2013年11月20日水曜日

黄金の板は誰のもの?



クレジットカードよりも小さな黄金製の板の所有権をめぐって、ニューヨークで裁判が起きていました。

この黄金版は、中アッシリア王国のトゥクルティ・ニヌルタ1世時代、今から約3200年前に製造されたもの。表面に楔形文字とおぼしき模様が掘られています。ドイツの考古学チームが、現在のイラクのイシュタル寺院から1913年に発掘。1934年からベルリンの博物館に展示されていましたが、第一次世界大戦でナチス軍を倒したソビエト軍により略奪され、その後タバコ2箱と引き換えにライベン・フラメンバウムさんの手に渡ったそうです。

黄金板を手に入れたフラメンバウムさんは、アウシュビッツ強制収容所からの生還者。第二次世界大戦後、黄金版を大切に持って渡米し、ロングアイランドのグレートネック地区に居を構え、リカーショップを経営していました。

フラメンバウムさんは2003年に92歳で亡くなり、遺族が貸し金庫に隠されていた黄金版を発見。息子の1人が密告した(「おそらく報償がもらえると思って」と報道されています)ことにより、明るみに出て、ベルリンの美術館から返却しろと訴えられてしまいます。

そしてニューヨーク州上訴裁判所は14日、ドイツ・ベルリンにあるペルガモン博物館を本来の持ち主と断定し、返却を命じる判決を下しました。「spoils of war」(戦利品)という考えは通らないということです。

ただ、そもそもドイツの考古学者チームがイラクの地から持って帰ること自体、誰にも何の許可もとっていないことだったでしょうに、と私は思ってしまいます。大英博物館だって、メトロポリタン美術館だって、ただか二束三文で世界各国から運び出した盗品であふれているじゃないか、ということです。

そのものの所有権というのはいつから発生するのでしょう。

私はアウシュビッツの生還者のフラメンバウムさんが、死ぬまで大切に持っていたということの方にドラマを感じます。
タバコ2箱と引き換えに、「いいものを手に入れた」と感じたに違いありません。
この黄金版は、少なくとも彼が亡くなるまでは、彼のものであったということにしてあげたくなります。壮絶かつ凄惨な過去の代償として、ベルリンの天使がくれた贈り物だったということに、してあげたいなと心から思うのです。

2013年11月11日月曜日

ローカルの友はバーで探せ

「ジャージーシティーに引っ越してから友人ができないなあ。もっとローカルな友人を作りたい。そのためにはバーを開拓するのが一番さ。まだ土曜日の夜は長いよ。出掛けようぜ。ええっ1人で行けって?そんなの嫌だー。ウィーアーオールウェイズトゥギャザー!だってアイラブユーだもの」と夫がむちゃくちゃな主張を展開。病み上がりで全く乗り気がしなかったのだが、説得されシブシブ行くことに。

我が家を出て15~20分歩いたところに、そこそこ規模が大きく流行っていそうな、典型的なアイリッシュスポーツバーを発見。カレッジフットボールとナスカーの映像を同時に見ながら、不味いビールをちびちび(病み上がりだから、どんなビールでも不味い)。
小一時間たっても「ローカルな友人」はできそうにない。我々エスパニョールとハポネサのカップルはアメリカのスポーツに疎いので、サッカーのユーロカップや、イチローが登板したヤンキースの試合でも流れていない限り、アメリカ人と盛り上がるきっかけがないのだ。

諦めて会計を済ませて帰り支度をしていたとき、バーカウンターの向こうの方で「バカラオは塩漬けのタラのことだよ」と黒人のおっちゃんによく張る声で説明している南米系の若者を発見。バカラオはスペイン料理に欠かせない食材で夫もよく使う。(水に漬けて塩抜きしてコロッケの具にしたりする)これは話のきっかになりそうだ。

と、タバコを吸って戻ってきた夫に告げると、その足で若者のもとにつかつかと寄り、
「失礼、君、バカラオの話してた?」
「うん、してたけど」
と返事があったところで、それ以降は怒濤のスペイン語攻撃。相手もやや面食らったような顔をしつつも、流暢なスペイン語で返している。

ジョバンニという名のプエルトリカンの若者(育ちはアメリカ)は、ペルーレストランのメートル・ディーとのこと。このバーでガールフレンドが働いているからちょくちょく来るそうだ。一通りジョバンニと夫がスペイン語で盛り上がったのを見届けてから、わたしも近づき握手&自己紹介。すると、

