2008年12月30日火曜日

サンフランシスコ2日目【前編】



















サンフランシスコ2日目。青空が広がり絶好の観光日和。サンフランシスコ名物のケーブルカーで坂の街をガタゴトと移動。坂を越えるとそこは港だった。

フィッシャーマンズ・ワーフを散策。昨日は霧にかすんでいたゴールデンゲートブリッジもすっきりと見えます。朱色の雄々しい姿は澄んだ青空によく似合う。奇妙なうなり声に驚き近づくと野生のアシカの大群が。微笑ましいんだか喧しいんだか。

以前フィラデルフィアで仕事をご一緒にしたサンフランシスコ在住の日本人女性Hさんと落ち合い、港を望むレストランでランチ。大企業から転職され、ハワイに本拠地のある、日本企業の海外イベントや学会等のマネージメントをする会社に勤務。
「メインの顧客はマルチです」
「えっ、マルチってなんですか?」
「マルチ商法ですよ。売り上げトップの人を海外でのパーティーに招待するとかあるでしょう」
色々勉強になります。お子さんの教育上ハワイではあまりにものんびりし過ぎていると、サンフランシスコに移住し、ハワイと本土を行き来する日々とのこと。格好いい、働くお母さんです。

彼女の車に乗り込み、ツインピークスへ。サンフランシスコの中央部に位置する、その名の通り276mと277mの双子の丘。景勝地として知られ、頂から見下ろしたサンフランシスコの町並みは絶景でした。ちなみにデビット・リンチ監督のテレビドラマ&映画『ツインピークス』とは関係ありません。

再会を約束して彼女とお別れをしたのは、1960年代のヒッピーの発祥地で今もその面影を色濃く残す街、ヘイト・アシュベリー(Haight Ashbury)。Haight ストリートとAshbury ストリートの交差するこの一角は、ロックやパンク系の店、古着屋などが軒を連ね、ハートマークやピースマーク、極彩色の花柄模様などが渾然一体となって、香が立ちこめるようにこの街のイメージを記憶に焼き付け
てきます。日本でいうと下北沢に近い雰囲気かしら。

水タバコ専門店に入ったところ、見慣れないカラフルなくねくねしたガラス細工を発見。後から友人に教えてもらい知りました。これらはマリファナを吸うための器具なんですって。いちおう違法ですが、もう当たり前のように店頭で売られている。さすがヒッピーの街。

とは言え、ヒッピーのムーブメントは遠い昔に過ぎ去り、「反戦・平和・自由」をスローガンに、ビートルズを聞いてドラッグによる高揚感に恍惚とできた日々はもう戻ってこないでしょう。世界を覆う悲しみは一時の雰囲気では変えられない。観光地として独特の雰囲気を表面的に楽しめば楽しむほど、その一方で現実が浮き彫りになる。かつてヒッピーだった人々はいま何をしているのでしょう?そのままそのライフスタイルを貫いている人もいれば、現実社会との狭間で方向転換を余儀なくされた人もいるに違いありません。

それは我々の親の世代の学生運動の時代とも被り、ムーブメントと革命の違いを考えさせられました。ヒッピーは世界を変えられたのか?学生運動はどうだったのか?くすぶり続けるフラストレーションは、まだ彼らを支配しているのでしょうか?

「Haight Ashbury」のロゴの入ったマグネットを買い、帰宅後冷蔵庫に貼ってみました。何の重みもないクールなマグネットを。

2008年12月27日土曜日

サンフランシスコ1日目

12/12-12/15でサンフランシスコへ遊びに行っておりました。同じ国とはいえ、東海岸のフィラデルフィアから西海岸のサンフランシスコへは、飛行機で6時間。成田から香港へ行く方が近い!!時差も3時間あるし、たどり着くだけで疲れてしまいました。そして国内線のサービスの悪いこと。機内食も飲み物もそのつど購入しないといけないし、日本の航空会社だと、笑顔のフライトアテンダントがピンセットで配ってくれるおしぼりが懐かしい。

サンフランシスコはお天気が変わりやすく、雨が多いので有名ですが、初日は一日雨模様。おかげでゴールデンゲートブリッジの魅力も8割減。アル・カポネが収容されていたことでも知られる監獄島アルカトラズ島も霧にかすんでおり、どことなく風景が母親の実家のある高松からみた瀬戸内海のようで、正直期待が大きかった分落胆も激しかった。落胆のもう一つの要因はアジア系の観光客の多さ。韓国人観光客がバスで乗り付け、記念写真をパチパチとっている様子は、一昔前の日本人のそれのよう。青い空のサンフランシスコの美しい町並みに出会えるのは、2日目以降となってしまいました。







フィラデルフィアとの大きな違いは、観光客のみならずアジア系とヒスパニック系の人口の高さ。チャイナタウンも比べ物にならないほど大きいし、ほんの数ブロックですがジャパンタウンなるものも存在します。逆に黒人が少ない。フィラデルフィアは人口の半分強が黒人ですからね。

夜になり久しぶりに和食を食べようとジャパンタウンに繰りだしました。闇夜にそびえ立つ名物?のコンクリート製の五重塔は、どことなく新興宗教のモニュメントみたい・・・。町自体も元気がなく荒廃した感が拭えず、第一働いている人のほとんどが韓国人。もはや日本人移住者がコミュニティを作って、地に根を張り生きていく時代は終わったのだなあと、時の流れを感じずにはいられませんでした。





ネットで見つけて予約をいれておいた小料理屋では着物姿のおかみさんに案内され、千枚漬け、松前漬け、揚げ出し豆腐など懐かしい味覚に1年ぶりに出会いホッ。フィラデルフィアでは多分ほとんど手に入らないイモ焼酎で乾杯。お客さんも全員日本人。漏れ聞こえてくる談笑が、まるで小劇場の芝居のように不思議な違和感をもって届いてきました。久しくこういう風景に触れていなかったなあと、フィラデルフィアでは感じなかった望郷の念にかられます。

なぜか侘しさばかり感じてしまったサンフランシスコ1日目でしたが、旅とは期待を裏切られるもの。それもまた味わいがあってよかったとしましょう。

2008年12月25日木曜日

Merry Christmas from Philadelphia













「Happy Holidays!!」の挨拶が街中を覆う素敵な季節になりました。日本では恋人たちのクリスマスというイメージですが、アメリカでは家族のためのクリスマス。一般的に家族そろって夕食を食べたり、プレゼントを交換する日です。そして宗教的な基盤がしっかりした行事なので、クリスマスセールなど商業色が強くなってもまだその祭りの意味合いを、納得のいく形で見つめることができます。

街頭のイルミネーションは、正直言って表参道辺りの方がばっちりフルメイクという感じです。ただフィラデルフィアは古都の町並みが残り、観光用とは言え馬車が走っていたりするので、趣がありますね。海外でクリスマスを過ごせるのは、クリスチャンでない私でも温かい気持ちで幸せになれるひとときです。

センターシティにあるデパート、Macy'sの3階で開催中の「Dickens Village」のショーへ行ってまいりました。ここのMacy'sは世界一大きなパイプオルガンを有する、荘厳な新古典主義様式の歴史ある建物(元はデパート王のWanamaker's building)です。クリスマスシーズンには電飾のイルミネーションのショーが有名ですが、今回見学をしてきたディケンズの「クリスマスキャロル」のストーリーを再現した人形ショーもなかなかのものでした。物語の街を歩いているような感覚にさせられるディテールにこだわった展示。等身大のリアルな人形たちが首を振ったり、ダンスをしたり、叫んだり、カタカタと動き、お化け屋敷のようでちょっと不気味でしたけれど、お話自体も守銭奴のスクルージに、死の恐怖を味わわせてまで、キリスト教的博愛と美徳を説く道徳訓話ですから、それはそれで雰囲気がでていて良いのかもしれません。

イメージを伝える手段として踊りだったり、芝居だったり、映画だったり、色々な表現方法を考えてきた人間ですが、こうした動く人形を使った展示というのはあまり日本には馴染みがないかもしれませんね。

ところがです。これはまだほとんど知られていないことですが、明治から昭和初期に三代にわたって皇族や財界人らに愛された人形師「永徳斎」(えいとくさい)一族というのがいたのですね。 その中でも三代永徳斎(山本保次郎)は、フィラデルフィアに1907年から1927年の20年もの長期に渡り滞在し、今はなき「フィラデルフィア商業博物館」に勤務。展示用生人形や模型の製作に従事したという歴史があります。まだ美術館にCGによる解説や、展示用ロボットがなかった時代、ジオラマや人形モデルを利用した展示は今以上に効果的だったのでしょう。詳細につくられた等身大人形で日本、中国、フィリピン等の世界諸国の生産労働や風俗を表現。残念ながら彼のフィラデルフィア滞在中の作品は、テンプル大学に小型のものが3体残っているだけで、写真でのみその功績を見る事ができます。

彼の研究を続けておられる、作家の圓佛須美子(えんぶつすみこ)さんの講演会に参加させていただいたのは11月20日(木)のこと。残念ながら観客は10人程度しかいませんでしたが、流暢な英語での講演と写真スライドに吸い寄せられました。いいお仕事をされているなあと思ったのと同時に、人形を使った展示の魅力がよく分からなかった記憶があります。それがこうしてMacy'sの人形たちを見ているうちに、アメリカの文化にこの表現形態が根付いている事実。そしてそこに日本の匠の技が出会い一時代を作った歴史を、どどどどと打ち寄せる波のように体感することができました。

英語での解説ですが、フィラデルフィア日米協会のホームページに「永徳齋」の講演会についての情報が載っています、ご興味があればご覧ください。
http://jasgp.org/component/option,com_events/Itemid,176/task,view_detail/agid,407/year,2008/month,11/day,20/

何かが分かったと感じられる瞬間はいいですね。Macy'sのクリスマス電飾イルミネーションとパイプオルガンの調べをYoutubeにアップしたのでご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=DSiIv7ufWlU&feature=channel

2008年12月23日火曜日

働けど、働けど…

外から日本を見ると、今まで何とも思わなかった光景が異常に見えてきます。同時に画一的な視点でしかみていなかったアメリカ像が変わってくるのも興味深い体験です。

一週間くらい前、CNNのニュースで日本の過酷な労働状況について取り上げていました。正確な数値は覚えていませんが確か、25%のビジネスパーソンが午後9時前には帰宅しない。1/3の父親が子供の起きている顔を見ないというデータに愕然としてしまいました。不況下で死にものぐるいで働かないと家族を養えないという現状もありますが、やはりこれは異常です。取り上げられていたエンジニアの男性は、早朝家族が起きる前に出勤し、深夜にくたびれた顔で帰宅。専業主婦の妻は幼い子供の面倒を見る毎日。

私も東京にいた時は連日終電で帰宅でした。夕食を食べていないこともしょっちゅう。で、ストレスを家に持ち帰りたくないため近所のバーへ寄り、ベッドに転がり込むのは深夜2時以降。終電の中は疲弊しきった人々が紡ぎだす「無関心」か、酔っぱらいどうしの「小競り合い」果ては「大げんか」。嫌だなあと思いつつも、生きていくためにはどうしようもないと諦めの境地でした。

こういった話をアメリカ人の友人に話すと口を揃えて「異常だ」と。彼らは離婚率も高いですが、家族を大切にする気持ちは非常に強い。主人の職場(生物学の研究室)も5時くらいになるとみんなさっさと帰ってしまい、夜遅くまで残っていたり、休日まで出勤して働くのは日本人か韓国人のみとのこと。また既婚者が仕事後に一杯飲みにいくという習慣もあまりないようです。むしろ家に帰って子供の顔を見たいと。日本の父親たちは子供の顔を見たくないのでしょうか?

