2008年8月29日金曜日

Chocolate Sunflower



それは見たことのない美しさだった。
花屋の軒先に佇むこっくりと濃いセピア色の大輪の花。居並ぶ色鮮やかなバラやひまわりたちもおしゃべりをやめてしまう存在感と静寂さ。

「Chocolate Sunflowerっていうんだ。めずらしいだろう」

と話しかけてきたのはアジア系の店主。シミもシワも、使い込んだ常滑焼の器のようにしっくりと肌になじんだ顔は郷愁を誘う。眼鏡越しの瞳が優しい。

Chocolate Sunflower。なんと甘い名前。でもきっとこのチョコレートはビターだわ。そうだ、この花をこれから訪ねるマリエルへのプレゼントにしよう。酸いも甘いも噛み分けて生きてきた彼女なら、きっとこの花の魅力を分かってもらえるにちがいない。

手慣れた様子でギフト用のラッピングをしながら店主は語る。

「あんた日本人だろう。私は台湾人なんだよ。1967年にアメリカに初めて来て長いこと暮らしたねえ。それからいったん帰国してリタイアしてから2000年に再度渡ってきたんだ。この店かい?これは息子の店でね。そうそうモモヨって知っているかい?モモヨは日本人だよ。この先のバーバラという花屋で彼女も働いているんだ。今度行ってご覧」

たった2本だが花もつぼみもたっぷりついて8ドル。彼の人生談のお釣りまでついてきた。モモヨに会いにいくんだよ、と念を押しながら外まで送ってくれた彼。名前を聞いたら

「アーサー。ほら日本語で『morning』の意味なんでしょう」

いつものように熱烈なハグとキスで迎えてくれたマリエル。花を見て「なんて美しいの!」とこちらが幸せになるような笑顔で喜んでくれ、さっそくガラスの花瓶に。花越しに語り合った数時間。今日のテーマは大統領選から地元へのカジノ誘致に絡む問題まで、と相変わらずちょっとシリアス。

そして会話が途切れ、2人ただ花を見つめていた時、ああ今日はいい一日だと、思ったのでした。

2008年8月28日木曜日

ヒラリーに身震い

デンバーで開催中の民主党党大会。CNNで連日生中継しており昨夜も見ていたのだが、ヒラリー・クリントンの演説は物凄かった!もう物凄いとしかいいようのない神懸かり的な話術。オバマの演説を高く評価する人も多いが、私は彼女のパフォーマンスは天下一品だと思う。田中眞紀子なんか足下にも及ばない。

まず大変聞き取りやすい張りのある声で、シンプルな単語を繰り返し繰り返し使いながら主旨を明快に届けることに非常に長けている。これまでのオバマ批判はどこへやら、彼こそ大統領としてふさわしい。ブッシュがこの国にもたらした悲劇を繰り返してはいけない。今こそアメリカ国民は一致団結して立ち上がり民主党に政権を取らせるべきだと拳を突き上げて鼓舞力説。

そして挿入される「You」「Your children」「America」の多いこと多いこと。「あなた」が作る、あなたの子供、またそのまた子供のための「アメリカ」の未来を決めるための大統領選という強調(というか洗脳)。そのたびにどっと歓声をあげ立ち上がり熱狂的な拍手を送る観客たち。アメリカは建国の歴史からして自然発生的なものではなく「人」が立ち上げた意志の国。私とあなたとで未来を作り上げていきましょうというメッセージが、彼らの国民としての誇りに火をつけ燃え広がっていく様子が、はためく星条旗を透かして見えるようだった。

さらにすごいのが演説後の彼女。舞台を上手から下手、下手から上手へ行ったり来たりしながら満面の笑みで会場を見渡し、目のあった観客を次々に指差しさらに力強く歯を見せて笑う。「そうそこのあなた、私はあなたに語りかけているの!ええ、あなたなの。伝わったでしょう私のメッセージ」という強烈なアピール。個人的に繋がっているという幻想を抱かせ、盲目的に崇拝させる。うまいなあ。怖いくらいうまい。

と今日会った友人に話したら、夫のビル・クリントンもそっくりな話し方をして、彼の演説に多くのアメリカ人が魅了されたんだよって。
「最初彼は人差し指で観客を指し示しながら話していたんだけど、それはちょっとメッセージ性が強すぎるというアドバイスを受け、握り拳をつくり人差し指を曲げて関節の辺りで観客を指しながら話すようにしたんだ。ヒラリーもまったく同じように話すから、彼のやり方を学んだんだね」
ほう、と思い再度ビデオで確認したところ、確かに演説中は握り拳&人差し指第二関節方式を導入していたことが判明。

だが、だがである。私はあくまで日本人でこの選挙への投票権はない。いまいるこの国の景気や教育問題、テロへの恐怖、健康保険の問題が改善して欲しいと心底思うし、さらにそれが世界経済にも直接的に響いてしまう大国なのでバランスを保って賢明な政治経済の舵取りをして欲しいとは思う。思うものの、外部に敵を作り、諸外国との覇権争いを劇的に演じることによって国民の目を外に向け彼らの一体感を取り戻す作戦に出た場合、いつ日本だってこういった素晴らしい演説の中で悪者扱いされるか分かったものではない。「No McCain! No more Republican!」の代わりにこの調子で「No Japan」と言われたらと思うと身震いがしてきた。まあ過去にも言っていたんだろうし。大統領選という祭りが去った後、きれいごとばかり並べる両候補の将来、この国、この国の影響を受ける世界はどうなるのだろう。

オバマの演説は党大会最終日の明日28日(木)夜。ヒラリーの存在感につぶされない歴史的なスピーチになるのか。アメリカだけでなく世界に目を向けた話を聞ければ多少安心できるのだが。選挙中は無理かな・・・。

2008年8月25日月曜日

蛍光灯はどこだ??