「ああ、日本人なんだ。ボクの父親は サルサの歌手でね、日本には何回もツアーに行ったんだよ」
「お父さん名前何ていうの?」
「ヘルマン・オリヴェラ」(Herman Olivera)
サルサ音楽には疎い私だが、ネットで調べる限りかなり有名な歌手らしい。顔がジョバンニそっくりだ。

ジョバンニと仲良くなってきたので、彼の隣に席を移動して飲み直すことに。すると彼の飲み仲間が次々集まってきて、バーテンダーも突然愛想がよくなる。

夫:「ニュージャージーの郊外を高速道路で走ると、シカが立っていて危ないんだよね」
ジョバンニ;「ああ、あれめっちゃ危ないよ。もし運転中にシカが横切ろうとしてぶつかったら、絶対にブレーキ踏んじゃだめだよ。逆にアクセル踏んでシカをひくんだ。そうすればシカがフロントガラスを突き破らずに、勢い良く車の上に飛ばされて行くから」
夫:「アクセル踏むの?」
ジョバンニ:「そうだ、ブレーキは絶対にかけちゃだめだぜ。シカがガラスを突き破って入ってきて、大けがしちゃうからね」
バーテンダー:「シカっていえば、今日来るはずだったDJも高速でシカと衝突事故を起こしてこられなくなったんだ。見なよこの写真」(と携帯電話に送られてきた横転した血まみれの車の写真を見せる)

ジョバンニの友人が二人登場。1人は笑顔はいいのだが、ちょっとかわいそうになるくらい病的な肥満体型のはげ頭の中年男(仮にジャバズハット)。もう1人はアイリッシュ系の悲痛な面持ちで、腕から首までタトゥーだらけの男(仮に哀愁のドンキー)。ジャバズハットも哀愁のドンキーも子持ちのバツイチで、何とも言えないダメ男臭がただよう。寂しくて仕方がないなしく「君みたいにかわいい日本人の女性はいないの。紹介してよ」と迫ってくる。よせばいいのに夫が
「彼女にはフランス語の話せる妹がいるよ」と言ったものだから
「写真はないの?かわいい?フランス語もぼくしゃべれるよ」とアピールが過熱。ジャバズハットは当地の某大手日系企業で長いこと働いていたようで、たまに怪しげな日本語を混ぜてくる。哀愁のドンキーはフィリピン人の元妻とうまくいかなくなったいきさつを切々と語るが、どうやらアジア系の女性が好きらしい。
いやあ、わたしの大切な妹がジャバズハットやドンキーの妻となり、先妻との間にできた子供の面倒をみるという展開は、ちょっとないわなぁ…。と夫をにらみながら、彼らの自慢の子供たちの写真を見せてもらうなどして話題を変える。

お近づきのしるしに と、ショットグラスでウイスキーを何倍かおごってもらい飲んだ頃には、もう病み上がりだったことなんか忘れるほど出来上がってしまい、その後の記憶はあやふや。とにかくよく笑った。

我々以上に「ローカルな友人」を欲していたらしいジャバズハットが、親切に家まで車で送ってくれた。途中で「あっこいつ飲酒運転じゃん」と気づいたが、時既に遅し。店から家まで近かった上に、夜遅くて車が少なかったのであっさりと着いてしまう。ジャバズハットはビルの入り口で、物足らなそうにモジモジしていたが、初対面の男性をいくら夫が一緒といえ、家にあげるわけにはいかないので、にっこりと笑って「また遊ぼーね。今日は楽しかったわ。おやすみー」と追い返す。帰り道で事故に遭ったり警察に捕まったりしなかったのならいいんだけど。

2013年10月1日火曜日

「言論の自由」という名のご印籠

ニューヨーク市の市長選が11月5日に実施されます。予備選を経て、民主党候補のビル・デ・ブラシオ市政監督官と、ジュリアーニ市長時代に副市長を務めた共和党のジョー・ロタ候補の一騎打ちとなりました。民主党の支持層が多いニューヨーク市。デ・ブラシオ候補が断然有利と見られています。