家に父親が不在だから子供が母親とベッタリになって、それが日本の男性にマザコンが多い原因じゃないの?となかなか鋭い指摘を受けてしまいました。精神的に脆弱な男性が多いのもそのせいかも。

結婚しているカップルの1/3がセックスレスというのも恐ろしい話ですよね。だったら離婚すればいいのにとよく言われます。でもそうもいかない。特に子供がいたら片親だと色々困難もあるでしょうと言ったら、幸せじゃない(セックスをしない=愛し合っていない、幸せじゃないという理屈)両親の元に育つくらいだったら、片親でもハッピーな方が子供にとっていいと思う、ですって。

ううむ。そうなのかなあ。そうなのかもしれないと最近思うようになってきました。現状維持というのが日本人は好きなのかもしれませんね。歪みが生じている関係を、見ないように維持してそのまま崩壊へと突き進んでゆく。個人間でも会社内でも、国の舵取りでも。変化を嫌う。いままでそれでやってきたから今更改革をすることにエネルギーを使いたくない。個人間では織り重ねた感情の綾が、社会や政治ではしがらみや既得権益が。

そして今日もくたびれ果てたビジネスパーソンたちが、終電で臭い息を吐きながら口をあけて寝ているに違いありません。もうその世界には戻れないなあと思うこのごろです。

2008年12月9日火曜日

フィラデルフィアから見たオバマの勝利

 2008年11月27日発行 第0523号 論説
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■■■    日本国の研究           
■■■    不安との訣別/再生のカルテ
■■■                    編集長 猪瀬直樹
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 今週のメールマガジンは元猪瀬直樹事務所スタッフであり、フィラデルフィア在住、甲斐田雅子さんのレポートをお送りします。

 今月4日に投票が行われた米大統領選挙は、民主党候補のオバマ上院議員が共和党候補のマケイン上院議員に勝利し、米国初の黒人大統領が誕生することとなりました。

 1930年代以来の金融危機がオバマ氏勝利の決定打となったとも伝えられていますが、果して実際はいったいどんな人びとが、どんな思いをもってオバマ氏に投票したのでしょうか。

 雅子さんのレポートにはオバマ氏に投票した人々の生の声がつづられていました。熱狂する人びとの一方で、冷静に選挙戦をみつめる人もいる。ぜひ一読を。

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「フィラデルフィアから見たオバマの勝利」

                          甲斐田雅子


 アメリカ大統領選は民主党候補のバラク・オバマ(47歳)の勝利で終わった。狂喜する民衆の映像は日本でも流れたことだろう。黒人初の年若き大統領。昨今の金融危機をどう乗り切るのか、今後の日米関係はどうなるのか、などドラマティックに報道されたに違いない。

 長い長い選挙戦だった。連日報道されるオバマ、マケイン両候補の一挙手一投足。テレビコマーシャルによるネガティブキャンペーンの嵐。街角でもキャンペーン担当者に捕まり「選挙人登録は済ませたのか」と聞かれるなど(私には選挙権がない)かなりうんざりしていたので、正直なところ平穏な日々が戻ってきてホッとしている。メジャーリーグでのフィラデルフィア・フィリーズの28年ぶりの優勝、そしてこのオバマの勝利と、暴徒化した市民が深夜まで奇声を上げクラクションを鳴り響かせる日々が続いたので……。

 ただオバマの勝利とはいえ、その票差は53パーセント対47パーセントとアメリカ国民の約半数がマケインに票を投じていたことになる。ここペンシルベニア州では54.7パーセント対44.3パーセントでオバマが勝った。もともと東海岸は民主党が強いことで有名なので予想通りではあったのだが、私の住むフィラデルフィアの結果には目を疑った。なんと83パーセントもの有権者がオバマに票を投じていたのだ! 

 確かに街角でマケインのキャンペーンは一度として見る事がなかったし、オバマ支持を表明するTシャツやバッジを誇らしげに身につけた市民が闊歩し、皆口々に彼を褒めたたえていた。もはや政策云々ではなく、心情的理由が第一優先されているとしか思えない。選挙というよりは宗教に近いものすら感じた。

 だが、果たしてそうなのだろうか? 選挙権のないガイコクジンである私が冷ややかな目で見つめているだけでは何も分かった事にはならない。大手メディアの報道も日頃から偏りを感じている。なぜ83パーセントものフィラデルフィア市民がオバマに投票したのか。いったい何が彼らをそこまで駆り立てたのか。そこでささやかなアンケート調査を実施してみた。私に統計の知識はない。この調査結果はあくまで多少恣意的なチョイスによる街の声のサンプルとして受け止めていただきたい。

 アンケートはいたってシンプルなものだ。1.性別 2.年齢 3.人種 4.どちらの候補に投票したのか? 5.その理由 6.フィラデルフィアでオバマが大勝した理由はなにか 7.逆にマケインが大敗した理由はなにか。5、6、7はあらかじめ一般的に言われていることを元に選択肢を用意しておいた。対象となったのは私の友人や英会話の教師。さらに彼らの知人、家族ら38名。男性22名、女性16名。人種別には白人29名(うちユダヤ系4名)。黒人6名、アジア系アメリカ人3名。今回初めて選挙権を得た18歳の青年から70代後半のシニア世代
まで手を広げたが、一番回答が多かったのは20代から30代の若者たち。

 多少恣意的と先ほど言ったが、まず日本人である私を友人として受け入れてくれている時点で語学学習や、オリエンタル文化、アニメの世界などに興味津々の知的好奇心溢れる若者たちなのだ。あるいは移民に英語を教える講師たち。アメリカ以外の国の人々と共同研究やディスカッションをする科学者たち。彼らをアメリカ人の代表とすることはできないが、全米第6位の大都市フィラデルフィアでは良識ある一般市民の枠に入れてもよいだろう。決して豊かではないが日々の生活には困っていない。投資型年金の受給額に頭を悩ませたり、サ
ブプライムローンで首が回らなくなったりしているわけでもない。その辺りを考慮に入れて以下の結果を見てみよう。

 38人のうちオバマに投票したのは35名。マケインに投票したのは1名。その他2名。マケインに投票したのは70代の白人の男性のみだった。彼とは面識がない。地元でマケインのキャンペーンの指揮を取っていた責任者だと聞いている。

 オバマを選んだ理由。複数回答を可としたので全てに印をつけてくる人もいたが、中でもダントツに多かったのが「これ以上共和党に政権を握らせたくないから」というもの。次いで「マケインの政策に同意できないから」と「ミドルクラスを対象にした減税プランに賛同できるから」が並び、経済不況を立て直すことへの期待はその次となっていた。

 フィラデルフィアでオバマが大勝した理由。そしてマケインが負けた理由。これは面白いほど回答が一致していた。「フィラデルフィア市民は社会的かつ人種的にもオバマに共感を抱いているから」。つまりフィラデルフィアは黒人の街だからということだ。確かに2000年の国勢調査によると、黒人人口の高い街ランキングでフィラデルフィアはニューヨーク、シカゴ、デトロイトに次いで4位に位置する。そして次いで「フィラデルフィアはそもそも民主党が強い地域だから」。

 ただ先ほど触れたようにペンシルベニア州全体の結果は54.7パーセント対44.3パーセントと僅差だ。これは郊外に住む根強い保守派がマケインを支持したからだ。州内の67選挙区のうちオバマが勝利したのは18地域のみ。共和党の党カラーの赤、民主党の青で塗り分けされた地図を一見するとまるでマケインが勝ったかのように真っ赤である。「白人に投票しよう!」という看板を表に出している家もあったと聞く。

 オバマのキャッチコピーは「CHANGE」だった。これは日本でいうところの「構造改革」に近い響きだったに違いない。すとんと国民の胸に落ちた。「古い自民党をぶっ壊す」と叫んだ小泉元首相の顔が浮かぶ。8年間のブッシュ政権への怒りがたまった都市生活者たちや、未だ社会的地位が低い多くの黒人たちのルサンチマンが一気に爆発した結果ともいえよう。

 またもう一つのキャッチコピー「YES WE CAN」も強い言葉だった。日本では誰かの相談に乗り励ましたい時など「頑張って」というが、英語では「You can do it」と言う。「頑張って」がどことなく対象から距離を置いて遠くから応援している印象を与えるのに対し、目を見て「You can do it」と言われると「あなたならできる」と強いパワーをもらったような気になる。「YES WE CAN」が響いたのも言葉に宿る力をオバマが上手に使い、それによって人々が奮い立ったからだろう。

 今回初めて投票権を得た18歳の黒人の青年が興奮したメールを送ってきた。「オバマが次期大統領になった瞬間のインパクトはすごかったよ。これは初の黒人大統領による新たなアメリカの幕開けだね。今やすべての人種の人びとが言うことができる。『私も大統領になれるんだ』って。」

 ただ同じくオバマに投票した30代の黒人男性はもう少し冷静だった。
 
「この選挙は最初から不公平だったよ。だって全てのメディアがオバマを応援していたんだから。どのチャンネルでもオバマがいかに素晴らしいか、彼の政策がこうだということしか放送していなかった。マケインのプランなんて結局よく分からないままだったよ。だから郊外の共和党支持者はテレビなんか見ていなかったんじゃないかな。彼らは最初からマケインに投票するって決めていたんだよ」

 彼は日頃から政治が嫌いだと言っている。政治家はみんな嘘つきだから嫌いだと。しかし投票にはちゃんと足を運んでいた。そして彼が放った以下の言葉は痛みすら感じるものだった。

「1年くらい前に、テレビでなぜテロリストたちは罪のないアメリカ人を殺すのかという特集を見たんだよ。中東のとある大学教授がインタビューを受けていて、彼によるとアメリカ人が彼らのリーダーに投票した以上、もしそのリーダーが間違いを犯したら同じ責任を負わなければならない。それゆえ“無実な”アメリカ人を殺してもオーケーなんだと。その考え方はあまりにも強烈だった。でも投票した人たちが、彼らの選んだ大統領が間違いを犯した時に責任を少しでも感じるかどうかは疑わしいね。僕はオバマに投票した。だからオバマが過ちを犯したら、僕にも小さい責任があると思っているよ」

☆上記の記事は作家の猪瀬直樹が毎週発行しているメールマガジンから、2008年11月27日号として配信されたものの転載です。彼のメールマガジンの配信を希望されるかたはこちらから。
http://inose.gr.jp/mailmaga/index.html

2008年12月1日月曜日

雨のフィラデルフィアより愛をこめて

「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」

雨にむせぶフィラデルフィアの空を見つめていたら、ふと思い出しました。与謝野晶子のこの短歌。情熱の女流詩人として知られる彼女らしい、思いのたけをぶつけたセンシュアルな作品。素手で肉体をえぐるのではなく、遠くから放った言葉のやはらかな毒矢でじわじわと魂を蝕む。女は怖いなあと。でも私も女ですから、きっとこの怖さを隠し持っているのでしょう。

これをどう英訳するのかしらと調べていたら、2つ見つけました。

Not even once 
have you touched my soft flesh,
 coursing with hot blood,
 Don't you feel a bit lonesome,
 you -- always preaching your way?

Don't you feel you are preaching in vain about how life should be, without holding my hot and feminine body?