キッチンの蛍光灯が切れた。恨めしい顔で見上げてしまう。やれやれ、また一つ解決しないといけない課題が。こういう時、まず真っ先に頭に浮かぶのは
「『蛍光灯』って英語でなんて言うのよ〜!!」

生活をしているとどうしてもこういった想定外の小さな問題の処理に対応せざるを得なくなる。つい先日は玄関のサムターンが突然ポロッと取れた。その前はシャワーの取っ手がはずれ、シーリングファンつきのリビングの電球が落下し粉々に砕け部屋中に飛び散ったことも。ファンの振動で接触が悪くなっていたと思われる。それ以降間接照明のみにすることにした。

そして今度は蛍光灯。実はこれが初めてではない。以前切れたときはアパートメントの受付に電球を持っていき、「コレとりかえて」と言ったところ20分後にスタッフがきて全ては解決。したのだが、その月の家賃には14ドル加算されていた。電球一つ取り替えるのに14ドル!人件費にしても高すぎる。今回は自分でなんとかせねば。

辞書によると蛍光灯は『fluorescent』。さらにこれを音声ガイドつきのインターネット英英辞典に打ち込み発音をチェック。
http://encarta.msn.com/encnet/features/dictionary/DictionaryResults.aspx?refid=1861674275

「f」も「l」も「r」もあるからややこしいぜと思いながら何回も繰り返し発音練習。まあこれで通じるだろう。次に直管型の電球を立てて自分と比べてみる。鎖骨の下辺りまでだから120cmくらい。4フィート。あるいは47〜48インチといったところか。さて、問題はいったいどこで蛍光灯を売っているのかということだ。もしこれが車社会に生きる郊外型生活者だったら大型ホームセンターの「Target」までひとっ走りで済むのだろうが、フィラデルフィアのダウンタウンのどこで手に入るのだろう?「街の電気屋さん」なんか見たことがないよ。

まずは近所の「CVS」(薬局とコンビニが合体したようなチェーン店)へ。見当たらず。次にマーケットストリート沿いの比較的大型スーパーマーケット「K-mart」へ。フロアの端から端まで歩いたが丸形の電球やランプの傘などはあるものの、蛍光灯はミニサイズしかない。「RITE AID」にもない。誰か友人に聞こうと携帯電話を取り出した時、ふと「STAPLES」ならあるかもともう一軒足を伸ばすことに。「STAPLES」はチェーン展開をするオフィス用品店で、文具からパソコン、プリンター、ソフトまでそろう。最後の頼みの綱。ガシガシと入って目が合った店員に聞いたところ、あっさり頷き売り場まで案内してくれた。「このサイズしかないんだけど」と言うが、それがまさに欲しかったサイズ。念のため、彼の見ている前で蛍光灯を立て、胸まで届くことを確認。さらに2本で5ドル30セント!!
「That's exactly what I'm looking for!! Thank you!」
と満面の笑顔で去ろうとしたとたん、肩をつかまれ
「いやいや、出口は逆だよ」(笑)

レジでは特に梱包もしてくれないので、落とさないよう「捧げ銃」状態で持ち帰り、よいしょよいしょと椅子によじ上り蛍光灯の取り替え成功!!こんなことも大冒険。2度と忘れないであろう『fluorescent』。

2008年8月22日金曜日

individual freedom

マリエルと話した。たっぷり4時間は。
御年77歳。元教師の彼女はYMCAで英語を教える傍、ボランティアで自宅でチューターをしている。日本人の生徒を持つのは私で5人か6人目。

「秋には一人娘とアフリカに言ってくるわ。そこで誕生日を迎えるの。でいったん帰ってから今度はツアーでインドへ行くの。さすがに個人旅行はそろそろ辛いわね」

何度も言うが御年77歳である。過去にも中国、キューバ、東欧、北欧各国と旅した国は数えきれない。その華奢な体には想像もつかないようなエネルギーが満ちている。
「郊外へ行くぐらいなら私が運転してあげるわ。あなたは私の娘のようなものだから。私は夫は亡くしたけれども娘がいる。娘がいれば夫なんていらないのよ」
一緒に小旅行をする日も近いかもしれない。

何の準備もせずに自宅へ押しかけ、テキストはなくノートもとらない。たまに辞書を引きながら思いつくままひたすら話すだけ。私のたどたどしい英語に耳を傾け、時に意見を、時に励ましを、ユーモアたっぷりに彼女の経験談を絨毯のように広げてくれる。非常に知的な女性で、深い慈愛に満ちており、やはり祖母というよりは母。

会話のテーマは縦横無尽に変化し、互いの家族のことから、アメリカのドラッグの問題、教育問題、人種問題、貧困問題、ブラジャーのサイズから、ズボンの裾あげまで。そんな中ふと以前からの疑問をぶつけてみた。

「ハリウッドで子役で大成した人は必ずといっていいほどドラッグに溺れる。セレブリティや俳優たちがドラッグ中毒なのは皆知っている。なのにどうして彼らは逮捕されないの?どうしてそのまま表舞台に出ていられるの。日本なんて未成年者の喫煙写真が週刊誌に載っただけ、ボーイフレンドとの2ショット写真が表に出ただけでクビになる”アイドル”がいるのよ」