2002年の初当選から、自ら市長3選禁止規定を撤廃した上で3選。今日まで市長の座に君臨してきたマイケル・ブルームバーグ氏。大富豪のため、市長としての受給は便宜上1ドルのみ。私財を禁煙運動、銃規制運動にがっぱがっぱと投じて、己の方向性を誰にも文句を言わせず突き進んでいく姿は、独善的な部分もなきにしもあらずでしたが、概して市民からの支持は高かったようです。

さて、市長選に話を戻します。あまり優勢とは思えない共和党のロタ候補ですが、彼の支援団体が先月25日、個人が政治団体に献金できる金額の上限を撤廃するよう、連邦裁判所に訴えたのです。訴えを起こしたのは、政治団体の「ニューヨーク・プログレス・アンド・プロテクションPAC」。アラバマ州の富豪、ショーン・マカッチチャン氏とワシントンDCの弁護士クレイグ・エングル氏が代表を務める、共和党支援団体です。

同団体の訴えは、ニューヨーク州で年間最高15万ドルと定められている個人献金の上限は、「2010年の連邦最高裁判所の判決」に従い、言論の自由の発現として撤廃すべきだというもの。

なんのこっちゃ分かりませんよね…。

そこで、ちょっと調べたところ、この「2010年の連邦最高裁判所の判決」は、米国内では「Citizens United v. Federal Election Commission」という名称でよく知られているものでした。

2010年の連邦最高裁で、企業・団体等が政治広告に資金を支出することを制限した政治資金規制法を違憲とするという、判決が下ったのです。

ううん、まだなんのこっちゃよく分かりません。あまりにも内容が難しいので、いくつかそれに書かれた日本語の記事を読みました。その中でTBS報道局記者の金平茂紀氏が書いたものが(さすが新聞記者)、一番分かりやすかったので引用します。

http://www.the-journal.jp/contents/ny_kanehira/mb/post_50.html

この中で金平氏が書いている言葉をそのまま使うと、

この判決が日本人の感覚とあまりにもかけ離れたものなので、ちょっと理解しにくいかもしれない。判決は、あらゆる企業や、労働組合、非営利団体が政治(選挙)広告に無制限に資金を支出することを規制した連邦法は、言論の自由を保障する憲法に違反するとの違憲判断を下したのである。

判決では、企業法人も個人と同様に、連邦憲法修正1条(表現の自由)を行使する権利を保障されているとして、無制限の資金流入による(日本風に言えば)「金権政治の腐敗」よりは、企業・団体にも政治活動=表現の自由を重く見る、という主張が尊重されたことになる。

ということになります。
つまり、何よりも大切な「言論の自由」のためには、無制限の政治献金を認めろということ。その「政治広告」とやらは、大枚をはたいて作られた、対立候補の悪口を散々並べ立てたネガティブキャンペーンに化ける訳です。愚民の目を欺き、自分の候補へ票をかっさらうための。(実は国民はそんなに簡単に騙されないし、ネガティブキャンペーンは逆効果という話もありますが)

もちろん2010年の連邦最高裁の判決は、オバマ大統領を含め、各方面から非難ごうごうだったようですが、政治団体の「ニューヨーク・プログレス・アンド・プロテクションPAC」はこの判決を引っ張りだし

「もっと政治献金をさせろ。献金の上限を設けるなんて言論の自由に反するぞー」と騒ぎ出したということです。

こういったアメリカ的(?)な思考の展開は、わたしが単に慣れていないだけなのかもしれませんが、噛み砕いて理解するのに時間と労力を要します。
「えっと、言論の自由って、そういう時にも使っていいものなの?それでは、『控えおろー頭が高い。この方を誰と心得る』と懐から持ち出すご印籠と一緒ではないのかしら」

とまで思ってしまいます。つまりそこに、
「それって本当に、そんなに簡単に”言論の自由”とやらの範疇に入れていい問題なの?」
という素朴な疑問が存在しない。それってものすごく怖いことだと思うのですね。

もちろん「自分の意見を通すこと」が前提で、「言論の自由」はそれを理論武装するための手段でしかない、というのは常識で、本気で「言論の自由」とは何ぞやと今更考えようとすること自体、愚かなのかもしれません。いや、多分そうなのでしょう。でも単なるレトリックとして使われるのが「言論の自由」の存在価値だとしたら、それを獲得してきた歴史に対しての侮辱であると私は思い、それに対してちょっと憤りすら感じます。憤る方向が間違っているのでしょうか? なんだかわたしの愚かさを露呈しているだけのような気もしてきました。

何はともあれ、
「年間最高15万ドルと定められている個人献金の上限は低過ぎる。もっといっぱい献金したいのじゃ!」
と不満をぶつける富豪たちって、どれだけ金があり、どれだけ金の力で政治を動かそうとしているのでしょう。民主主義というのは、金がある人が何でも好きにしてよいというものとは違うと思うのですが…。

2013年9月26日木曜日

チャイコフスキーはゲイだった!

