2009年2月19日木曜日

日本人とは…

私は今、日本とフィラデルフィアの架け橋となる事務所で仕事をさせていただいています。主に文化的な分野での仕事ですが、そうなると如何に「日本文化」的なものに疎かったのか思い知らされます。

海外で国境の差の無いグローバルなテーマに取り組んで生きていける人は別として、英語もそこそこのまま外国人として一から仕事の機会を得ようとするとその門戸は意外に狭い。何かかしら母国の文化を伝えるという形に集約していくのが妥当な線であるというのは、好むと好まざるとに関わらず受け止めなければ行けない事実のようです。

そうなると「華道」であれ、「茶道」であれ、「着物の着付け」であれ、「寿司職人」であれ、手に職というか、一芸に秀でている人は非常に強い。アメリカ人を対象にしたビジネスはもちろん、外に出て初めてアイデンティティの喪失を味わった日本人在住者もマーケットとなるわけですから。

かく言う私も、日本にいる時はこういった世界に見向きもしませんでした。「日本人論」的な世界が、どうしても偏狭な「愛国心」に結びついてしまうのではという恐怖から逃れられなかったのですね。さりとて、欧米至上主義やもっと他の国の価値観へのめり込むような度胸というか、きっかけもなかった。日常を日常として生きてきただけで、客観的に己を取り巻く世界を捉えようという発想にいたらなかったわけです。まあ私に限らず、多くの人がそう生きているのではないかと思うのですが。

で、海外にでると「お前さんは何者なのか?」という問いにぶつかるわけです。これは避けようが無い。まずは、シンプルに見た目から判断されてアジアンに括られる驚き(これは驚きです。日本人も中国人も韓国人も台湾人みんな一緒ですからね。アジアンという意味では)と、そこから違いを訴えたいという切なる思いが生まれる。また私個人に興味を持ってくれた場合「日本はこういう国なの」と言わなければならない機会の多さに、上手く説明できないもどかしさを感じる訳です。まあ1に英語がままならないというのがありますが、2に「そんなことよう知らんわ」という、無知の知にぶつかるのですね。相手を訝しがらせてしまう。「だってあなた日本人でしょう」と。

実家には仏壇も神棚もあった、宗教的に言えばごく一般的な家庭だったと思いますが、実際のところ無宗教の部類に入ると思います。祈ったこともなければ、信ずる神もいません。墓参りもしたことがない。また家系図も見たことが無いので、遠くまで遡ればどこか他の国の人の血が混じっているかもしれませんが、多分普通に「日本人です」と自己紹介する他ない生き物なのだと思います。

これがアメリカにいるとそうはいかない。宗教的な差異は実生活に確実に反映されていますし、また◯◯系アメリカ人と言われる人々は、強烈にそのアイデンティティを意識して生きている。結婚を目前にしたユダヤ系アメリカ人の友人はきっぱりと「子供はたくさん欲しい。だってユダヤの血を残したいから」と言い放ち、フィンランド系の血を引くフランス人の友人は「日本人の奥さんが出来たら、僕の子供には多くの血が流れることになる。それも楽しそうだなあ」と嬉しそうに言う。

そういう人たちに「日本人ってなんなの?」という質問をされて、初めて動揺して考えるはめになるんですよね。まさしくこれは、新渡戸稲造が『武士道』を書くきっかけとなったのと一緒の理由。名著だかなんだか知りませんが、彼はベルギーの法学博士ド・ラヴレー氏に「あなたのお国の学校には宗教教育はない、とおっしゃるのですか」との質問を受け、日本の道徳教育についてなにかしらまとめなくてはいけない義務感にとらわれる。そしてそれを「武士道」に集約させることで自分を納得させた。『武士道』は英語で書かれたんですよね。だから。それも書いたのはフィラデルフィアでなんですよ。

まあ日頃考えて生きてきた訳ではないので、付け焼き刃的にまとめようとするとボロが出る。不安定な精神状態を強いられるのを嫌い、広く知られる日本文化的なものに身を寄せるのも手ですが、結局のところ私はそれですっきりできる生き物ではないのですね。悶々と生きるしかない。

ペンシルベニア大学はイースト・アジア研究が盛んで、図書館にもかなりしっかりとした日本語コーナーがあります。日本の小さな図書館なんかは比べようも無いくらいの素晴らしいコレクション。本の森を彷徨い歩くと、悲しいかな、結局のところ「日本人論」のセクションにたどり着いてしまう。そしてその手の本の多さに呆然となります。いったいどこから手を付けて良いのやら。とりあえず『日本人は思想したか』という吉本隆明vs梅原猛vs中沢新一の鼎談本を借りてみました。