「それはね、まず子役たちは急に大金を手にするでしょう。そして大きなプレッシャーの元で生きている。お金があればなんでも手に入ってしまうのよ。そして金持ちは逮捕されない。逆に黒人や貧しい人だったら簡単に逮捕される。そういう社会なの」

そして、とひと呼吸おいて

「アメリカは”individual freedom”(個人の自由)という考え方が根底にあるのね。誰が何をしていようと、それはその人の問題。ドラッグに溺れようと、アルコール中毒になろうと個人の自由。周りは気にしない。でも日本は違うでしょう。あなたのご両親はきっとあなたの周りの家庭と同じような教育をしたにちがいないわ。まわりの社会に合わせようと。そういった違いを理解して、それから考えると分かってくるわよ」

すとんと胸に落ちる言葉だった。ただ個人主義、個人主義と言うが、家族、宗教、非営利組織といった「愛」でのつながりはこの国は実に深い。求めれば「救い」は「愛」という形で与えられる。与えられる前提だから「弱さ」にも寛容なのかもしれない。ただ「愛」では掬えず、こぼれ落ちてしまう者もいっぱいいる。希望のないまま産み落とされ、ドラッグの売人としての人生しか選択肢を知らない子供も。銃声の響く街で。

鼻毛も金




女性はとかくに男性の身だしなみにウルサイ。かく言う私も年とともに許容範囲は広がりましたが、鼻孔から「こんにちは」しているオケケだけはどうしても我慢ができません。いったん目に入ってしまうと会話中直視をしてしまい、どんなに魅力的に話される方でも恋愛感情はおろか、友人としても距離を置いてしまいます。鼻毛露出率は国境を超えて一定数を確保。となるとそもそも男性の鼻毛は女性に比べ成長力が著しいということですよね。ひいては身だしなみに気を使う多くの男性が人目を避け、こそこそと鼻毛のお手入れをしているということ。それもそれで想像すると可笑しさがこみ上げてきて、なんか哀れな気分に。ふん、女性だって腋毛やすね毛の処理に苦戦しているのを知っているんだよとおっしゃられるかもしれませんが、私に関してはその辺りはご心配なく。黒髪の豊かさと反比例して体毛はほとんどありませんので。と、男性女性双方の怒りをかったところで…。

ペンシルベニア大学考古学人類学博物館からの帰り道、いつも通らない路地に足を踏み入れたところ「要塞」を発見。ゴロゴロとした巨石を積み上げた重々しい中世の城砦を思わせるこの建物。歴史ある町並みが美しいフィラデルフィアとはいえ、明らかに時代錯誤な異質さを漂わせています。

エントランス上部にはめ込まれた「First Troop Philadelphia City Cavalry」の看板。その下にはアメリカ合衆国の国旗と、黄色の地に戦闘用ヘルメットをあしらった旗がはためいています。門兵もおらず入り口は開け放たれているようなのでおずおずと潜入。入ってすぐの左右の壁には歴代の「CAPTAINS」の名と任期が刻まれた大理石版が掲げられ、初代キャプテンの名前の横には「1774〜1776」と。1776年はアメリカ独立宣言の年。独立戦争下に発足した軍隊の要所と推測できます。中をのぞくと木版で覆われた壁に鉄筋の梁が露になっただだっぴろい倉庫のよう。馬車でも装甲車でもなく普通の乗用車が10台近く駐車されており、一番奥の壁には段ボールが積み上げられている。それだけ。なんの緊張感もない殺風景な空気が淀んでいました。

さすがにそれ以上中に入るのは憚られたので表に戻り、写真を撮っていたところ迷彩服の中年の男性が通りかかりました。これまた緊張感のない顔で貧相な体躯は軍隊とは思えない。パシャパシャ撮っているアジア系の女性に興味は持ったものも、制止するそぶりも見せません。

「ハーイ」
「ハーイ、ねえちょと聞いてもいいかしら。この建物はいったいなに?」
「アーミーだよ」
「アーミー?でも中のぞいたけどさ、駐車場にしか見えないよ」
「倉庫として使われているのさ。アーミーだけど、でも1904年にその用途は終了してね」
「あなたここで働いているの?」
「そうそう」
「あっ私日本人ね」
「そんなとこだと思ったよ。観光客?」
「いや、住んでいるのよ。10ケ月くらい前に引っ越してきてね」
「へえ。どうフィラデルフィアは楽しい?」
「すっごく楽しい。素敵な街よね。興味深いものであふれているわ。例えばこの建物とか」
これがそんなに面白いかい?という顔で見上げ
「まあ、たいして面白くもない街さ」
「なんて表現したらいいの?こういう巨大なビルディングは。"massive"?」
「"well built"の方がいいね。一個覚えたじゃん」
「有難う」
「俺、マイク」
最後にお互い自己紹介をして握手。そして微笑み合った瞬間凍り付きました。

"Oh no! His nose hair caught my eye!! It was the same color on his head!!"