そんなことは、クラシックファン、あるいは同性愛者の間では常識なのかもしれませんが、私は初耳でした。いやあ、びっくり。あの叙情的で繊細かつ流麗な楽曲の数々は、女心も分かる同性愛者ならではのセンスだったのかもしれませんね。

なぜそんなことをニューヨークで知ったのかといいますと、今月23日夜、マンハッタン区のリンカーンセンターで開催された、メトロポリタン歌劇場のロシア・オペラ公演が、ロシアの反同性愛法に抗議する集団により中断される騒ぎが起きたからです。

同日はオペラの初日のガラ公演で、チャイコフスキーの『エフゲニー・オネーゲン』が、ロシア出身のソプラノ歌手、アンナ・ネトレプコの出演、マリインスキー劇場の芸術監督、ヴァレリー・ゲルギエフの指揮により上演されておりました。

上演開始後まもなく、観客席にいた、ロシアのプーチン大統領が6月に成立させた「同性愛宣伝禁止法」に反対する男から、「プーチン、ロシア人同性愛者との戦いを終わらせろ」「アンナ、あなたの沈黙はロシアのゲイを殺している」などの講義の叫び声が挙がり、物々しい雰囲気の中、舞台は中断を余儀なくされました。結局その男を含む4名が退場となり、その後上演は再開されたそうです。リンカーンセンターの周囲にも、ロシアの反同性愛法に反対する人が集まり、「サポート・ロシアン・ゲイ」書かれたレインボーフラッグを掲げ、抗議活動が行っていました。

同公演への抗議活動に火をつけたのは、同性愛者の作曲家、アンドリュー・ルディン氏。インターネットを通じて、同公演をロシア同性愛者の人権保護に捧げるよう訴え、9000名以上の嘆願書が集まっていたとのこと。『ニューヨークタイムズ』の記事をそのまま引用すると

The seeds for the protests on Monday night were planted when Andrew Rudin, a composer who is gay, started an online petition urging the Met to dedicate the performance to gay rights in Russia. The petition, which has been signed by more than 9,000 people, noted that Tchaikovsky, a gay Russian composer, was being performed by artists who supported a Russian government that had passed antigay laws.

「その嘆願書には、ロシア出身の同性愛者の作曲家であるチャイコフスキーの作品を、反同性愛者法を通過させたロシア政府を支持している音楽家らによって演奏されることが言及されていた」

ここまで読んで、「ええっ、チャイコフスキーはゲイだったの!!」と、槇原敬之が同性愛者だと知ったとき以来の衝撃(いやもっとすごかったかも)を受けたのです。

美人ソプラノ歌手で知られる(だいぶ貫禄も出てきましたが)、アンナ・ネトレプコは、2004年度ロシア国家賞を受賞。ゲルギエフもプーチンを支持しているとされます。こうした芸術と政治の関係の濃さや複雑さは、ロシアの歴史を考えると、根深く恐ろしいものを感じます。そういえば、帝政ロシア時代にはウラディミール・ホロヴィッツ、 ラフマニノフのように、亡命した音楽家も多かったですね。

アンナ・ネトレプコは、公演より1カ月以上前の8月 9日、自身のフェースブック上で
「一芸術家として、素晴らしい仲間たちとコラボレーションできることは、彼らの人種、民族性、宗教、あるいは性的指向に関係なく素晴らしい喜びです。わたしは今までも、そして今後も決して、人を差別することはありません」
と発言。この騒ぎが起こる前から、すでに何かかしら彼女に対する圧力があったことをにおわせていました。

個人的には、できれば芸術を鑑賞するときは、人種、民族性、宗教、あるいは性的指向といった俗世間から切り離された、そこに降臨する絶対的な神と己との対話、あるいは神からの許しの時間であってほしいと、私は願うのですが、現実はなかなかそうもいかないようです。だから逆に面白いと、思うしかないですよね。

