の際、ワールドトレードセンターのすぐ側のレジデンスにお住まいだった遠藤明子さんのご著書の書評でした。

彼女は1982年に渡米され以後25年のキャリアを積まれています。2001年まで東急グループ傘下東急百貨店ニューヨーク駐在所長。北米を中心とし、商品企画・新規事業・ブランド事業開発・海外事業の導入などに携わられ、特にアートを中心とした各種イベントの企画を多く手がけられました。1973年に発表した「ラップドレス」で一世を風靡したダイアン・フォン・ファーステンバーグの、日本発のコレクションをホテルオークラで開催したのも彼女の仕事。ファッション動向に関するコンサルティング業務を展開する会社も設立し、全てが順風満帆で華々しい人生だったのでしょう。

そんな遠藤明子さんが9.11で被災され、命からがら逃げ出し、彼女の人生感は180度変わります。大勢の尊い命を失った消防団員を目の当たりにし、何かできないかと、消防署をまわって夜食を差し入れするボランティアもしました。彼女の言葉で、強い言葉で、おっしゃったことは忘れることができません。

「私を助けてくれたのはアメリカ人でした。この国の危機管理体制は素晴らしかった。私はアメリカ人でないということで差別を受ける事なく、FEMA(アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁)の支援を受ける事ができた。また各国の大使館は必死でプラカードをもって現場にかけつけ、自国民の救済にあたっていた。でも日本政府はなにもしてくれなかった」

そして以前までの利益追求型の企業方針についていけなくなり、疲れきった彼女はタイ・カンボジアへ旅をします。そこで出会ったジャスミンの香りに励まされた遠藤さんは、心機一転。今度は「呼吸」をテーマにした女性の心を癒す香りのビジネスを展開する発想を得ます。そして立ち上げたブランドが「LA LUMPINI(ラ・ルンピーニ)」。このラインで発表したのは、アロマティックバスコスメ、スキンケアライン、そして下着を手洗いする時の「ランジェリーソープ」等。LAZY SUSANから発売しました。

そして先週9月11日、ニューヨークの日本クラブで彼女の著書『The scent of
jasmine ジャスミンの香り グラウンド・ゼロに舞い降りた雪・・・白い花びら』の出版記念パーティーが開かれ参加してきました。それまでのキャリアからどんなにたくましい方だろうと想像していたらなんと、私よりも小柄で華奢で、非常に腰の低い美しい女性でした。

パーティーにはロイターの取材も入っていて、ロイターの報道記者、我謝京子(がしゃきょうこ)さんの司会でトークショー形式で進められました。さらに途中、遠藤さんの著書を読み感銘をうけたニューヨークで活躍する日本人ピアニストの生演奏もあり、非常に感慨深いものがありました。

ロイターのニュースはネット配信していたので、こちらから見て下さい。前半は時事ニュースで、後半に彼女が登場します。

http://jp.reuters.com/news/video?videoId=90599&videoChannel=206

番組ではトークショーの様子は流れていませんが、ロイターの我謝京子さんの

「わたくしも報道に携わっておりますので、穿った見方をしてしまいますと、やはり9.11の体験をビジネスに利用しようとしていると、受け止められてしまった事もありましたでしょう?」

の鋭い質問に思わず乗り出してしまいました。そう、そこが聞きたい!そして遠藤さんの回答はとてもすっきりしていました。

「はい。そういう心ないことを言う人もいっぱいいましたし、実際そうしてビジネスに利用した方もいっぱいいらっしゃいました。でも私はそうしたくなかった。だからこの企画もずっと秘密にしていましたし、本当に自分が信念をもってやりたいのかどうかを自問自答しました。資金調達は私財をなげうって自分で集めてスタートしました」