2008年8月20日水曜日

無料野外映画祭
























野外音楽祭、というのは知っていたが野外映画祭があるとは初耳だった。仲良しのKさんから「シティーホールの中庭で無料映画鑑賞会があるから一緒に行かない?」とお誘いを受け、字幕がないとキビシいなあと思いつつ興味が先に立ち「じゃあいってみましょっか」と返信。

ホームページをチェックすると『Movies Under Penn』と題うって、

blanket or lawn chair, bring the family and friends and head to City Hall courtyard four Fridays this summer to catch a movie under Billy Penn, during the City Hall Film Series. All films are FREE and open to the public and begin at approximately 8:30pm. No alcohol or pets are allowed.
(敷物やローンチェアを持参して、家族や友人をお誘い合わせの上、シティーホールの中庭、ウィリアム・ペン像の足下でこの夏の金曜日4回に分けて開催される映画祭に参加しましょう。映画は全部無料で一般公開されており、だいたい8:30頃スタート。アルコール類とペットは持ち込み禁止)

July 11 - Italian Job
July 25 - Priscilla, Queen of the Desert
August 15 - Unbreakable
August 29 - Invincible

とのこと。もう前半は終了していたし29日も先のことなので、地元フィラデルフィア出身の映画監督M・ナイト・シャマランの『Unbreakable』(2000年)を鑑賞することに。そのまま『アンブレイカブル』として日本でも公開されていたようだが、この人の作品は『シックス・センス』以外観たことがない。地元で撮影をすることで有名な監督だから、近所の風景が出てくるかもね程度の認識で何も調べず出かけた。

夜はサンダーストームの可能性ありというイヤーな天気予報。降ってきたらとっとと退散し家で飲み直そうと心に誓い、会場につくとそこには巨大なスクリーンとスピーカー、その前には階段式の簡易客席が用意されていた。ポップコーンの小さな屋台も出ている。観客はまばらだったが、始まる頃にはかなりの人数に。みんな何かかしら持ち込んで口をもぐもぐさせている。

映画は予定時間をだいぶ過ぎてからスタート。スクリーンの裏から照射している。空はすっかり暗くなり、気温はぐーんと下がってきた。屋外なので街の雑踏や車のライトが時折、音声や画像をかき消す。特にけたたましいパトカーのサイレンと点滅する赤ランプ、頭上をバラバラと行き来するヘリコプターには閉口した。が、『シックスセンス』によく似た静かな恐怖を淡々と煽る映画なので、夜気も街のノイズも渾然一体となって迫ってくる。

突然くしゃみが止まらなくなる黒人のおじさん。彼にうるせーよとでも言っているであろうあんたの声がまたうるさいよ。別の黒人のおじさん。どっと会場は笑いの渦に。だがなにが笑いのツボだったのかさっぱり分からず。ブルース・ウィルスはずっと困った顔をしている。彼の息子役の少年はハーレイ・ジョエル・オスメントには及ばないものの似たような淋しさを漂わせ、サミュエル・L・ジャクソンは満身創痍でとうとう駅の階段から落ちた。OH!! と会場が痛みを共有。

あちこちに気が散りながら、内容も今イチ分かったり分からなくなったり。重くたれ込めた雲からはいつ降ってきてもおかしくない。外気はますます落ちこみ、鳥肌で覆い尽くされた二の腕は恐怖のせいではなく、寒さのため。見かねたKさんは親切にカーディガンを貸してくれた。私は髪が長いから大丈夫って、本当に優しい。すかさず好意に甘える。

そうこうしているうちに、映画は終了。どんでん返しも『シックスセンス』ほどではなく、大物俳優を配しているのにB級映画の感が拭えないのは作品のせいか、私が集中できなかったせいなのか。もやもやと消化できないものを抱え、むしろ映画より観客を観察していた方が面白かったぜと思ったところで吹っ切れた。自宅でKさんとモヒートを2杯飲んでおやすみなさい。

後日、やはり映画に登場したブルース・ウィルスが警備員を勤めるスタジアムはペンシルベニア大学構内のフランクリン・フィールドで、サミュエル・L・ジャクソンが激しく転倒、落下したのはSEPTAのユニバーシティ・ステーションだったことが判明。いずれも近所。よく見ている風景だった。

2008年8月19日火曜日

Keystone State













最近驚いたこと。昨今話題のグルジアですが、英語ではグルジアとは言わないんですね。発音は「ジョージア」。スペルも「Georgia」で、ジョージア州と同じ。テレビ報道で気がつきました。へえええという感じでした。首都のトビリシは「Tbilisi」で同じなのに。グルジア語は読めないし発音も分からないのですが、自国語の発音は「グルジア」に近いのでしょうか?

話は変わりますが、私のいるフィラデルフィアはペンシルベニア州にあります。このペンシルベニア州のニックネームは「Keystone State」。「Keystone」(キーストーン)とはアーチ型の橋などを作る時に左右から石を積み上げ、最後にてっぺんにはめ込むくさび形の石(要石)のことです。アーチ橋を作るには、まず木造のアーチ型の木枠(支保工)を作りその上に両脇から石を積み上げていきます。最後に要石を打ち込み木枠を外すと、石同士が支え合って崩れない。ペンシルベニア州もアメリカ最初の13州の中において、経済的にも政治的にもまさに「キーストーン」だったんですね。

このマークどこかで見たことがあると思ったら、ケチャップのハインツ社(Heinz)のロゴ。1869年ヘンリー・J・ハインツがペンシルバニア州ピッツバーグに設立。今でも本社はピッツバーグにあります。でも「Heinz」ってスペルが英語っぽくない。と調べたらやはり彼の両親はドイツからの移民でした。

ケチャップが有名なハインツ社ですが、最初の商品はボトル詰めにしたホースラディッシュだったそうです。それもヘンリー・J・ハインツ氏の母親のレシピの。ハインツ社のホームページによると

Over 650 million bottles of Heinz Ketchup are sold around the world in more than 140 countries, with annual sales of more than $1 billion.