2013年9月18日水曜日

銃を持つ男、パエリアを作る男

ワシントンDCで昨日、ネイビーヤード(海軍工廠)で銃撃事件が発生し、 容疑者の男を含む少なくとも12人が死亡。 最近こういった事件に「ああ、またか」と慣れてきてしまっているのが怖いです。

先週末の土曜日、タイムズスクエアでも発砲事件がありました。 薬物を使用し幻覚に苦しんで自殺を試み、車道をウロウロしていた男が、 取り押さえようとした警官に向かって銃を取り出すそぶりを見せ (実際には所持していませんでした)、それに対し警官2人が3発発砲。 男には当たらず、居合わせた女性2人を怪我させたのです。 いずれも命に別状はないようですが。

昨年、エンパイアステートビル付近でも、 元同僚をうらみ銃殺した男を取り抑えようとして、警察官が発砲。 男を射殺しただけでなく、通行人9人に怪我を負わせた事件もありました。

もちろん警官に対する非難の声は高まっています。 問題は状況を考えずにすぐに発射すること。さらにヘタ…。 打つなら1発で命中させてよって思ってしまいます。 そして人ごみではなるべく打たないようにするとか。 観光客で混みあう場所には極力行きたくないです。 流れ弾に当たって死亡なんてくわばらくわばら。

夫が勤めるニュージャージー州の化学会社には、「建物内でタバコを吸わない」といったルールが社内の壁に掲げられているそうですが、 その中に「銃を持ちこまない」という項目もあるそうです。 それを見た夫は最初、冗談かと思って笑ったそうですが、 同僚の中には、自宅に銃を持っていると自慢げに話す人もいるとのこと。 普段から所持していて、うっかり会社に持ち込む可能性もあるんだと知り、背筋が凍ったようです。

先日、自分に自信がない男性ほど、 俺はすごいんだぞと、何らかの方法でアピールしたがるのでは? という話を夫としていて、
「ほら、ムキムキに肉体を鍛える男とか、 銃を所持することでパワーを持ったと感違いする男とかいるよね」
と言ったところ、

「パエリアを作る男もいるよ」

と笑顔で返されました。

世界中の男性が、パエリアに限らずとも 料理を作ることに男らしさを感じてくれたらいいのにな、とちょっと思いました。
それだけで平和が訪れたりは、もちろんしないのですが、微かな希望として。

2013年8月18日日曜日

電気シェーバービルの岸田さん

朝、マンハッタンとジャージーシティーをつなぐパストレインのジャージー側の玄関口、エクスチェンジ・プレイス駅からは、相当数の通勤客が溢れ出す。その人波はハドソン川沿いの遊歩道をわき目もふらず南に進み、全員、川沿いの同じビルに吸い込まれていく。ニュージャージー州で一番高いビル、ゴールドマン・サックス・タワーに。


高さ238メートル。遠くからみると往復式電気シェーバーか、固形のデオドラント剤を思わせるこのビルを設計したのは、 アルゼンチン人の建築家、 シーザー・ペリ。超高層ビルを得意とし、ワールドフィナンシャルセンターや、ニューヨーク近代美術館の増築などが有名で、日本でも愛宕グリーンヒルズ、日本橋三井タワーを手がけている。
わたしは毎朝この人波と逆行する形で同駅に向かう。すれ違う人のかなりの割合を占めるのがインド人。金融業界にインド人がどれほど多く進出しているのかをまざまざと見せつけられる。次いで白人、アジア系、黒人は非常に少ない。

その中にほぼ毎日目にする、アジア系の女性がいる。女優の岸田今日子によく似た顔の、50代前半とおぼしきその女性は、派手めのそこそこ金がかかっていそうな服に身を包み、きっと長い間あまりスタイルの変化をしてこなかったであろう、いや長年の間に濃さだけは増してきたかもしれないメークを顔に施しスタスタと歩いている。ある日すれ違ったとき、彼女が私が編集する日系新聞を手にしていたため、ほぼ100%日本人であることが判明。少しだけ親近感をおぼえ、それ以来、岸田さんと勝手に呼ぶことにした。

今日、はじめて同駅で会社帰りの岸田さんを見た。私がマンハッタンにいたのと同じ時間、彼女はジャージーシティーで仕事をしていたのだ。別にどうということではないが、親近感がさらに増し、心の中で「おつかれさまでした」と言ってみた。「お疲れさまでした、岸田さん」。

ゴールドマン・サックス・タワーで働く岸田さんは、どんな人生を経てここまできたのだろう?本名はなんと言うのだろう?電気シェーバービルで毎日何をしているのだろう?