そして楽園に見えたカンボジアにて、ラッフルズホテルでアフタヌーンティーをして出てきた自分の目の前で、道ばたで売春宿に売られた少女を目撃したのです。裸足で髪をクシャクシャにして歩いていました。その時いったい自分はなにをしているのだろうと思ったそうです。そういった女性がまだまだ社会的地位を得られない、売春の対象にされてしまうのは自立できないから。自分にできる事からそういった人々をサポートをしていきたいと感じた遠藤さんは自分の事業の発注先として、身障者たちが自力で工場を運営しているReHabというファクトリーを選んでいます。

深く頭が下がりました。一貫した揺るぎない信念を持った素晴らしい女性でした。今回のこの本は販売を目的としない限定刷りでしたが、ロイターのニュースでも紹介された通り『9.11のジャスミン』と改題し多少手直しを加え、10月25日に朝日クリエより、全国発売されるそうです。

2008年9月9日火曜日

英語→日本語の苦悩


ジャパニーズガールズロックバンド『THEE 50'S HIGH TEENS 』がニューアルバム『PUNCH DE BEAT』を引っさげ、この金曜日にフィラデルフィアでライブ&ラジオ出演をする。ラジオのインタビューで通訳をすることになった友人から質問文を「自然な」日本語にして欲しいと頼まれ、初めてそのバンドの存在を知った。

大学で日本文学を専攻し、奈良県で2年間過ごし、最近の愛読書は村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』(もちろん原書で読んでいる)という彼の日本語能力は素晴らしいのだが、やはりこう仕事で使うとなると色々と問題があるのが分かってきた。いや「問題」というのは心ない言い方で、英語と日本語の相違点が改めて浮き彫りになったと言うほうがフェアかもしれない。


其の一:カタカナで表記される外来語の多さよ!

「アルバム」「リリース」「ライブ」「ボーカリスト」「ギタリスト」「ベーシスト」「ドラマー」「メンバー」「フューチャー」「コスチューム」「テイスト」「リミックス」「パフォーマンス」「ステージ」

ロックバンドへのインタビューなので外来語が多いのは仕方がないのが、こういったものを逆に正しい(?)日本語にしようとすると、よけいにワケが分からなくなってしまう。ちょっと極端な例だが

「日本出身の女性だけの洋楽合奏団の構成員は、吸血鬼の衣装で演奏をします」
だとピンと来ないが
「ジャパニーズガールズロックバンドのメンバーは、ドラキュラのコスチュームでパフォーマンスをします」
だと分かったような気になるし、その光景も想像しやすい。日本文学をこよなく愛する彼をがっかりさせながら、カタカナだらけに正してしまった。



其の二:英語は「時制」を厳密に表現するが、日本語はあやふやである

「バンドに入った前はなにをしましたか?」
彼に限らず日本語を勉強するアメリカ人はよくこのように言ってしまう。英語で書くと
「What did you do before you became a member of the band? 」
となるから直訳すれば確かにそうなるのだが、実際私たちはそうは言わない。
「バンドに入る前はなにをしていましたか?」
が通じる日本語だろう。逆に日本語の頭で英語にしてしまうと時制や三人称の"s"を忘れる羽目に。私も会話がエスカレートすると、未だにすっ飛ばしてしまう。



其の三:文脈を知らないと会話にならない…

「そのコスチュームはBéla Lugosi(ベラ・ルゴシ) を意識しているのですか?それとも一般的なドラキュラですか?」
「Béla Lugosi ってなによ?」
「知らないんですか?ドラキュラ映画と言えばBéla Lugosi 。ホリウッドの有名な俳優ですよ」
「知りませんねえ。ちなみにハリウッドね。『ホ』じゃなくて『ハ』」
「はい、ハリウッド。本当に知りませんか?アメリカ人はみんな知っていますよ」
「本当に?でもさ、このバンドのメンバーって20代前半なんでしょう?知らないと思うよ。念のために最初に『Béla Lugosiって知っていますか?』と確認してから話した方がいいね。Yesだったらそのまま会話を続けて、Noだったら…」
「え〜!知らないんですか〜??」
「いやいや、それはちょっと感じが悪いでしょう」
「そうですか?」
「そうよ。そんなリアクションはダメよ。相手が引くかも。『アメリカではとっても有名な俳優なんですよ。彼に似ているあなたたちは、アメリカで人気が出ると思いますよ』と加えてっと」
「そこまで言わなくてもいいんじゃないですか?」