さて、読んでみますかねえ。

2009年2月16日月曜日

フィラデルフィア偉人伝① 岩倉使節団



岩倉具視を特命全権大使とした「岩倉使節団」は、近代国家日本の指針を求めて明治政府が欧米諸国に派遣した公式の使節団である。

1871年12月に横浜港を出発し、帰国したのは約1年10ケ月後の1873年9月。そのうちフィラデルフィアに滞在したのは1872年6月22日から25日の4日間。この間彼らは合衆国造幣局、フェアモントパーク、州議事堂(現独立記念館)、蒸気機関車の製造工場などを視察して回った。

一行がとりわけ注目したのが造幣局。使節団に随行した歴史学者の久米邦武がまとめた旅行記『米欧回覧実記』には、鋳造過程や貨幣のコレクションの見学の模様が詳細に描かれており、明治政府が対外貿易のため諸国との交換率を定め改鋳した新しい貨幣「円」の行く末を、彼らが見つめていたことがうかがえる。

18世紀を通じてフィラデルフィアは北米最大の都市であり、独立戦争の舞台となったアメリカの自由のシンボルの街でもある。独立宣言の起草が行われ、合衆国憲法が制定された州議事堂。ここを訪れた感想を久米は次のように記している「いまでは堂々たる合衆国憲法のもとに、3億7000万ドルの歳入を持ち、世界に隆盛を示しているアメリカであるが、その起源は、この議事堂に愛国者たちが集まり、苦心を重ねながら自主の権利を勝ち得たのである。その時の状況はどのようであったろうと想像してみた」。

岩倉使節団がこの地で吸収したものは、アメリカの"技術"であり、また自力で勝ち得た"自由"と"権利"の歴史的重みであったのだ。


※これは「週刊NY生活」NO.242、『フィラデルフィア偉人伝』シリーズに筆者が寄稿した原稿の転載になります

2009年2月1日日曜日

ジョン・トラボルタの息子死亡の裏側

ハリウッド俳優ジョン・トラボルタの息子、ジェット・トラボルタ(享年16歳)の死について、ジョンが信者となっている新興宗教「サイエントロジー」(Scientology)の教義が絡んでいるのではないかというニュースが大々的に報道されている。

公にされた死因は心臓発作で、幼い頃より煩っていた「川崎病」との関連の可能性もあるとみられている。(川崎病は英語でもKawasaki Disease)。だがジェットは自閉症であったとの噂がもっぱらで、ジョンの弟で俳優のジョーイ・トラボルタも自閉症で、病を取り上げたドキュメンタリー映画を製作している。つまり遺伝子的にはありうる話。

しかし「サイエントロジー」の教義では自閉症は認められておらず、ジョンも息子の病気を否定。同教団は精神医学を真っ向から否定し、精神病を煩う人は堕落しているとみなされる。原因は心因的なものとされ、霊的なヒーリングで治療すべきだと主張。このためジョンが適切な科学治療を怠ったのが、息子の死になんらかの関係があるのではという憶測が飛び交っている。

自閉症と心臓発作との関連は不明だが、カルト集団として名高い「サイエントロジー」への、新たな非難の矛先となった形だ。ちなみにトム・クルーズも同宗教集団の信者として知られている。

私も一度街頭で「サイエントロジー」の信者に声をかけられたことがある。最初は宗教名を口にせず、「911」やハリケーン等の被害者を助けるボランティアの活動の報告をしているから見ていって、とテントへ案内。暇だったのでついていったところ、
「あなたは精神的に落ち込んでいませんか?」
「あなたは夫婦関係が上手くいっていませんか?」
「あなたは仕事上の悩みがありませんか?」
と質問攻めにされ、「そんなあなたにオススメの本やプログラムは…」ときたので、自己啓発系のセミナーか新興宗教に違いないと思い、問いただしたところ「サイエントロジー」と判明。かねてから良くない噂を聞いていたのできっぱりと
「サイエントロジーなら興味ないです」
と突き放したところ、それまで説明をしていたまだ高校を卒業したばかりのようなあどけない少女は口をつぐみ、ぞっとするような裏切られた瞳で見つめ返してきた。長居は無用と踵を返して立ち去ったが、背中に刺さる視線が痛かった。