こんなに巨大な会社になって、政治に関わっていない訳がないだろうと調べたら案の定、創始者の孫でハインツ社のCEOだったヘンリー・J・ハインツ二世はイェール大学在学中に秘密結社「スカル・アンド・ボーンズ(Skull and Bones)」のメンバーでした。この秘密結社は構成員同士の結束により経済的に成功を収めることを目的としており、第41代アメリカ合衆国大統領のジョージ・H・W・ブッシュや、2004年のアメリカ大統領選挙の候補者だったジョン・ケリーが所属していたことで有名です。またその息子のヘンリー・J・ハインツ三世はペンシルベニア州の上院議員(民主党)で、彼が1991年に飛行機事故で死亡した後、未亡人のテレイザ・シモエス・フェレイラ・ハインツは1995年に前述のジョン・ケリーと再婚していました。

ううむ。こうなってくると現在進行中の大統領選とのからみも気になるのですが、リサーチ不足でまだ関係性を発見できていません。力不足ですみません。また分かってきたら、追々お伝えしていきます。

2008年8月17日日曜日

The Barnes Foundation




大学時代にお世話になり、その後も親しくしていただいている教育哲学の教授からこんなメールをいただいていました。

「Albert C. Barnsという人は医学の研究者で、ペンシルベニア大学を出た後にドイツに留学、そこで得た研究成果をもとにしてフィラデルフィアで企業を興して巨万の富を築き、財団を設立、印象派・ポスト印象派の絵やアフリカの美術を買いあさったのだそうです。それがバーンズ・コレクションとしてフィラデルフィア美術館に残っていると聞きました。バーンズは彼の財団を教育的な機関と考えて、自分の集めた作品を使って市民の芸術教育を試みましたが、そのときに頼りにしたのがデューイで、デューイもこの財団の活動に深くコミットしました。彼の芸術論『経験としての芸術』はバーンズとの関わりから生まれたと言ってもいいようなもののようです」

デューイとはジョン・デューイ(John Dewey/1859-1952)のこと。アメリカの20世紀前半を代表する哲学者。パース、ウィリアム・ジェームズとならんでプラグマティズムを代表する思想家です。先生の授業では、デューイが熱心に取り上げられていたのを思い出しました。かなり大雑把にまとめると、デューイはそれまでの弁証法的・観念論的な哲学から、より経験論・実践論的な方向へ発想を転換し、特に子供の生活経験を重視した教育理論は大きな影響を与えました。

「このバーンズという人、なかなか面白い人のようです。時間があったら一度調べてみてはどうですか?」とのアドバイスをいただきしばらくそのままになっていたのですが、先週両親の渡米に合わせて「バーンズ・コレクション」を一緒に見に行くことができました。

実際はフィラデルフィア美術館に残っているのではなく、「バーンズ財団(The Barnes Foundation)」としてセンターシティから電車で15分くらいの郊外の高級住宅街Merionにあり一般公開されています。が、入場制限があり予約制で人気がたいへん高いと聞いたので、約1ヶ月前にインターネットからチケットを購入。

Merionの駅から歩くことさらに約15分。日本の小学校の校庭ほどの芝生の向こうに城のような一軒家、といういったい誰が住んでいるんだかという超高級住宅が立ち並ぶ道をひたすらまっすぐ。我々の他には人っ子一人いません。そろそろ不安になってきた頃にようやくその白い建物が顔を出しました。

まず建物に入って驚くのが、メインホールの正面上部の壁に描かれた巨大なマチスの壁画「The Dance II」。シンプルな丸みのあるラインでダイナミックに描かれた踊る裸体たち。バックはピンクと黒と青の幅の広いラインで塗り分けられているのみです。マチスに依頼して描かせたとはにわかには信じられませんでしたが、製作中のマチスを撮った写真がそのままポストカードとして売られていました。(内部は写真撮影禁止でしたので、添付したものはポストカードをスキャンして取り込んだものになります)

そしてルノアールが180点、セザンヌが69点、マチスが60点という個人のコレクションとは思えない内容と量。他にもピカソ、ルソー、モジリアニ、モネ、キリコに加え、アフリカの工芸品やアメリカ先住民のタペストリーなど実に幅が広い。さらに左右対称に作品を配し、作品の大きさや画家までも統一させるという、へんに凝った展示方法も気になります。印象派の隣に中国の掛け軸があり、その前にやかんが置かれていたりして首をひねりたくなる取り合わせも。彼の遺言でこの配置は変えられないとのこと。変人だったに違いありません。

作品の質としてはピンキリで、MOMAやメトロポリタン美術館の足下にも及びませんが、ただもうその壁を覆い尽くす作品の量に圧倒され、なにか「念」のようなものまで感じて目眩がしてきました。バーンズよ。お前は何者なんじゃ。 目の炎症に効く銀軟膏アルジロル(Argyrol)の開発で巨万の富を得たというが、いったいどのくらい稼いだのだ。