まあどちらも同じようなことを言っているのですが、やはり直接的になってしまい、まどろむような趣が消えてしますね。

分かるような分からないような、察する事ができるようなできないような、そもそも男女の中なんてそんなものです。恋愛という架空の世界を彷徨い、分かり合えるという幻想に一縷の望みをかけもがき苦しむ。こぼれおちていく言葉の球を追いながら。

恋愛に成就はないというのが私の考えです。一瞬のエクスタシーはあるかもしれませんが、味わった後はかえって肉体と精神の火照りに苦しむ。始まった瞬間から終焉にむけてのカウントダウンがはじまる。人生のように。

あまりにも考え方が暗いと友人に笑われました。hapinessというのはそういうものではないよと。愛する人と一生連れ添い、子供を産んで次の世代への希望を残すのが幸せだって。そうかもしれませんね。もしそれができるのであれば。その価値観に疑問を抱かず生きていけるのであれば。

俵万智のチョコレート語訳だとこうなります。

「燃える肌を抱くこともなく人生を語り続けて寂しくないの」

謎めいた響きが消えて、これでは詰問になってしまう。聞きたくても聞いてはいけないのは恋愛の掟。そしてそれを聞いてしまうのが女の弱さ。ローエングリーンの素性を問いつめたエルザのように。

これだったら英訳の方がまだ良いですね。少なくとも私にとっては、辞書を引きながら意味を想像する。翻訳者の戸惑いと苦悩のひだに指を這わせるという遊びの部分が残されているから。

2008年11月29日土曜日

Thanksgiving Day Parade













11月の第4木曜日はサンクスギビングデー。祭りの由来は、イギリスからマサチューセッツ州のプリマス植民地に渡った清教徒たちが、到着した1620年の冬の厳しさに倒れ死者まで出して苦しんでいた時に、原住民が救いの手を伸ばしてくれた。そして翌年は豊作だったため、お礼に彼らを招いて催した感謝祭。とのことですが、今はその前後を長期の休暇にしてしまい、多くの親戚や友人が集まりターキー(七面鳥)を食べる。日本でいうところのお盆やお正月のイメージです。

サンクスギビングデーのパレードと言えば、ニューヨークでMacy'sが主催するものが有名ですが、ここフィラデルフィアでもかなり大規模に行われます。街のほとんどの店がシャッターを締め、人通りも少なく閑散としているのですが、パレードのコースには驚くほど大勢の家族連れが集まり、休日の朝を楽しみます。

パレードで練り歩くのは巨大なバルーンで表現されたアニメのキャラクターたち、地元や近隣の高校のブラスバンド部、セサミストリートのキャラクターの着ぐるみたち、ミスアメリカ他近隣3州のミスたち、人気オーディション番組「American Idol」に出場した歌手の卵、地元フィリーズやイーグルスのチアリーディンググループ。等々。〆を飾るのはトナカイのソリに乗ったサンタクロース。ああ、もうクリスマスシーズンですね。

底抜けにハッピーで楽しく、はしゃぐ子供たちを見ているだけでも幸せな気分になれるいい時間でした。パレードがはけた後は、家族そろってターキーを食べたことでしょう。

そして日本の祭りとの違いを感じるのが「屋台」がほとんど出ない事。ソフトプレッツェルやペットボトル飲料、ホットドッグ、綿あめくらいしか売っていないのです。それもカートで押してたまに売りにくる程度。焼き鳥、焼きトウモロコシ、チョコバナナ、たこ焼き、焼きそば、ベビーカステラ、ビールまで売っている日本の祭りがちょっと懐かしくなりました。ハッピーというより、清濁併せ持つ少々うさんくさい、ごった煮的なハレの場。それが日本の祭りのイメージではないでしょうか?

フィラデルフィアから見たサブプライム問題

   2008年10月16日発行 第0517号 論説
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■■■    日本国の研究           
■■■    不安との訣別/再生のカルテ
■■■                 編集長 猪瀬直樹
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        http://www.inose.gr.jp/mailmaga/index.html

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 今週のメールマガジンは元猪瀬直樹事務所スタッフであり、渡米1年を迎えた甲斐田雅子氏のレポートをお送りします。

 日本では、サブプライム問題に端を発した金融危機が、あたかもアメリカ全土を覆い尽くしているかのように報道されています。しかし本当にそうなのでしょうか?
 
 甲斐田氏のレポートには、画一的なイメージとは異なるアメリカの姿が描かれていました。

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「フィラデルフィアから見たサブプライム問題」
                       甲斐田雅子

 アメリカ東海岸の街、ペンシルベニア州フィラデルフィアに越してきてちょうど1年になる。国民が民主党のバラク・オバマと共和党のジョン・マケイン両候補の熾烈な大統領選に目を奪われている間に、サブプライムローン問題に端を発したアメリカの金融危機はじわじわとこの国を蝕んでいた。
 
 リーマン・ブラザーズの経営破綻を皮切りに雪崩を打って崩れ落ちたこの国の経済が、株価大暴落を始めどれほどまでに日本および国際社会に影響を与えたのかは、日々の報道でご存知の事だろう。
 
 そしてここフィラデルフィアに焦点を絞ってサブプライムローン問題を見た時に、なかなか興味深い事実が浮かび上がってきた。アメリカという一言でくくるには大きすぎる国の、ある姿をお伝えできればと思う。

■空き家が見当たらない!

 サブプライムローン問題の象徴としてテレビでよく流れる、買い手のつかない庭付き一戸建てがずらりと立ち並ぶという風景がここには見当たらない。

 私が住んでいるのはセンターシティと呼ばれるフィラデルフィアのダウンタウン。治安が悪いと聞いていたのでなるべく安全な場所に居を構えようと探し当てたのは築30年、37階建てのアパートメントビルディング。約80平方メートルの1ベッドルーム(ベッドルーム、リビング、キッチン、バスルーム)で家賃は1500ドル。東京に住む人の感覚からすれば安いのだろうが、アメリカ人の友人たちからは「なんであんなに家賃の高いところに住んでいるの。引越しなさいよ」と呆れられている。実際住んでみると恐れていたほどの治安の悪さで
はない。

 このビルディング、私は不動産屋が賃貸用に所有している部屋を借りているが、多くの居住者はコンドと呼ばれる日本で言うところの分譲マンションを購入している。富裕層のアメリカ人は子育てが終わり引退すると持ち家を手放し、こういったコンドに引越してくる傾向がある。雪かきやゴミ捨てといった面倒な作業から解放され、病院やスーパーマーケットに歩いて行ける距離の都心のコンド。ドアマンが24時間警備。建物内にスポーツジムもあり、大きなテラスで日光浴をすることもできる。老後の生活にはこれ以上とない素晴らしい環境
だ。実際、昨年居住者を対象に開かれたクリスマスパーティーに顔を出したとき、数十人いた参加者のほとんどが高齢者で驚いた。仕事を聞くと「リタイヤしているよ。昔は会社をやっていてね」とか「彼はペンシルベニア大学の経済学の教授だよ」と言うような返事ばかり。

 街を歩くと「APARTMENT FOR RENT」の看板が建物の外壁に吊るしてあるのをいたる所で目にする。コンドやタウンハウスを販売していますという「FOR SALE」の看板も。しかし決してその数が著しく増えたというわけではない。こういった光景は私が引越してきた頃からずっと変わらずである。

 新規のコンド建設も進んでいる。象徴的なものとして、ウィリアム・ペンの銅像が頂に立つ市庁舎のすぐ横で建設中の富裕層を対象にした44階建てのラグジュアリーなコンド「ザ・リッツカールトン」を挙げてみよう。24時間待機のドアマン、コンシェルジュ、ラウンジ、フィットネスクラブ、スパ、ベビーシッター、ハウスキーピングなど一流ホテル並みのサービスを提供。販売予定価格は45万ドルから。最上階の929平方メートルのペントハウスは1200万ドル。

■ ニューヨークからフィラデルフィアへ

 こういったコンドの建設ラッシュを支援したのが「10 YEAR TAX ABATEMENT」という減税プランである。以下はコンプライアンスにより社名を公開できないが、某大手銀行のシニア・クレジット・アナリストのデイビットの話によると、約10年前のフィラデルフィアの街は、現在と全く別の様相を呈していたそうだ。街の中心部での犯罪率も高く、住民の市街への流出が深刻化していた。
そこで市が取った対策が上記の10年間の固定資産税免除プランである。1997年にスタートしたこのプランは当初、他の業態からの居住用建物への変換をした物件を対象としていた。その後2000年に新築物件も対象となり、その甲斐あってフィラデルフィアに人々が戻ってきた。センターシティの人口は2000年の7万8000人から2005年には8万8000人へと増加。

 さらにフィラデルフィアの立地の良さもその要因に挙げられる。ニューヨークからアムトラックで1時間半。完全に通勤の射程圏内に入るこの街に、住宅バブルに沸き住宅価格が高騰するニューヨークを離れ、多くのビジネスパーソンが引越してきた。特にブルックリンやクイーンズ地域からの転居者が多く、今年2月12日付けの「週刊ニューヨーク・オブザーバー紙」のウェブサイト記事によると、2001年以来8334人のニューヨーカーがフィラデルフィアに越してきたとのこと。

 住宅バブルがピークを超えじわりと価格が下がってきた2007年末でも(家の形態が多少異なるので単純比較はできないが)フィラデルフィアの平均住宅価格は13万7500ドル。対するニューヨークはマンハッタンが85万ドル、クイーンズは46万ドル、ブルックリンは45万ドル、コンドの平均価格が66万5000ドルとその差は明らかだ。手に職を持った美容師など、ニューヨークでの仕事を辞めフィラデルフィアに引越してきてこの地で再就職する人も出てきた。

 この現象は街の中心部だけではない。フィラデルフィア美術館の周辺や、街の東を流れるデラウェア川に沿ってコンドの新設も進んだ。さらに川を北上したノーザン・リバティーエリアはかつて荒れた地域であったが今は整備され、古い町並みの美しいダウンタウンとは対照的に、日本でいうと品川あたりのウォーターフロントの風景に似ている。

■高騰も下落も見せない住宅価格

 そもそもサブプライム問題とは、優良顧客(プライム)向けではない、ローンの延滞履歴があるといった信用力の低い低所得者(サブ層)を対象にした住宅ローンからスタートした。最初の10年間などの指定期間は金利のみを支払うタイプの「インタレスト・オンリー・モーゲージ」や、当初の返済額が本来の利息部分よりも小さく、その差額が元本に加算されていく「ネガティブ・アモチゼーション・ローン」(返済額を上げない限り、年々元本が膨らんでいく)など巧妙に作られたローンの仕組みに引っかかってしまった購入者が、返済で
きなくなり不良債権化する。そしてローンを販売した銀行がまとめて証券会社に売却したものを、さらに証券化して投資家に販売していたので、住宅バブルがはじけた後、住宅の担保価値が低下したため現在のような金融危機にまで発展したのである。

 サブプライム問題には地域差と人種の差が大きい。影響が大きかったのはカリフォルニア、フロリダ、テキサス。2002年のCNNの調査によるとローン対象者となった低所得者層のうち黒人が白人の2.4倍、ヒスパニック系が1.4倍。メキシコに国境を接している、あるいはカリブ海をからの移民の多いこういった地域が大打撃を被った。

