2008年8月3日日曜日
シカゴ旅行1日目
2008年7月29日から8月1日まで3泊4日でシカゴを旅してきました。大好きな現代建築の街ということで、今までにない充実した旅となりました。
まずはシカゴ到着の初日。朝5時に起床。8:50のフライトでフィラデルフィア空港からシカゴのオヘア空港へは約2時間。時差は同じ国内でも1時間あります。時計を戻して市街地まで電車で出、散策を開始したのは、シカゴ時間午前10時半頃。
シカゴ側河畔にそびえ立つミース・ファンデルローエ最後の作品『IBMビル』と、その横にあるユニークな双子のトウモロコシ型のビル『マリーナシティ』(バートランド・ゴールドバーグ作)が目に飛び込んできました。血流が加速し、全身を駆け巡るのを感じます。これ、これを見るためにはるばる来たんだった!黒光りする直方体『IBMビル』の神々しさは想像以上。「2001年宇宙の旅」のモノリスを思い出しました。
シカゴ川→ミシガン湖→シカゴ川の建築クルーズに参加。「風の街」の異名をとるシカゴ。水しぶきを時折被りながら時に遠くに、時に見上げた摩天楼の美しさは生涯忘れることのできないものとなりました。英語での解説は分かったり分からなかったりでしたが、ある程度予習してきたのが功を奏して、どこでなにを見ているのかはだいたい判別がつきました。ちなみに街の東側にミシガン湖が広がっていますが、シカゴ自体はアメリカ中西部のイリノイ州にあります。
ざっくりとおさらいをするとシカゴが摩天楼の街となった理由には、まず1871年のシカゴの大火災があげられます。3日間続いた火災は約8000ヘクタールを焦土と化し、1万8000もの建築が廃墟に、約9万人の家屋を焼失したと言われています。しかしそこからの復興はめざましいものがありました。急激な人口増加により翌1872年〜1879年の8年間には1万200件もの建築許可の申請が殺到し、1年平均にすると1275件にもなりました。その要因の一つはシカゴが農作物の集配地、食肉用の牛の取引所だった、つまり商業の要所だったということが大きいですね。
商業の活性化により高騰する地価。土地利用の効率化が求められるようになり、建物は高層化。床面積より大きくはみ出した出窓が建築のデザインに取り入れられるようになります。
1893年にはアメリカ大陸発見400年を祝う、過去最大の万国博覧会コロンビア万博がシカゴで開催されました。その後の建築、都市設計の未来を担う意味をも持ったこの万博で、会場全体の計画から建築家の指定まで一気に引き受けたのがダニエル・バーナム。バーナムの作品の多くは、ギリシャやローマに範をとった新古典主義建築でした。彼の影響を受け1920年代頃までの第1期シカゴ派の建築はゴシック様式やルネッサンス様式を取り入れた、古典折衷主義のオンパレードとなります。
前述のミース・ファンデル・ローエはル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライトと共に近代建築の三大巨匠と呼ばれる20世紀のモダニズム建築を代表する建築家ですが、実はドイツ人。1930年からバウハウスの第3代校長を勤めましたが、ナチスによってバウハウスが閉鎖されたため、バウハウスに留学していたシカゴの建築家たちが協力して彼の亡命を援助。現イリノイ工科大学の学長として招きました。
第2次世界大戦後、1960年代のシカゴはミースを中心とした新たな建築のデザインや構造が次々と生み出された、華やかな時代が到来します。(第2期シカゴ派)。建材としての鉄とガラスが表現の可能性を広げました。柱や梁だけが建物の荷重を支え、外壁を覆うガラスのファサード自体は建物に張り付いた形で重さを支えない”カーテンウォール”の工法。現在はこの工法は定着してどこの都市でも見られますが、当時は非常に画期的だったのです。
こうした歴史的な背景を知って見ると、風景はまったく違って見えてきます。新古典主義コテコテの重厚長大なビルから、ミースの時代を揺るがした珠玉の傑作たち、さらにかつては世界一高く、現在でも北米一の高さを誇る『シアーズタワー(110階建て、アンテナの高さを含めると約520メートル)』まで、あらゆる「時代を切り開いた人の意志の形」がそこにそびえ立ち、青空に迫っている。西新宿のビル群とは意味合いが全く違うのです。建築は絵画、音楽、映画などとは違い、空間を移動できません。できないからこそ、わざわざ訪れるという面倒臭さがその価値を高め、会えた喜び、足下に立つ時に襲われる震撼に、激しいエクスタシーを感じるのです。
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