実際、バーンズとデューイの親交はかなり深かったようです。初対面でベートーベンの交響曲第5番についての意見に相違を覚えたバーンズは、後日デューイを自宅に招き、その場で生で交響曲第5番を演奏をさせ彼に聞かせたというからすごいですね。それ以降「人格形成における美的体験」というテーマで刺激し合い、議論をかさね、デューイの数々の著書の執筆を助け、共にヨーロッパへ旅までしていました。さらに1922年、自身の会社の従業員の教育ために設立した「バーンズ財団」の初代教育監督に任命するなど、デューイの後援者であり、生きる実践であり、ある意味パートナーでもあったわけです。

芸術、哲学、教育を大きなうねりのように巻き込んで生きた2人。そのスケールの大きさと豊かさは、なかなか日本では体験できるものではありません。「心意気に賭ける!」という粋さも伝わってきます。壁画を描いたマチスもデューイの肖像画をのちに描いています。人と人との出会いが流れをつくり、渦のようになり周りを巻き込んでいく。ああ、本当に楽しかったんだろうなとちょっと羨ましくさえ思いました。

行くのが少し面倒ですし予約も必要ですが、フィラデルフィアにお超しになる機会があれば是非足をお運び下さい。なかなか得られない体験になりますよ。

2008年8月14日木曜日

『American Gothic』から考える












シカゴ美術館(The Art Institute of Chicago)へ行ったときのこと、『アメリカン・ゴシック(American Gothic)』という、あまり日本の西洋美術史の授業では重要視されていないであろう絵画に出会いました。この何とも言えない奇妙な存在感を放つ作品は、アメリカ人画家グラント・ウッド(Grant Wood/1891-1942)が1930年に発表したもので、20世紀のアメリカを代表する最も有名な絵の一つだそうです。

そう言われてもなぜこの絵が?と未消化の感覚を抱えたままフィラデルフィアに戻り、アーティストの友人に聞いたところ

「これはアメリカ美術史では必ずでてくるわね。それまで絵画の対象にならなかった農夫とその娘を描いたというところも意味があるし、さらにこの絵はよくパロディーに使われるのよ。男性をブッシュ大統領にするとか。私も友人の結婚式にこのパロディーを作品にして描いてあげたことあるわよ。ものすごいリアルに男性の顔を新郎に女性を新婦にして、彼にはエレキギターを彼女には編み針を持たせたの」

なるほど。現代アメリカ美術のイコンのようなものかもしれません。確かに調べてみるとこの絵のパロディーは山のようにでてきました。
http://images.google.com/images?ndsp=18&um=1&hl=ja&lr=&client=safari&rls=ja-jp&q=American+Gothic+parody&start=0&sa=N

さらにもう一点。建築三昧だったシカゴ旅行で最後に目に留まったのがこの絵の背景になっている白い家です。タイトルも『アメリカン・ゴシック』だし、この家もオークパークでライトの建築の陰に隠れるようにして建っていたゴシック様式の家に似ています。

そもそものゴシック建築とは、ロマネスクに続き中世西ヨーロッパで広まった建築様式です。12世紀中頃北フランスに興り、各国に伝わりルネサンスまで続きました。パリのノートルダム大聖堂などが有名ですね。特徴としては尖頭アーチ(尖塔アーチという表現もありますがどちらが正しいのかはよく分かりません)、円形状の天井(リヴ・ヴォールト)、外壁を支える斜め上がりの構造物である飛梁(フライング・バットレス)が一般的に言われるところです。またこの構造により大きく窓を取れるようになったことから、色鮮やかなステンドグラスがはめ込まれ、外部の光を取り込んだ建築となりました。

教会建築の一時代を築いたゴシック建築ですが、ルネッサンス期になると突然その評価が下がってしまいます。そもそも「ゴシック」の原意は「ゴート人の」を意味する言葉で、ルネサンス期の15-16世紀に、イタリアの美術家アントニオ・フィラレーテやジョルジョ・ヴァザーリらが、中世時代の美術を粗野で野蛮なものとみなして、「ドイツ風の」あるいは「ゴート風の」と呼んだことに由来する、後からつけられた蔑称なんですよね。

そんな過去の遺物となってしまったゴシック建築ですが、18世紀後半から19世紀にかけて中世の研究が進んだこともあり、「ゴシック・リヴァイヴァル」として復活します。イギリスからスタートした「ゴシック・リヴァイヴァル」は、18世紀後半にはフランス、ドイツに、その後イタリア、ロシア、アメリカに広がっていきます。代表的なものとして、チャールズ・バリー(1795-1860)の設計によるイギリス国会議事堂があげられますが、こうした大型の公共建築物に限らず、個人邸宅のデザインにも取り込まれていったのです。

『アメリカン・ゴシック』の背景になっている白い家も、垂直のラインを強調した切妻屋根や、はざま飾りの窓など、まさに「ゴシック・リヴァイヴァル」の様式が見て取れます。この家はアメリカ中西部のアイオワ州の街Eldonに実在し、今でも名作のモデルとして有名になりそのまま残されています。

手元のシカゴ美術館ポケットガイドによりますと、
「『アメリカン・ゴシック』は、グラント・ウッドがアメリカ中西部の気品ある人々の性格だと信じた、清教徒の倫理的価値観と美徳を典型的に示したものです」
ということです。イメージが一人歩きしてパロディー格好の材料となってしまったこの作品ですが、この説明にあるような当初の意味や精神というものは現代のアメリカ人の血の中に未だ残っているのでしょうか?