 全国的に住宅バブルが加速する中でもフィラデルフィアそしてペンシルベニア州の住宅価格はさほど高騰していない。1975年を100としたときの2006年の住宅指標はカリフォルニア州が1380と、ニューヨーク州が820と激しい上昇を示している中、ペンシルベニア州は556と2002年のニューヨーク州の価格をようやく追い越した程度である。前述のデイビットが、フィラデルフィアの経済はニューヨークの6か月遅れと言っていたがまさにその通り。さらに興味深いのがバブルがはじけたあとも価格が著しくは下がっていないということだ。フィラデルフィア連邦準備銀行が8月27日に発表した2008年第2四半期の住宅価格指標でも、第1四半期と比較して0.4パーセント下げているものの、前年度の同時期と比べると1.4パーセントで若干の上昇。全国平均がマイナス1.7パーセントと下落しているなか上昇とは驚きだ。
 
 だからアメリカは大きい、大きすぎる国であり、日本のニュース報道は一面的で、一色に染まりすぎていると思う。

■ 不況の余波

 ただ、不況の気配はじわじわと市民の生活に感じられるようになってきた。老後の年金資金を株や401Kで運用していた人々からは悲鳴が聞こえる。個人消費が落ち込み次々と店舗をたたむカーディーラーのニュース。デラウェア川沿いのコンドも今後は売れなくなるだろうという悲観的な予測が流れている。ウェルズ・ファーゴが買収するという話で決着がつきそうなワコビアは、ここ一帯で最大手の銀行だ。地元プロバスケットボールチームの「フィラデルフィア・セブンティシクサーズ」と、プロアイスホッケーチームの「フィラデルフィア・
フライヤーズ」の本拠地として知られる屋内競技場「ワコビア・センター」の名前もそろそろ変わるに違いない。

 アメリカはこれからハロウィン、サンクスギビングデーを経てクリスマスシーズンに突入する。1年で一番財布のひもが緩むと言われるこの時期だが、消費者心理も冷え込んできており今年はあまり期待できない。小売店の倒産、失業者の増加など本格的な不況の嵐が吹き荒れるのは年が明けてからになるだろう。

 今後ともフィラデルフィアから定点観測を続けリポートをお送りしていきたい。


☆上記の記事は作家の猪瀬直樹が毎週発行しているメールマガジンから、2008年10月16日号として配信されたものの転載です。彼のメールマガジンの配信を希望されるかたはこちらから。
http://inose.gr.jp/mailmaga/index.html

2008年11月27日木曜日

非営利クリスマスケーキ国際発注代行業務

つい最近日本への観光旅行から帰ってきた、アメリカ人の友人Rの話。数日間滞在したKさん家族のお宅で、大変お世話になったのでお礼がしたいと。某デパートメントでみたクリスマスケーキがあまりにも美味しそうだったから、それを彼らの自宅に配送してもらいたいんだ。送りたいのは日本のケーキ。支払いは僕がカードでする。受け取るのはKさん。それって可能かな?

うん。できると思うよ。もし助けが必要だったら言ってね。と気軽に返事をしたところ、結構ややこしいことに。

やっぱり助けて欲しい。インターネットでの注文方法がよく分からないや。というので再度彼と会い、日本から持ち帰ったケーキのカタログをチェック。ホテルオークラ製のそのケーキは、久しく日本のお菓子に触れていない私には目の毒。なんと繊細なデコレーション!きっと甘さも控えめに違いない。ああ、私が食べたいよ…。

「もしこれが完売だったら他のでもいいよ。とにかくイチゴがいっぱい乗っているのがいいんだ!」
「了解」

で、時差を考えてこっちは真夜中。日本はビジネスアワーに電話しましたよ。直接話した方が早いと思って。デパートのケーキ売場に繋がりカクカクシカジカ。美しい声で対応した女性は明らかに動揺している様子。まあイレギュラーなケースだものね。

「あのう、上の者と相談いたしませんと…そういうことはちょっと分かりかねます。折り返しお電話をいたしてもよろしいでしょうか?」
「ええと、折り返しと言いましてもこれ国際電話なんですよ。このまま待ちますから。ええ」

こんなところで逃げられてはたまらないので食い下がると、では、と数分間保留音。お電話代わりましたと出てきた「上の者」に再度説明。するとなんと,
海外からの注文は可能は可能なのだが、電話での注文は、そのデパートのカードじゃないと支払いができないんだと。もちろんRのカードはアメリカ製。でもVISAですよ。世界中で使えるでしょう?

ダメの一点張り。

やれやれ。

「あっそうだ。インターネットの申込フォームもありますよね。あちらからでしたらVISAでも可能でしょうか?」
「はい。インターネットでしたら大丈夫です」

うーん。そのくらい自分で思いついていただきたいものです。まあ仕方がないかと電話を切りネットに接続。RとKさんの連絡先や、カード番号を入力。申込フォームによると自宅への配送は取り扱っておらず、直接ケーキ売場まで取りにいかないといけないとのこと。お手数をおかけしてしまうなあ。私の名前を書くところはないので、メールアドレスのみ私のものにしておいて、送信。Rに、Kさんに連絡して24日にケーキ売場へ受け取りに行ってもらうように伝えてください、と頼む。

ところが数日後、ケーキ売場担当者からメールがきて、
「R様 K様。ご注文有り難うございます。お電話では自宅へ配送をご希望されていたと思うのですがいかがいたしましょう。送料が別途1050円かかり、さらに24日はいっぱいになってしまったので23日でしたら配達可能です」

とのこと。気が利くのは嬉しいのだが、またRに頼んでKさんに確認をとらないと。私、Kさんとは何の面識もないので…。そして23日の夕方Kさん宅へ配送していただくことに決定。と担当者にメールを返信する。ちなみに私、RでもKでもなく甲斐田って言うんですけどねって。

一件落着かと思いきや、またケーキ売場担当者からメールが。
「申し訳ございません。23日の配送は予定数に達したので締め切らせていただきました。22日に変更していただくか、あるいはケーキそのものを変更していただければ、25日の配送も可能です」

なんとまあ…。
少々イライラしてきたが、どうすることもできない。またRに連絡し、配送が22日になってもいいかとお伺いをたて、この際かまわないというので、これ以上変更がないことを祈りつつ再々度メールを送る。

まだ返事はない。
そろそろ、この非営利クリスマスケーキ国際発注代行業務から身を引きたいものである。

結論。日本のサービス業はきめが細かく、物腰の柔らかさは天下一品。インターネットから申し込んだ際、名乗らなかったにも関わらず、すぐに電話問い合わせをしたのと同人物だと気がついたあたりは非常に優秀。

だが、融通が効かない!!

2008年11月25日火曜日

音楽のある日常


昨日は古い町並みの残るオールドシティーエリアにあるOld Pine Street Churchで、フィラデルフィアオーケストラの室内楽コンサートを堪能してきました。日頃から感じている事ですが、オーケストラと市民の距離が本当に近い。こういったオケのメンバーによる室内楽のコンサートも教会等でよく開催されており、そのお値段もとてもリーズナブル。コンサート後にはワインを片手にメンバーと話すレセプションもあったりして、それがさして特別なことではなく、日常に音楽が溶け込んでいるというのが本当に素晴らしいと思います。

日本にもNHK交響楽団や水戸交響楽団など有名なオケはあるのですが何故だか敷居が高く、あと舶来モノのイメージがあるからでしょうか?海外オケの来日公演の方が格が上という印象が拭えず、そしてもちろんのこと様々な経費がかかっているため料金も高い。コストパフォーマンスを過度に期待して失望し、辛口のコメントを口にしてしまうという悪循環があるような。

いい演奏会でした。面白かったのが楽団員が自分で曲の紹介をすること。1735年製のストラディバリウスを手にしたバイオリストによる、クライスラーの『愛の喜び』( Liebesfreud)と『愛の悲しみ 』(Liebesleid)はため息が出るほど美しかったです。なんとクライスラー自身が使っていたバイオリンをレンタルしているんだとか。

また別の楽曲の演奏中にクラリネットのリードが詰まり音が出なくなり中断。「ごめんよ」と言って直してから再度スタート。そんなことも全て楽しいんですよね。ステンドグラスから差し込む光、それに反射して輝くハープ。至福のひとときでした。

そしてコンサート後、仲良くさせていただいているオケのピアニストと主席オーボエ奏者の方と一緒に素敵なレストランへ。どちらも本当に才能のある、通常でしたら雲の上の存在なのに、非常に気さくで若い日本人をかわいがって下さり、会うたびに話が盛り上がるのが嬉しい。気持ちよく酔っぱらいながらフレンチと美味しい会話に舌鼓。

この夏、彼らは日本を含むアジアツアーへ遠征していたのですが、中国でのエピソード。どのレストランへいっても「ご飯」が出てこない。頼んでも「ない」の一点張りで理由を教えてくれない。そして日本へ言った時になぜ米がないのかが判明。ちょうどオリンピック前で国をあげてその準備に取りかかっていたので、水の調達が大きな課題となっており、水を大量に使用する米作りは禁止になっていたんだとか。おかげで国中から米が消え、農家は仕事を失い大変なことに。

「中国は随分変わったよ。僕は20年間ツアーで見ているからね。最初に行った時は男性も女性も人民服を着ていて殺風景だったよ。そしてみんなもの至る所でタバコを吸っていたんだ。タバコ産業は国営だったからね。ところがぴたっとそれが無くなった。ある日突然、路上での喫煙が禁止になったんだね」

ちなみにオケが演奏を開始する前にチューニングをしますが、その最初の音をコンサートマスターの指示で出すのはオーボエなんですよね。彼がその担当。席によっては見えないけれど、でも音で彼の存在を感じる。ちょっとドキドキする瞬間です。

年末には是非我が家にお越し下さいな。大したものは作れないですけど、とお誘いしたら2人とも非常に喜んでくれました。じゃあ僕はワインを持っていくねと。今から楽しみです。

2008年11月11日火曜日

声優デビュー

世の中には本当に色んな仕事があるものだと。今日はなんと声優デビューをしてまいりました。アニメや映画ではありませんよ。世界中で利用されることを目的とした開発中の薬を治験をする際に、担当医がコンピューターや電話から問い合わせをした時に流れる日本語テープの録音。なんと20カ国以上もの言語に録音しているとのこと。

ネイティブの日本人女性。素人であることが条件でひょんなところから依頼がきまして、当日までの全てのやり取りとメールで済ませてしまい、担当者に会うのも今日が初めて。途中何度もこれで全てが嘘だったらどうしようと不安になりました。まあ事前に日本語の原稿がメールで着ていたし、実在する研究所であることは分かったので思い切ってトライ。ただ場所が遠かった。久々に6時起きをして電車とタクシーでトータル1時間半。フィラデルフィアのかなり北の郊外の、もう野生のガチョウが群れをなして歩いている以外何もないところにドーンと大きな医療研究所が。たどり着けただけでほぼ目的は達成したような感じ。

恐ろしく静まり返った殺風景な白いオフィスで私を出迎えたのは、紫色のスーツに身を包んだスペイン系の女性。説明もそこそこに早速レコーディングをしましょうと連れて行かれたのは聴覚検査でもするようなガラスケースの中。箱の外のコンピューターの前に座った彼女が「Go」という度にマイクに向かって

「入力した被験者IDはあなたの治験実施施設で無効です」
「この層別で無作為化できる被験者の数が最大に達しました」
「盲検の解除をしたい薬剤の番号を入力してください」

という自分でも何を言っているのかさっぱり分からないセリフを吐き続けました。一番長かったのは

「このオプションを選択すると盲検は解除されます。被験者が受け取る治験薬の種類を知ることで、その被験者の治療に影響が出る場合にのみ、被験者の盲検の解除をおこなってください。IXRSを使用して盲検の解除をする前に、可能な限り治験依頼担当者に連絡をしてください。一度盲検が解除されるとこの被験者は次回からの薬の割り付けができなくなりますのでご留意ください」