とまあ大変だった。家に帰って調べたところBéla Lugosiは映画『ドラキュラ』(1931年)で主役を射止めたハンガリー出身の俳優。映画がヒットし、その後も怪奇スターとして出番があったものの、ハンガリー訛の強い英語が災いして徐々に落ち目になっていったとのこと。

もともとホラー映画は苦手だし、1931年の映画でしょう。1931年って高倉健やジェームス・ディーンが産まれた年だよ。知っている訳がない!と開き直ったものの、やはり何かの代名詞になっているような人や物は押さえておかないと会話にならないのだと痛感。

ラジオのインタビューは生放送ではなく収録。後でおいしい所取りをして編集して流すそうで、どうりで質問項目が異常に多かった訳だ。Good luck!!

Béla Lugosi、うーん確かに一回見たら忘れられない容貌…。

2008年9月3日水曜日

携帯電話の意外な機能


フィラデルフィアはレストランに恵まれている、と思う。

ZAGATのシールがベタベタ貼られたイタリアン、フレンチ、ステーキハウス、フュージョンレストランはセンターシティの至る所にある。ただしちょっとお高めの場合が多い。

我々アジア系庶民の味方はチャイナタウン。ぷりぷりジューシーな餃子(dumpling)を刻んだ生姜たっぷりのソースにつけてほうばれるし、お腹いっぱい食べても一人10ドルもいかない飲茶(dim sum)の店も嬉しい。マレーシアやベトナム料理店でライムを絞ってさっぱりと胃に優しいフォー(pho)というのもたまに食べたくなる。

インド料理はなぜかバッフェが多く、人生初めての本格モロッコ料理の店では素手で大皿から取り分けて食べるものだと教わった。ひざにかけたバスタオルの上にぼろぼろこぼしながら食べるのも、慣れてしまえば気にならない。この味、日本人の口に合うと思う。蜂蜜で味付けしたケーキは絶品だった。

一応フィラデルフィアの名物はフィリーチーズステーキ(Philly Cheese Steak)ということになっているのだが、(フィラデルフィアから来たと言えば、ああチーズステーキの街ねと言われるほどアメリカ国内では浸透している)、ご多分に漏れず大して美味しいものではない。ステーキとは名ばかりで、薄切り牛肉とタマネギを炒めたものをパンに挟み、これでもかとトロトロのオレンジ色の液状チーズを塗り付けてドンッ!胃にもたれる。私はフードトラックで売っている1ドルのシンプルなホットドッグの方が好きだ。

満腹になりさて会計。サービスに応じて15〜20%のチップを払わないといけない。もちろんワリカンの場合はチップを換算した上で頭で割ることに。ベジタリアンなど食べられるものが限られる人がメンバーにいると、食べた分だけ支払いたいと主張されるので結構面倒くさい。

そんな時に便利なのは携帯電話。気がついたのは実は昨日!ピコピコいじっていたら計算機の機能の中にチップ計算表がついているのを発見した。Billに総額を、Tipにチップの割合を、Payingにワリカンする人数を入れると自動的に一人頭いくらになるかまではじいてくれる。もっと早く気がついていれば…。

ちなみに私の携帯電話、converterの機能もあり摂氏から華氏へ、センチメートルからインチへ、キロからポンドへといった計算もできることが分かってきた。さらにCurrencyでは日本円からUSドル、またそれ以外の国の通貨への変換もできるようになっていたが、何故かそこで設定されていたレートは1ドル119.23円。現時点での正式なレートは1ドル108.59円。自分で調整できるのだが、ここも自動で変わってくれればもっと助かるのになあ。

痒いところに手が届く日本の最新携帯電話には、こういった機能はあるのでしょうか?