2008年8月9日土曜日

シカゴ旅行3日目&4日目




シカゴ3日目はフランク・ロイド・ライトの前期建築の見本市のような郊外の街オークパークを訪れました。ダウンタウンの西、約16キロに位置するオークパークは、洗練されたデザインの個人住宅が手入れの行き届いた芝生とセットでたちならぶ閑静な高級住宅街です。この地はアーネスト・ヘミングウェイが少年期までを過ごした故郷としても有名です。

まずはフランク・ロイド・ライト邸宅と彼のスタジオの見学。こちらは内覧ツアーで参加しました。例によって内部の写真撮影は禁止されていてお見せできないのが残念です。切り妻屋根の2階建ての私邸はライト22歳の時の作品。彼の最初の妻キャサリンとの生活のために建て、その後6人の子供をもうけ1889 年〜 1909年まで、20年間ここで暮らしました。いわゆる彼のプレーリースタイル様式はまだここでは影を潜めています。が、その後の彼の建築に活かされる意匠の数々が細部に行き渡っています。特に広々とした子供部屋が印象的でした。利用する人間のサイズに合わせた設計を心がけたライトらしく、子供サイズで子供目線で作っています。入り口頭上に設けられた人形劇でもできそうな小さな舞台。こんな楽しい家で育てられた子供たちは幸せだっただろうにと想像を膨らませてしまいました。とは言え、ライトは1909年にクライアントの妻との不倫の果て、全てを捨ててドイツへ逃亡し、2年後の帰国後もこの家に住むことは二度となかったのですが。

その後は、個人個人で支給されたiPodから流れる説明を聞きながらオークパーク内のライト設計の家をめぐるオーディオツアーに参加。有り難いことに日本語版があったので、迷わず英語学習のチャンスを逃すことにしました(笑)。2時間の制限時間内に、ライト以外のその時代を象徴する家も含め20箇所を徒歩で回るという内容。さほど広範囲を回るわけではないのですが、暑さもあって制限時間ギリギリまでかかってしまいました。

彼の代表作の一つで、彼自身気に入って"私の小さな宝石箱"と呼んだという「ユニティ・テンプル」(1908年完成)には驚かされました。これが教会?というコンクリート製の小さな要塞のような箱型建築物。素材はコンクリートでも角度によっては古代ローマの神殿のようにも見え、物々しくはないにせよ強い意志の固まりというイメージ。当時ユニティテンプル側から提示された予算は $40,000 という低さ。与えられた土地も狭く、制限が多い中作られた建物だったのですね。宝石箱は「開けてビックリ」となるはず、内覧は別に申し込まないといけませんでしたので、とりあえずこのオーディオツアーを終了させてから再度見に行こうと思ったのですが、あいにくiPodを返却した瞬間に滝のような豪雨が。さっきまでは日射病になりそうな日差しだったのに。雨はしばらく降り続き、ロイド邸脇の観光案内所で立ち往生。小雨になった瞬間に電車の駅まで走り、ダウンタウンにやっと戻ることができました。残念。でもこれでまたシカゴを訪れる口実ができました。

最終日の4日目はシカゴ美術館を見学。門外不出の名作、スーラの『グランド・ジャネット島の日曜日の午後』や、ジョージア・オキーフのコレクションを堪能。

リラックスするための旅、というのももちろんいいのですが、私はどちらかというと予定をつめて動き回る方が好きです。シカゴ建築旅行はまさにその思いを貫徹したものとなりました。

2008年8月5日火曜日

シカゴ旅行2日目













シカゴ2日目。ますます活動的になる建築の旅。
本日はループエリア(中心街)から南へバスで約20分の郊外にあるハイドパークからスタート。シカゴの南はあまり治安が良くないのですが、ここはシカゴ大学のキャンパスを中心とした、緑豊かな閑静な住宅街で別天地。

ハイドパークまでわざわざ出向いた一番の目的は、フランク・ロイド・ライトの傑作『ロビー邸』。プレーリースタイルの代表作品として名高いこの建築。まず「プレーリースタイル」とはなんぞや、ということですよね。プレーリーはその名の通り大草原。ほらプレーリードッグとか、「大草原の小さな家」(Little House on the Prairie)とか。ライトは生まれ故郷のアメリカ中西部のウィスコンシン州に広がるプレーリーの広大な大地、自然の美しさから構想を得たのです。

プレーリー派の家の特徴は、傾斜のゆるやかな寄棟屋根、大きく張り出した庇などで水平線を強調したデザインにあります。また内部は間仕切りのない連続した構成になっています。低く見えますが実は3階建てで、2階のメインフロアは中央の暖炉を境にリビングルームとダイニングルームに分かれています。この二つの部屋は、ライトオリジナルの独特な幾何学模様が施されたアートグラスの窓で囲まれ、自然光を取り込み温かい空間を生み出しています。家具や調度品も全て彼のオリジナルで、いずれも直線的なシンプルなデザインになっており、当時はやっていた装飾過剰気味のビクトリア様式へのアンチテーゼとなっています。建物内部へはツアーで入れたのですが、写真撮影を禁止されていたためお見せできないのが残念です。

なんだか日本の建物に似ているなあと思われた方は、素晴らしいセンスをしています。ライトは1893年に開催されたコロンビア万博で日本館に展示されていた鳳凰堂に出会い、インスピレーションを受けます。その後浮世絵の収集をするなど、深く日本の建築様式から影響を受けているんですよね。

そうそう面白かったのが道を挟んで向かいにあったシカゴ大学の建物が『ロビー邸』を模して作られていたこと。ここまではガイドブックには載っていません(笑)。

午後はループエリアに戻って摩天楼の街を徒歩で回りました。ミース・ファンデル・ローエの「連邦政府センター」は、その正面に設置されたカルダーの彫刻「フラミンゴ」とのコントラストが実に美しくエロティック。