まあよく噛まずに言えたものだと(笑)。相手も日本語が分からないのでもうちょっと高めの声で言ってという以外には何の指示もなく、再録音の希望はこちらからの自己申告のみ。大丈夫なのかこれで?もちろん最後に全部聞き直してチェックはしましたが、自分の声を聞くのはあまり気持ちの良いものではありませんね。

さらに続いて基本的な単語のみのレコーディング。ひたすら例の「Go」のあとに「0」から「100」までの数字を言う。「1000」、「10000」といった大きな単位。曜日を言う。時刻・秒数を言う。「#」「*」「スペース」「小数点の『.』」等々。そして部屋を変えて今度は別の担当者によるこれらの言葉の組み合わせのチェック。よく電話問い合わせで自動音声システムが回答する、あれのようなものです。空港のフライトインフォメーションを想像してみてください。
「お探しのフライトはノースウェスト、1、0、4、8便ですね」というように大きなケタの数字がブチブチと切れて発音される。ああ、こうやって言葉を組み合わせていたんだと。先ほど「千」とか「億」とだけ言わされたのがここに反映していたことが判明しました。
「587993829」が「ご おく はっせん ななひゃく きゅうじゅう きゅう まん さんぜん はっぴゃく にじゅう きゅう 」

細切れにされてむりやり再構成された私の声には、もうまったく人間らしさの欠片もありません。「意味」の重みを嫌うあまり構造や既存の価値観の破壊に走った現代芸術の、さらにその上をいく感じでした。

そして最後に「1st」「2nd」「3rd」といった序数を日本語ではどう表現するのかと聞かれ、まあ何を数えるかによるけど基本的には数字のあとに「番」(ばん)をつければ大丈夫と回答したところ、じゃあその「番」だけもう一回録音してきてと言われてしまいました。例のガラスケースに戻り一言

「ばん」

はい終了。まるで「ワン」と吠えているかのようで、しばらく笑いがとまりませんでした。休みなしで4時間ぶっつづけですよ。そして最後は「ばん」。
いやあ、いい勉強になりました。

帰りのタクシーを呼んでもらい駅についたら電車は1時間後。駅の周りにはレストランもカフェもなにもなく、ひらすら凍えながらひとりホームで電車待ちました。今夜はよく眠れそうです。それにしてもいったいどんな方が私の日本語ガイドを聞きながら治験に励まれるのでしょうね。

2008年11月10日月曜日

日本的社会の逆洗礼

例のASN(米国腎臓学会)の派生的な会議兼意見交換パーティーのお手伝いのお仕事を先日してまいりました。製薬会社さんが主催となって日本人のドクターたちを接待するのが主な目的。私の仕事は受付や会場でのご案内、立食パーティー会場でのアシスト、お帰りのお車の手配等。いやあ、久々に日本社会の洗礼を受けましたね。

まずは代理店の社長直々のスタッフへのご挨拶。
「我々の会社のモットーは『気配り、目配り、サービス業です』。規模は小さくとも日本一のサービスを提供していると自負しております」
ううううっ、久々に聞いたぞ!気配り、目配り。そして大切なのは「笑顔」。日本のサービス業ってそうだったわと身の引き締まる思い。私も転職が多く、サービス業も経験したことがあるので、脳の中にしまっておいたタンスの扉を開けてぱんぱんと埃を払って、にっこり。できた!そうそうこの微笑みよ。アメリがでガハガハ口を開けて笑ってるから、ちょっと錆び付いたかと思っていたわ。

そして姿勢正しく立ち、指先まで神経を行き届かせ、お話をうかがう時は軽く頷きながら真摯な瞳でお顔を拝見。決して相手の目を穴のあくほど見つめてはいけない。だって偉い先生方ですもの。高いサービスは受けて当然と思っていらっしゃるわ。

そして先生方のご到着。50人もいらっしゃれば大満足と思っていたのに、なんと100人以上お越しになり代理店の皆さんもピリピリムードに。会場に急遽追加で椅子を入れたり、立食パーティーでのお食事を追加したり目が回るほどの忙しさ。

そして悲しい!と思ってしまうのが、きっと自分も日本では同じように振る舞っていた「軽く無視する」人々。悪気はないのです。よく分かっています。でも何かをして差し上げたら目を見て笑顔で「Thank you」が当たり前のアメリカにいると、壁を見るかのような目で「ああ分かった」と言う風に顎を少し動かしてそのまま素通りされてしまうとショックなんですよねえ。これが。

もちろん中には丁寧にお礼を言って下さる方や、雑談にいらっしゃる方もいらして、そんな時は本当に嬉しかったです。日本語で会話する事自体少ないですからね。

名簿を見ながら出席者のチェック。北は北海道から南は九州まで、本当に色んな場所からここフィラデルフィアに集結されたんだなあと不思議な感動に包まれました。

全てのお客様がお帰りになられて、余った寿司をつまみながら一息。先ほどの社長。さすが「気配り」がモットーだけあって、我々現地日本人スタッフのためにとらやの一口サイズの羊羹と、美味しい日本茶の差し入れも持ってきて下さっていました。美味しい。さすが日本のお菓子はデリケートで奥が深いなあ。とふと谷崎潤一郎の『陰翳礼讃 』のくだりを思い出しました。

「だがその羊羹の色合いも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへと沈めると、ひとしお瞑想的になる。人はあの冷たく滑かなものを口中へふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くはない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う」

そんな耽美的な世界観を愛してやまなかった時期もあるのに、いま私にその繊細さは残っているのかしら。アメリカナイズされた雑な人間になってしまっていないかしら。

とまあ、色々と逆カルチャーショックを感じた日でございました。

2008年11月8日土曜日

空港にて

フィラデルフィアではいま、ASN(The American Society of Nephrology :米国腎臓学会)という大きな学会が開催されています。世界各国から集まった関係者が首から学会のネームタグを下げ、同じ学会マークの入ったショルダーバッグを持って街を歩いているのをよく目にします。もともとアカデミックな街ですが、さらにその雰囲気が高まり人口も一度に増えて、なんだかわくわくしてきます。

日本からも約500名のドクターたちが到着。こういうときに重宝するのが現地在住の日本人。ということで私にもお声がかかり、お小遣い稼ぎに奔走。ここ数日様々なお仕事が入っているのですが、一昨日は日本からお越しになった17名のグループを空港からホテルまでお連れする任務を引き受け、まあ無難にこなしてまいりました。ただ久しぶりに日本語の敬語を使うと舌が回らなくなっているのに気がつきヒヤヒヤ。あと先に英語の単語が出てくるのに日本語でどういうのか分からない場合もあり、このまま行くと日本語も英語もアヤシい人になってしまうと、ちょっと危機感が。

空港でお客様をお待ちしていたときの話。突然、黒人の係員の男性に
「あんた日本語話せるの?」
と話しかけられ、できるよと答えたところ
「あそこを歩いている男性が困っているから助けてあげて!」
と。
「どの人よ?」
「いやもう随分先まで行っちゃったけどあのシルバーの鞄を下げている人さ」
まわりのお客さんもあの人だよと教えてくれ、よく分からないままダッシュ。追いついて
「あの、日本人の方ですか?なにかお困りと聞いたのですが」
と非常に唐突な質問をしてしまいました。結局ご友人のご到着の便を待つのをやめて先にセンターシティまで行こうとしている同学会の関係者の方であることが分かり、電車内での切符の買い方がお分かりにならなかっただけだったので、簡単にご説明して終わり。戻ったところ例の黒人のおじさんに「会えたかい?」と聞かれたので両手で大きく「マル」。「Thank you!」「No problem at all!」

まだ飛行機が到着しないので、ベンチに腰掛けて待つ事に。大きなカートを脚で支えながら、隣に座っていたでっぷりとした白人の初老の男性と世間話。
「誰を待っているの?」
「奥さんだよ。フィリピン人でね、国に帰っちゃって2ケ月も帰ってこなかったんだ。信じられるかい。2ケ月だよ。あんたの旦那が2ケ月も帰ってこなかったらどう思う?」
「いや、別にお金さえ置いていってくれたら気にしないよ。毎日遊んで暮らすわ」
「そんなもんかねえ。これから車でデラウェア州の家まで連れて帰るんだ」
「デラウェア州と言えば、ジョー・バイデンじゃない。オバマ勝ったね」
「ああ、そうだね」

(露骨に嫌な顔をしたので、この人は共和党支持者だろうと踏んでこれ以上深入りしない事に。やはり太った白人男性は共和党支持者が多いのだろうか?)

「あんたは誰を待っているのさ」
「日本から17名。ASNの学会関係者の方が来るから、ホテルまでお連れするのよ」
「そうかい。俺も昔海軍で日本にいたんだよ。三沢基地とか横須賀とか行ったねえ。3年くらいいたよ」
「どのくらい前の話なの?」
「そこで子供が生まれたから約21年前かな。それから日本も変わったんだろうね。あれっきり行っていないよ」

(遠い目をする彼。日本語はほとんど覚えていないとのこと。そして唐突に)

「やっぱりお辞儀(bow)するんだろう。あんたお客さんに会ったら」
そうか。日本人のイメージというのは挨拶時にペコペコお辞儀をするというものなのか。

そしてお客様ご到着。私がお辞儀をしながらご案内しているのを、「ほら」という顔で観察している彼。その彼の元にも同じ便で到着したフィリピン人妻登場。明らかに彼より若かい。再婚かな?むっちりとした、あまり育ちのよくなさそうな不満げな顔の女性でした。

空港からホテルまでバスで送迎したドライバーはカンボジア人の男性。初めて一緒に仕事をしたのですが、彼のカンボジア訛の英語が非常に聞き取りづらく、28年もアメリカにいるというのにこんなにも抜けないものかしらと驚きました。非常に親切で協力的なドライバーだったので仕事はスムーズに終了。

そしてそのあとボスから聞きました。彼はカンボジアでは兵士で何人も人を殺してきたのだと。それが嫌でアメリカに逃げてきた。
「彼は優秀でね。うちのワン オブ ザ ベスト ドライバーの1人だよ。ハハハ…。でも心の中にはそういう闇があるんだよ」

2008年11月4日火曜日

『9.11のジャスミン』11月4日発売!