男性社員のひげを剃っているのでは?いやいや、そんなわけがない。ランチはどこで食べるのだろう。せっせと毎朝弁当を作っていたりして。裏庭のチャボが産んだ卵を卵焼きにしているとか?チャポ?

いや実はそんなに深く興味があるわけではない。いろいろ妄想する対象ができて楽しいだけだ。

Stop & Frisk(職務質問)

ここ最近、ニューヨークの地元紙紙上を踊る「Stop & Frisk」(ストップアンドフリスク)という言葉がある。日本語に直すと「停止と捜検」。簡単に言うと職務質問のことだ。ニューヨーク市警察(NYPD)の「停止と捜検」が黒人とヒスパニック系(南米からの移民)に偏っていると問題になっているのだ。

 有り難いことに、私は今までNYPDの職務質問を受けたことがないが、路上で警官に囲まれ職務質問や身体検査をされている人を見たことは何回かある。確かに黒人かヒスパニック系がターゲットになっていること多かった。

  そして今月12日、マンハッタン区にあるニューヨーク南部地区連邦地方裁判所は、NYPDによる 「停止と捜検」の方法が、不法な捜索や押収(差し押さえ)を禁止する、合衆国憲法修正第4条(Fourth Amendment)に違反すると判断。「停止と捜検」の実施方法を確認する必要があるとし、警官の体にビデオカメラを装着し調査する、1年間の試験プログラムを導入するようNYPDに要求。同プログラム導入にかかる経費はすべて市の負担となる。つまり職務質問をする警官が人種差別をしていないか、警官の体につけたビデオカメラで撮影し、それを分析して判断しよう、ということだ。

 これにはマイケル・ブルームバーグ市長激怒。「警察の職務や憲法について理解していない裁判官による非常に危険な判断」であるとし、同プログラムの実施が市内の犯罪防止を妨げることになると激しく反発。まあそりゃ、そうだろうという反応だ。

 裁判では2004年1月から12年6月までの440万件の職務質問に関する統計が引用された。この統計によると職務質問対象者の52%が黒人、31%がヒスパニック、10%が白人だった。一方2010年の市内人種比率は黒人23%、ヒスパニック29%、白人33%。確かにこうしてみれば、職務質問の対象者に偏りがあると批判されても仕方がない。

 一方NYPDのレイモンド・ケリー本部長は、当局が行っている「停止と捜検」 が偏った人種に集中して行われているとの批判に対し、「強盗、銃撃、重窃盗などの凶悪犯罪を犯す加害者のうち、 70~75%がアフリカ系アメリカ人(黒人)。 現実に犯罪は有色人種のコミュニティーで起きている」と述べ、「停止と捜検」で尋問される52% が黒人であることは、犯罪加害者の割合に基づいている、と反論。ブルームバーグ市長も「停止と捜検」に対し、 近年の市内における犯罪率低下に貢献していると評価してきた。

 裁判官、当局および市長は、どちらもファクトや統計に基づき語っている。要はどちらの切り口に正当性を見いだすかということになる。NYPDからマークされにくいアジア系であることを有り難く思いつつ、犯罪を減らしてほしいとNYPDの仕事ぶりにより強い期待を寄せながら、人種差別的行為にはマイノリティーとして怒らずにはいられない。実際所持品など検査され、しょうもないマリファナ所持ごとき(マリファナ所持ぐらいだったら白人でもゴロゴロいます。念のため言っておきますが私は薬物はやりません)で引っ張られるのは、納得がいかないだろう。

 どこに自分の立ち位置を持っていくのか定めることは、とくに海外に暮らすと複雑になってくる。世間を知るほど、軸足をどこに置くべきかが分からなくなる。声高に分かりやすい正義を語る人ほど胡散臭い。でも何とか、正義らしきものを作って、人々からコンセンサスを得て、前に進んでいかないと歴史は紡げない。生きてくって何て面倒くさいことだろうと、心底思うのです。