もう全ては紹介できませんが、見上げる摩天楼の迫力、手のひらで感じる壁の厚み、シアーズタワーから見下ろす街やミシガン湖の美しさは全て、いままだこうして私の肉体に宿り、強いエネルギーを発しています。血となり肉となり私を動かす力になっています。

一日の最後は、ミレニアム・パークにあるフランク・ゲーリーが手がけた野外音楽堂へ。ワインや食べ物を持参した市民がのんびりとピクニックディナーを楽しむ音楽堂前の芝生に寝転び、無料コンサートに耳を傾けながら濃くなる夕闇と輝く夜の摩天楼を見つめて第2日目は終わりを告げました。
明日はライトの設計した邸宅が26個も立ち並ぶ、彼の見本市のような街オークパークへ行ってきます。

2008年8月3日日曜日

シカゴ旅行1日目








2008年7月29日から8月1日まで3泊4日でシカゴを旅してきました。大好きな現代建築の街ということで、今までにない充実した旅となりました。

まずはシカゴ到着の初日。朝5時に起床。8:50のフライトでフィラデルフィア空港からシカゴのオヘア空港へは約2時間。時差は同じ国内でも1時間あります。時計を戻して市街地まで電車で出、散策を開始したのは、シカゴ時間午前10時半頃。

シカゴ側河畔にそびえ立つミース・ファンデルローエ最後の作品『IBMビル』と、その横にあるユニークな双子のトウモロコシ型のビル『マリーナシティ』(バートランド・ゴールドバーグ作)が目に飛び込んできました。血流が加速し、全身を駆け巡るのを感じます。これ、これを見るためにはるばる来たんだった!黒光りする直方体『IBMビル』の神々しさは想像以上。「2001年宇宙の旅」のモノリスを思い出しました。

シカゴ川→ミシガン湖→シカゴ川の建築クルーズに参加。「風の街」の異名をとるシカゴ。水しぶきを時折被りながら時に遠くに、時に見上げた摩天楼の美しさは生涯忘れることのできないものとなりました。英語での解説は分かったり分からなかったりでしたが、ある程度予習してきたのが功を奏して、どこでなにを見ているのかはだいたい判別がつきました。ちなみに街の東側にミシガン湖が広がっていますが、シカゴ自体はアメリカ中西部のイリノイ州にあります。

ざっくりとおさらいをするとシカゴが摩天楼の街となった理由には、まず1871年のシカゴの大火災があげられます。3日間続いた火災は約8000ヘクタールを焦土と化し、1万8000もの建築が廃墟に、約9万人の家屋を焼失したと言われています。しかしそこからの復興はめざましいものがありました。急激な人口増加により翌1872年〜1879年の8年間には1万200件もの建築許可の申請が殺到し、1年平均にすると1275件にもなりました。その要因の一つはシカゴが農作物の集配地、食肉用の牛の取引所だった、つまり商業の要所だったということが大きいですね。

商業の活性化により高騰する地価。土地利用の効率化が求められるようになり、建物は高層化。床面積より大きくはみ出した出窓が建築のデザインに取り入れられるようになります。

1893年にはアメリカ大陸発見400年を祝う、過去最大の万国博覧会コロンビア万博がシカゴで開催されました。その後の建築、都市設計の未来を担う意味をも持ったこの万博で、会場全体の計画から建築家の指定まで一気に引き受けたのがダニエル・バーナム。バーナムの作品の多くは、ギリシャやローマに範をとった新古典主義建築でした。彼の影響を受け1920年代頃までの第1期シカゴ派の建築はゴシック様式やルネッサンス様式を取り入れた、古典折衷主義のオンパレードとなります。

前述のミース・ファンデル・ローエはル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライトと共に近代建築の三大巨匠と呼ばれる20世紀のモダニズム建築を代表する建築家ですが、実はドイツ人。1930年からバウハウスの第3代校長を勤めましたが、ナチスによってバウハウスが閉鎖されたため、バウハウスに留学していたシカゴの建築家たちが協力して彼の亡命を援助。現イリノイ工科大学の学長として招きました。

第2次世界大戦後、1960年代のシカゴはミースを中心とした新たな建築のデザインや構造が次々と生み出された、華やかな時代が到来します。(第2期シカゴ派)。建材としての鉄とガラスが表現の可能性を広げました。柱や梁だけが建物の荷重を支え、外壁を覆うガラスのファサード自体は建物に張り付いた形で重さを支えない”カーテンウォール”の工法。現在はこの工法は定着してどこの都市でも見られますが、当時は非常に画期的だったのです。

こうした歴史的な背景を知って見ると、風景はまったく違って見えてきます。新古典主義コテコテの重厚長大なビルから、ミースの時代を揺るがした珠玉の傑作たち、さらにかつては世界一高く、現在でも北米一の高さを誇る『シアーズタワー(110階建て、アンテナの高さを含めると約520メートル)』まで、あらゆる「時代を切り開いた人の意志の形」がそこにそびえ立ち、青空に迫っている。西新宿のビル群とは意味合いが全く違うのです。建築は絵画、音楽、映画などとは違い、空間を移動できません。できないからこそ、わざわざ訪れるという面倒臭さがその価値を高め、会えた喜び、足下に立つ時に襲われる震撼に、激しいエクスタシーを感じるのです。