2001年9月11日の朝。アメリカのみならず世界中を震撼させた同時多発テロ事件のその瞬間に、ワールドトレードセンターと目と鼻の先で人生が変わる体験をした日本人女性がいた。

遠藤明子さん。ニューヨーク生活25年。華やかなファッション業界で商品企画・新規事業・ブランド事業開発に携わり、海外で活躍する日本人キャリアウーマンの先駆けとなった遠藤さん。順風満帆だった日々が轟音と共に崩れ落ちたその日、惨劇の現場近くのレジデンスの住民だった遠藤さんは、18階から黒煙が立ちこめる非常階段を、「ステップ・バイ・ステップ」とかけ声をかけながら、同じく取り残された隣人たちと降りてきた。命からがら逃げ出した彼女が目の当たりにしたのは悲しみを乗越え必死に助け合う人々の姿。私は生かされている。私も何か自分にもできることしなければ、その時遠藤さんの脳裏をよぎったのが、その勇気のため多くの命が犠牲となった消防士たちのことだった。彼らが勤めていた消防署の訪問し夜食の差し入れをしてまわる。感謝されてさらに感謝する、そんな日々が続いた。

もう以前の利益追求型の世界には戻れないと悟った遠藤さんが、魂の休息場所を求め目指したのがタイ、そしてカンボジア。そこで裸電球の下を親子が仲睦まじくジャスミンの花輪を持って近所の寺にお参りに行く姿を見て、この小さな単位を大切にしてあげたいという人間の原点に戻る。「大きな事を言えば世界平和だけど、足下のこの家族。この人たちを大事にしないといけないと思いました」。

テロ事件の被災者の告白ではあるものの、そこには惨たらしさや憎しみはいっさいない。むしろ極限状態でより輝く人間の素晴らしさと、その経験をバネに新たな人生を歩み始めた女性の希望の書である。本書はタイトルを『9.11のジャスミン』とし、朝日クリエより11月4日に一斉発売。

購入はwww.asahi-create.jp, www.amazon.co.jp, www.bk1.jp, www.bookservice.co.jp
また日本全国の La Lumpiniを取り扱っているレージースザンの店でも購入可能。
NYでは紀伊国屋での取り寄せ。あるいはmiekosoumi@aol.comまで個人での申し込みも可能。

日本での価格は1300円+消費税

☆上記の文章はニューヨークで発行されている日本人向け新聞『週刊NY生活』に筆者が寄稿した書評に手を加えたものです。

2008年11月3日月曜日

舞踏でハロウィンパーティの巻






















人生初のハロウィンパーティへ行ってまいりました。もうあまり宗教的な意味合いはなく、単に仮装して騒ぎましょうというお祭りになっているハロウィン。以前にも紹介した「舞踏ショー」で受付のボランティアをすることになったので、無料で潜入。仮装してくるように言われていたのですが、街で売られている衣装があまりに安っぽく異常に露出度が高いので、自前のヒョウ柄のドレスに猫の耳だけをつけて行く事に。一緒に受付をしたSは黒子の衣装なのに、しっかりとメイクをしていて元々の作りがいいので恐ろしいくらいにきれいでした。そして友人のCは事前予告通りブドウの房を表現したコスチュームを、風船を膨らませて自分で作って着てきました。

会場となったのはあまり治安の良くないノースフィラデルフィアの小さな劇場。今時下北沢でもこんなボロい劇場はないだろうというくらい汚い、廃墟のような場所でした。崩れた壁からは鉄骨や配線、そしてアスベストでしょうという様なものまで表出しており、階段の手すりは壊れ、木製の床はギシギシ言い、ハロウィンにはぴったりの不気味さ(笑)。

50人くらいの観客は各々工夫をこらしたコスチュームを身にまとっていましたが、さすがハロウィンの日にわざわざ「舞踏」を見に来るインテリ(?)さんたち。いわゆるワンダーウーマンや白雪姫、今年はやりというサラ・ペイリンといった衣装の人は1人もいませんでした。

受付を済ませてから忍び足で参加した「舞踏」ショー。局部を隠した以外は男女ともに全裸に白塗りの、どこか懐かしい風景。しかし最後に登場した振付家の桂勘(かつらかん)氏以外はみな地元のダンスシアターのダンサーたちで、その形の良い胸やしまった肉体美に目が釘付けになってしまいました。「水俣病」をテーマにしたショーは、公害により汚染された水から発病した魚、それを食べた猫、鶏、カエル、人へと「狂い踊り」が転移して行く様が表現されていきます。

裸なのに皮膚を覆い尽くした白い塗料によって、呼吸が苦しくなるような感覚が与えられます。淡い光で際立つのは瞳と口内の濡れた暗闇。泥臭さと重苦しさ。粘液質的な気持ち悪さ、それにアメリカらしくカラッとしたユーモアも交えて、海外でのワークショップを重ねて「舞踏」の新境地を探る桂氏の創作意欲がよく伝わってきました。

表現者というのは評価がどうだからとか、社会的な価値があるからという外的要因ではなく、取り憑かれるようにその世界に身をねじ込んで行く。その先の光を求めて行く。そういう風にしか生きられない人々なのではないかしら、とふと思いました。私にとって「舞踏」とは、なかなか感性をぴたっと合わせて愛せる表現形態ではないのですが、ただその異質さをそのままに見つめるというのも、ひと時であれば許容可能なのだと気がつきました。

ショーの後、桂勘氏と話すチャンスがありなかなか興味深かったです。私が知りたかったのははじめに「型」ありきなのか、それとも感情の表出としての舞踏で、ある程度は即興性に任せられているのかということだったのですが、その質問を当を得ていたようで喜んでもらえました。彼に寄ると「舞踏」もその二つに大きく分かれていったそうです。創始者の土方巽はあくまで「型」を重視し、型を極めれば自ずとそこに魂が宿ると考え、そうではなく感情の表出を重んじた人々は大野一雄らを中心に違う道を歩んでいったとのこと。

また自ら舞うことを好む人と、演出家・振付師として空間を作り上げる方を好む人に分かれ、桂勘氏はどちらかという振付師としての自分の立場を重視していて、このように世界各国を回ってワークショップによって出会うダンサーたちの、身体的なポテンシャルにインスピレーションを得ているそうです。今回のショーも振付け指導をしたのはたったの4日間。それであれだけの世界観が表現できるなら大したものだと思いました。

京都出身。舞踏グループの白虎社のメンバーから独立し、タイやインドネシアで長年指導をしたあと、こうして世界を回って表現の可能性を求めて旅をしている。
「表現し続けることは大変ですよね」
と聞いたところにっこりと笑って
「いろんな出会いがあるから楽しいですよ。本当はね、今回なんかも暗く重くしないように笑いの部分も随分取り入れたんですが、フィラデルフィアの観客のみなさんはインテリが多いですね。あまり笑わない。アメリカでも州によって反応が違うんですよ」

最近はサミュエル・ベケットに影響を受けた作品を手がけているとのこと。ううん、見たいような見たくないような(笑)。観客が精神的に疲れる内容になっているに違いない。

そしてそのあとは一気にパーティーモードに突入し、安いビールを片手にギシギシ言う床を踏みしめて夜中まで踊ったのでした。

フィリーズ優勝パレード



フィラデルフィア・フィリーズの28年ぶりの優勝に湧くフィラデルフィア。優勝すると思われた日に、同点に追いつかれてた時点でどしゃぶりで中止。もうこれ以上ないくらいにファンのフラストレーションは溜まっていたようです。翌々日に行われた試合の続きでは1点を入れ、追いつかれ、そしてもう1点を返して優勝。そしてフィラデルフィアの街は暴徒と化したファンによって、ちょっと危険な状態に。窓ガラスを割ったり、道路標識を壊したりやりたい放題で逮捕者も続出しました。テレビで中継を見ていると、チームカラーの赤い服を着た人の波で溢れた深夜の目抜き通りは、まるで溶岩が流れているような気味の悪い風景。

そしてハロウィンの10月30日、正午に始まった優勝パレードにはまたまた恐ろしい数の市民が集まりました。学校も一部休みになり、職場に子供を連れてきてからいったん仕事を抜け出して見に行った人も。場所取りのため朝早い時間から集まった人々も多く、始まる前から街は興奮状態に。あまりの人手でパレードの通りに出る事もできないので、近くのビルで仕事をしている友人に頼み入れてもらい上階から見下ろして見てきました。真っ赤に染まった街を見て友人はボソリ「共産国みたい」。

地元フィリーズの優勝、そして11月4日には大統領選挙、あっという間にサンクスギビングデーにクリスマス。そしてどうなるこの金融危機。怒濤のように過ぎて行く日々です。ハレの日はいつまでも続くものではありませんが、でもここフィラデルフィアの狂乱はしばらく収まりそうにありません。

2008年10月27日月曜日

Sudoku National Championship


10月25日(土)にフィラデルフィアのコンベンション・センターで開催された「Sudoku National Championship」には、アメリカ全土から 700人以上の挑戦者が参加した。

3個×3個のブロックに区切られた 9個×9個の正方形の枠内に1〜9までの数字を入れるペンシルパズル「数独」。本国より先に海外で人気に火がついた「数独」は「SUDOKU」の名前で親しまれ、書店にはずらりと専門誌が並び愛好者も年々増えている。

今回の大会は初級者、中級者、上級者などのレベル別に、賞金は100ドルから10000ドル。 10000ドルの賞金を獲得した優勝者は、「Wei-Hwa Huang 」というカリフォルニア出身の33歳のソフトウェア・エンジニア。世界パズル選手権で4回優勝したことでも知られる彼は、今年の夏までGoogleの社員で仕事上でもパズル作成プロジェクトを手がけていた。今後アメリカ代表チームに参加し、2009年にスロバキアで開催される 「第4回 World Sudoku Championship 」へ出場することになっている。

また開会式には「数独」の名付け親である株式会社ニコリ代表取締役社長・鍜治真起氏も駆けつけ、地元MLBチームで現在ワールドシリーズで優勝争い中のフィラデルフィア・フィリーズのキャップを被り登場。自身初めてという英語でのスピーチを披露した。「数字は独身に限る(1桁の数字しか使えない)」を短縮したのが「数独」の名前の由来だと語り、またそれは自身が既婚者であった事への後悔の念からではないとの冗談を交えた話で、会場を埋め尽くしたファンから割れんばかりの拍手喝采を浴びていた。

2008年10月23日木曜日

アレックスとの出会い

昨日は終日、フィラデルフィア日米協会主催の「フィラデルフィアージャパン健康科学ダイアローグ」のボランティアとして働きました。米国の製薬会社がメインのスポンサーとなった学会で、テーマは『ワクチンー新たなる進路』。「ワクチン」は英語で言うと「Vaccine」。発音は「ヴァクシーン」(爆進??)となるので、最初に聞いた時はかなり驚きました。それも「ヴァ」にかなりのアクセントを置くので。

午前7時に会場集合。学会の受付・案内。質疑応答タイムにはマイクを持って走り回り、さっぱり分からないまま「ヴァクシーン」について耳を傾ける。日本からもゲストスピーカーが3人。パネル発表の方等も入れると20人くらいいらっしゃいました。大学の研究室や製薬会社、厚生省、インディペンデントの研究者から、ジャーナリストまで。

全てお開きになったあと、参加者やスタッフらで打ち上げパーティーへ。そこに後から登場したのがアレックス。彼は感染症や癌に効果のあるワクチンを開発するバイオ会社の創設者兼CEO。ルチアーノ・パヴァロッティを思わせる風貌と恰幅の良さ。ヨーロッパ系の訛のある英語でユーモアたっぷりに話す彼は、学会中から異彩を放っており、他の研究者が一目を置いているのも伝わってきます。門外漢の私にとって学会は時として意識が飛びそうなほど退屈な時間でしたが、彼の発表の時だけ(内容が分からないにも関わらず)まるでコメディーを見ているような面白さでした。どうやったら人の興味を引き付けられるか、よく分かっているのですね。

パーティーで話すうちに意気投合。見ているだけで吹き出してしまいそうなウインク猛攻撃にあい、そして

「まだ君と話したい。家まで送るからどこかのバーへ行こう。それが無理なら明日の昼にニューヨークで会議があるのだが、その時間を遅らせるから一緒に朝ご飯でも食べたい」と誘われ、一晩明けると面倒なのでそのまま我が家の正面のバーで、なんとも健全なことに2人ともホットティーを飲みながら語り合いました。

そして、ひょうきんな表情に隠された彼の人生は凄まじいものがありました。ソ連出身のユダヤ人。15歳から分子科学に興味を持ち研究室で働く。大学も卒業。だが彼は当時のソ連を覆っていたコミュニズムを心から憎んでおり、とうとうソ連崩壊のその年に24歳でパリへ逃げ出す。しかし生きていくあてはなにもなくホームレスに。冷たいベンチで夜を過ごす日々。

「そこで『ピーン』と来たんだよ。俺は高い教育を受けてここまで生きてきたが、今の俺はそこにいる他のホームレスと何も変わらじゃないか!」
その後ユダヤ人のとある組織に拾われイスラエルへ。

「そこで温かいシャワーを浴びて、きれいなシーツの敷かれたベッドに寝たときが、人生で一番幸せだったんだよ。そのあと俺は会社を作り成功していくけれど、あのときの幸せは今よりもずっとずっと大きかったんだ。もうホームレスに戻らなくって良いんだってね。幸せなんてお金を設けることじゃないんだよ。俺にとって、本当の幸せを感じられたのはその一瞬だけだった。温かいシャワーと、きれいなシーツのベッド」

そしてその後アメリカに渡り、ハーバード大学で学び、ボストンでバイオベンチャーを起業。デンマークの大学のライフサイエンス学の教授でもあり、ビジネス本を執筆する作家でもある。今の国籍はアメリカ人。

彼の人生から始まった会話はその後多方面に広がり、お互いの家族の話、ジャン・ジャック・ルソーからミース・ファンデルローエ。ウィリアム・ペンからユダヤ教、日米の文化や国民性の比較、アメリカと「自由」について、大統領選、そして昨今の不況、と気がついたら午前1時になってしまい、そこで終了することにしました。「明日車でニューヨークシティへ行くけど、一緒に行くかい」と誘われましたが、さすがにそれはお断りして、また連絡を取り合いましょうと約束。君に会えて良かったと非常に紳士的に握手をして帰っていきました。

もう少し彼がハンサムでお互い独身だったら恋にでも落ちたのでしょうが、でも逆にそうじゃなかったから面白い会話ができた。フィラデルフィアの小さなバーで、ティーバッグを放り込んだだけのホットティーを啜った夜は、たぶん一生忘れないでしょう。

2008年10月17日金曜日

Go Phillies!!


昨夜、フィラデルフィア・フィリーズはロサンゼルス・ドジャースを5−1で下し、1993年以来15年ぶりにナショナル・リーグで優勝しワールドシリーズへの切符を手にしました!その瞬間から街は大騒ぎになり、クラクションと奇声に溢れ、上半身裸で走り回る男性たちなど狂乱の渦に。暴徒化すると怖いので外には出ずにテレビで見ていただけですが、実況と外からの音だけで十分参加している気分でした。関西に住んだ事がないので分からないのですが、阪神が優勝したらこんな感じではないかというめちゃめちゃぶりで、夜中の3時近くまでお祭り騒ぎは続きました。

先に4勝した方がワールドシリーズに行けるのですが、すでにフィラデルフィアで2勝、ロスでも1勝1敗で、昨夜優勝を持ち越してもホームに戻ってきたら赤い応援団が意地でも15年間のフラストレーションを晴らそうと待ち構えていたでしょうから、さほど心配はしていなかったのですが、やはりゲームがスタートすると見てしまいますね。

実はオバマとマケインの最後のディベートと時間帯が重なっていたのですが、そちらのことはすっかり忘れておりました。ごめんねオバマ。応援しているんだけどね。でも多分、フィラデルフィアでディベートを真面目に見ていた人の方が少なかったと思うよ。

面白いのが実況を見ていて、アメリカって大きな国だなあと実感することですね。ロスとフィラデルフィアでは時差が3時間。試合開始がこちらが夜の8時でもう真っ暗なのに、ロスは5時。まだ明るくって夕日がきれいなのが同じ国にいるとは思えない感覚。

ゲームは相手のエラーが相次ぎ、面白いように点が入っていきます。基本的にホームグラウンドには地元ファンしかいません。チームカラーの青に染まったスタジアムが徐々に悲観的なムードになりながらも、たった1点を返しただけで割れんばかりの拍手喝采になるのが痛々しかった。

でも明日は我が身ですからね。アメリカン・リーグの方はタンパベイ・レイズが松坂のいるボストン・レッドソックスを3−1でリードしており(それも4戦目は13−4で圧勝)王手をかけています。このレイズが強くて強くて、フィリーズがこのまま優勝できるかには不安が…。フィリーズがワールドシリーズに出場するのは1993年以来ですが、その時はトロント・ブルージェイズに4-1で負けています。優勝したのは1980年の一回こっきり。もし優勝すれば28年ぶり!!!WOW!

そして、フィラデルフィアの中央にある市庁舎の頂上から街を見下ろすウィリアム・ペンの銅像に、フィリーズのキャップを被せることになっているんですよ。もう巨大なキャップをニュースで見たので、このままワールドシリーズで勝とうが負けようが被せてしまうにちがいありません。それって中日が優勝したら金の鯱にドラゴンズのキャップを被せるような感覚ですよね。多分尾っぽの方になるのでしょうが。うーん、早く見たい。ちなみに今日確認しにいったところまだ被っていませんでした。

2008年10月16日木曜日

ハロウィンと暗黒舞踏




最近仲良しのCとのチャット。

C「ねえ、雅子はハロウィンの予定はなにかあるの?」

私「25日に友人たちを家に招く事にしちゃったけど、でも31日のハロウィン当日には予定はないんだよね。Cは?」

C「僕も予定なし。だいたい生まれてこのかたハロウィンパーティーに出た事がないんだよ」

私「本当に?アメリカ人ってみんなハロウィンの時期にはパーティーするんだって思っていたよ」

C「普通するんだよ。ただ僕が"loser"(負け犬)なだけさ」

私「いやいや」(そんな事言ってるけどこの人、シャイなだけで結構イケメンなんですよ。かわいい彼女だっているし)

C「ちょっと待って!そういえばこんなイベントがあったよ」

送られてきたホームページは「Butoh Dance: Curious Fish by Katsura Kan / Halloween Party」(初代暗黒舞踏の流れを汲み、白虎社にも所属していた舞踏家の桂勘(かつらかん)氏の振付け・演出によるパフォーマンスが繰り広げられるハロウィンパーティ。会場はスワスモア大学)。

タイトルの「Curious Fish」とは水俣病の水銀中毒に冒された魚、そしてそれを食べた猫や犬そして人間までもが死の舞踏(DEATH DANCE)を踊り続けたところからインスピレーションを得ており、亡くなった者たちへのレクイエムと、しかし決して希望は忘れてはいないという踊り、なんですって。

私「舞踏!?ハロウィンに?」

C「これクールだよね。」

私「えっ行くつもりなの?これテーマが水俣病だよ!」

C「うん、雅子は行かないの?」

私「ええと、行ってもいいけどほら、ハロウィンパーティだから仮装してくるようにって書いてあるよ。私コスチューム持っていないんだけど」

C「僕も持っていないけど作るつもりさ」

私「作るってどんなコスチュームを?」

C「いろいろ考えたけど最終的に『葡萄の房』(a bunch of grapes)になるつもりさ。僕はいつも『葡萄の房』になりたいと思っていたんだ!」

私「葡萄……?」
(この辺りが日本人のコスプレの意識と全く違うなあと思いますね。アニメや映画のキャラクターになりきるというのももちろんあるのですが、葡萄やリンゴバナナといった顔出しタイプの着ぐるみも人気があるようです。でもなぜ葡萄に??)

C「そう。風船を体にくっつけたら葡萄みたいになるかな」

私「ブドウでブトウに行くの?あっこれダジャレのつもりよ」

C「hahahaha」(そして会話は終わってしまいました)

アメリカ、ハロウィン、暗黒舞踏、テーマは水俣病、そこへ参加するアメリカ人は葡萄の格好。シュールもシュールもいいところですね。私、このパーティーに行くのかしら?そして何を着るのでしょう。

もしご興味あるようでしたら、イベントの案内はこちらからご覧ください。
http://jasgp.org/component/option,com_events/task,view_detail/agid,413/year,2008/month,10/day,31/Itemid,176/

2008年10月11日土曜日

Red October!



日本のプロ野球セ・リーグは巨人が阪神を下し優勝したとのことですが、こちらアメリカでは地元フィラデルフィア・フィリーズが、15年ぶりにナショナル・リーグ・チャンピオンシップに出場し、さらに昨夜ロサンゼルス・ドジャースとの初戦を制したため、多いに盛り上がっている最中です。

チームカラーの赤と映画のタイトルを引っかけ「レッド・オクトーバー」と名付け、連日市民の熱狂ぶりを伝える地元のテレビ局「FOX29」。確かにホームグラウンドのシチズンズ・バンク・パークは満員の観客で真っ赤に染まっていました。

面白いもので日本にいるときは野球に全く興味がなく、せっかく東京ドームのバックネット裏の席をいただいたのに試合中に爆睡するという失態を犯した私ですが、こちらでは選手の名前まで覚えるほどベースボールファンになってきました。人気選手はライアン・ハワード、チェイス・アトリー、ジミー・ロリンズ、パット・バレルあたり。私のお気に入りはちょっと潰れたような鼻がキュートな黒人選手ハワード。笑顔が素敵です。女性ファンが多いのはイケメンのアトリーのようですが。

日本人選手は田口壮外野手と、サンディエゴ・パドレスを解雇されて戻ってきた井口資仁二塁手がいます。井口選手の入団はプレイオフ出場選手登録期限後だったため今期は出場できませんが、田口選手は昨夜出ていましたね。

フィリーズの監督チャーリー・マニエルは、70年代後半から80年代初頭にかけて日本プロ野球のヤクルトスワローズと近鉄バッファローズにいたということを最近知りました。往年のファンの間では有名な話でしょうね。そして今朝勝利の喜びと同時に悲報が。彼の母親が亡くなったそうです。ご冥福をお祈りします

対するドジャースには斎藤隆投手がいますが、ナ・リーグ優勝決定シリーズの出場選手登録から外れたようです。残念。でもメジャーリーグで日本人選手を見るのはもうあまり珍しくなくなってきましたね。

さて、今夜の2戦目はどうなりますでしょうか?このまま勝ち進んでワールドシリーズで松坂大輔のいるボストン・レッドソックスと対戦するといいなあ、と願っています。そうなったらますます真っ赤な秋になることでしょう!

2008年10月10日金曜日

皇居のお堀事件

7日に皇居のお堀に全裸で飛び込んで泳いだイギリス人が逮捕、されなかったそうですね。精神状態がおかしいということで入院。

このニュースはCNNで昨夜見ました。そして目が点になったのが刺又(さすまた)というのでしょうか。先が割れた器具で彼を取り押さえようとしているへっぴり腰の警察官の姿。アメリカだったらすぐにピストルを出して「手を上げろ」、逃げた瞬間に射殺でおしまいではないかしら。散々逃げられて取り押さえるまでに時間がかかったようですね。裸に見えて口の中に爆発物を持っていて吐き出して投げつけられたらどうするんでしょう?危機意識の低さと、その後の対応の仕方に呆れてしまいました。こりゃ、平和ぼけと言われても仕方がないですね。

そしてFNNのサイトから日本で放送されたニュースを見てだんだんと怒りがわいてきました。まず街頭インタビューの一般人はなぜヘラヘラ笑っているのでしょう。笑い事ではないでしょう。テロかもしれないのに。テレビに出られて嬉しいな、というくらいにしか思っていないのでしょうか?

それと識者コメントでなぜデーブ・スペクターが出てくる!そして笑いを取ろうと「"皇居"と"公共"を間違えていたって言えば言い訳になりますね」と、くだらない冗談を言っているではありませんか。彼にコメントを求める必要は本当にあったのでしょう?日頃番組に起用している外国人タレントだからという、なあなあの理由で採用されたに違いありません。国籍も違うし、だいたい彼はシカゴ出身です。もしアメリカを代表して意見を言うのであれば、どんなに日本が危機意識のない、たるんだ国であるかビシッと指摘するチャンスだったのに。

フィラデルフィアではここ最近警察官が相次いで射殺され大問題になりました。それも犯人が8月に仮釈放されたばっかりだったため裁判所への非難が集中。テレビでは教会で執り行なわれたパット・マクドナルドの葬儀の模様をそのまま生中継し、物凄い人数の警察官が参列。マイケル・ナッター市長も挨拶していました。警察権力を誇示する狙いと思われます。

マクドナルドと共に現場にいて重傷を負ったものの命はとりとめた警察官リチャード・ボウズが10月1日。松葉杖をついて地元メジャーリーグチームのフィリーズの始球式に参加しました。きれいな弧を描いてキャッチャーミットに落ちたボールに満員の観衆はどよめき、惜しみない拍手を送ります。その後のインタビューでリチャードはこう言っていました。

"The real hero in this is Pat McDonald and I just want everyone to continue praying for Pat and his family so that they can get through this in their time of need,"

不覚にも目頭が熱くなりました。傷が癒えたら彼は再びハイウェイパトロールの仕事に戻るそうです。

2008年10月8日水曜日

政治的勧誘に遭うの巻

CNNの数時間に渡る経済ニュースを見て頭が痛くなったので、トレーダージョーへ買い物へ行く事にした。(暇だからではない。これも仕事の一環)今日は卵と牛乳は買わないと。アンチョビもあるといいなあ。

あれもこれも買ってしまいエコバッグをパンパンにさせて店を出ると、そこにはCNNでしつこいほど流れていた「Bailout」(アメリカ金融システムへの政治的救済策)に反対する横断幕を掲げたテーブルが。ポールソン財務長官は嘘つきだとも。うかつにもよろよろと近づいてしまった。

声をかけてきたのは2人いた方の、風にそよぐ産毛が顔中を覆う東欧系の顔立ちのおばさん。二重瞼を濃く塗りつぶし、さらに目の下までしっかり引いたアイラインが怖いよう。

「ラルーシュ(Lyndon H. LaRouche)って知っている?昨今の"Bailout"が如何に間違っているかを訴えているのよ。いまアメリカの経済はヒドい事になっているでしょう。ヨーロッパやアジアにも飛び火して世界的な大打撃よね」

(この辺りまでは理解できる。で、ラルーシュって誰?)

「世界的に有名な政治家で経済学者よ。昨日もテレビに出ていたの。ロシアの」

(ロ、ロシア??一気に怪しさ急上昇!)

「"Bailout"なんか間違っているの。悪いお金を金融機関に渡してはダメ。ヘルスケアシステムに回すとか、他にやるべきことがあるのよ」

(そのあとはとぎれとぎれにしか分からないし、なんかうさん臭い。よしアメリカ人じゃないからって逃げよう)

「あら、あなた中国人?」

(キタッ!!違うよー。日本人だよー。いつも間違えられるんだよねー)

「日本だってアメリカの経済の影響を受けているのよ!」

(知ってるよー。影響受けまくりだよー。株価どうしてくれるのさ。今年最安値でしょう)

「So, can you make a contribution?」

(キャン ユー メイク ア コントリビューション?? 二回くらい頭の中で繰り返してしまったじゃない。寄付をしろと?ラルーシュさんに?しませんよ。第一私はアメリカ人じゃないって言っているでしょう!)

「家にDVDプレーヤーは持っている?これを見たらラルーシュの考えがすぐに分かるわ」

(DVD1枚25ドルって書いてあるよ。ぼったくりだよね。事務所でコピーして作ったんでしょうどうせ。いやいや私英語よく分からないから見ないよ)

「まあいいわ。じゃあこのパンフレットだけでも持っていって」

(一応確認するけど、このパンフはタダよね)

パンフレットだけ受け取り、帰ってきてから興味本位でラルーシュ氏についてネットで調べる。ウィキペディアを読んだだけだが「陰謀説」(conspiracy theory)とか、「反ユダヤ主義」(anti-Semite)とか、「政治カルト」とか、「マルキシズム」とか引っかかる言葉が並んでいる。U.S. Labor Partyという党を運営(1972 - 1979)して大統領になろうとしていた過去も。もちろんウィキペディアだけでは評価できないけど、まあ現時点で主流派ではないことは間違いない。

でも気になるので友人にこんな人知ってる?有名な政治家なの?とメールで聞いたところ返事が速攻返ってきた。

Ha ha, Lyndon LaRouche is not a famous politician, he is a famous crackpot. That means he is crazy.

Well, maybe that is not fair of me to say. But he has no legitimate support or real political power. He is famous for creating conspiracy theories, and many TV shows or comedic political commentaries make jokes about him. Basically, no one with any real power takes him seriously at all.

なるほど。まあ一意見に過ぎないが、そこまで政治ネタを扱うコメディー番組(この手の番組はアメリカでは多い。でも難しすぎてついていけない)でちゃかされているなら、私の勘も間違っていなかったのだろう。

2008年10月6日月曜日

カレッジフットボール初観戦





土曜日の午後、ペンシルベニア大学の競技場フランクリンフィールドで行われてたカレッジフットボールに遭遇。時間があったのでペンシルベニア大学(Pennsylvania Quakers)VSダートマス大学の試合をしばし観戦。(ペンシルベニア大学関係者はIDカードを見せるだけで入れます)

観客は4割に満たないくらいで、ほとんどがペンシルベニア大学の応援団。ダートマス大学は、北部がカナダに接してるほど遠いニューハンプシャー州にあるので無理もないかしら。試合はちょうど第2クォーターと第3クォーターの間でブラスバンドのパフォーマンス中でした。

いままでテレビでもまともに観戦したことがなかったのでルールも見ながら覚え、全てが新鮮。オフェンスとディフェンスとでは選手が入れ替わるなんて知りませんでした。待機している選手は100人くらい?!

アメフトのルールは簡単に言うと攻守を交代しながらゲームを進行。基本的に得点する機会は攻撃側だけにあります。ゴールポストのあるエンドゾーンに向けて4回の攻撃のチャンスのうちに10ヤード進まないと先守交代。オフェンス側はなるべく前進しようとし、ディフェンス側はタックル等でそれを制止しようとする。1プレー10秒くらいで止まってしまい、また向かい合って仕切り直しの繰り返しで、サッカーやバスケットボールのように常にフィールド上を選手が走り回っているスポーツとはまるっきりイメージが異なりました。あの独特のアーモンド型のボールはキャッチしにくいようで、せっかくつかんでもすぐに落としてしまう。何とも言えず歯がゆい。華やかなタッチダウンのシーンは1回くらいしか見られませんでした。

スポーツに欠かせないのがチアリーダー。アメリカにはチアリーダーをテーマにした学園ものの映画も多く、女子学生の花形のイメージだったのですが、ペンシルベニア大学のチアリーダーたちは映画で見るようなセクシーな金髪美女はほとんどおらず、顔も体型ももう少しお平らな感じでした。チアダンスもバリエーションに乏しく、アクロバティックも安定感がなく頂上の人が落ちるんじゃないかと心配になるほど。まあそのくらいの方がほのぼのしていて良いですけどね。

第3クォーターと第4クォーターの間にトーストを観客が投げるのがここの名物。お酒が飲めないので乾杯(toast)の代わりに、パンの方を投げるとの事。宙を飛ぶトーストの雨にびっくり。あとから回収して動物たちのエサにすると聞きましたが本当かしら?

最後まで見られませんでしたが、アイビーリーグ同士の対決は23-10 でペンシルベニア大学の勝利!だったそうです。よかったよかった。

ちなみにこのフランクリンフィールドは映画『アンブレイカブル』(Unbreakable/M・ナイト・シャマラン監督)で、ブルース・ウィルスが警備員を勤める競技場としてロケで使われたことでも知られています。

2008年10月4日土曜日

アルゲリッチとデュトワ、フィラ管に降臨


瞳が濡れっぱなしだった。歯を食いしばって溢れるのをこらえると、後から後から湧いてくる涙のおかげで眼球が溺れているような感覚に捕われる。そのまま堤防が決壊してドボンと球ごと膝の上にこぼれ落ちるのではないかという恐怖にひたすら耐えた。

それはすっかり白髪になってしまったアルゲリッチが、心持ち足を引きずりながら舞台に現れた瞬間から。ピアノに片手を置き深々と腰から曲げてお辞儀をした彼女。正面を向いた顔は目もくらむばかりに神々しく、幼いころCDのジャケットで見つめ続けたあの美しさ以上。もう何十年もやっているであろうままにふわりと座り、肩の後ろに髪をはねのけ、デュトワを一瞥し、そしてもう弾き始めていた。弾いているというよりは鍵盤の上で呼吸をし生きている。

曲目はプロコフィエフのピアノコンチェルト1番と、ショスタコービッチのピアノコンチェルト1番の2曲。多分どちらも意識して聞くのは初めて。

オケのみのパートではメロディーに体を揺らし、髪を何回もはねのけ、誰を見るというのでもない眼差しを客席に投げ、そしてまるでティーカップに手をのばすかのような自然さで鍵盤に戻る。

音楽として聞くのでなく、彼女の体の一部に取り込まれるような抗し難い快楽に堕ちた。批評などという虚構の客観性の許されない魔力。美しい魔女がかけた罠になすすべもなく嵌っていく。

気がつくと立ち上がって他の観衆と共に割れんばかりの拍手を送っていた。ブラボーの嵐。席を立ち前ににじり寄っていく人々。アルゲリッチを抱き寄せ額に頬に、そして見つめて唇にまでキスを降らせるデュトワ。この元夫婦の偉大なピアニストとマエストロの間には、常人には想像もつかない揺るぎない愛情があるのだろう。その姿にまた瞳が潤む。

アルゲリッチが下がり、気を取り直してムソルグスキーの「展覧会の絵」(ラヴェルによる管弦楽への編曲)を聞く。はずだったが子供の頃親に何度もリクエストしてLP版で聞いた記憶が蘇り、再び興奮状態に。全てメロディーを口ずさめるほど好きだった一曲。バイオリンが、チェロが、ホルンが、ティンパニがこう演奏していたのか、ここで楽譜を捲っていたのかと、楽士たちの一挙手一投足に釘付けになる。デュトワも元妻が去った後の方がのびのびとタクトを振っているようだ。脳に刷り込まれた風景とは違うが、また別の会場で別の画家の絵を見せてもらった。
よかった。よかったなあと思ってまた立ち上がって拍手を送っていたらとうとう大粒の涙が落ちてしまった。眼球はなんとかこらえたが。

秋も深まりオーケストラのシーズンが始まった。フィラデルフィアに引越してきて一番良かったと思うのはこういった名演が目と鼻の先の劇場で格安で見られる事。幸せだ。

2008年10月2日木曜日

妊婦バッジは今でもあるのでしょうか?

昨日友人と話していて久しぶりに思い出したのですが「妊婦バッジ」というのが日本にありましたよね。あれってまだあるのでしょうか?そして普及しているのかしら?

妊娠していて悪阻等々辛いのだがどうしても外出しないといけない。電車の中では極力座りたい。しかし特に初期の妊娠だと気付かれない。だから「私は妊婦です」というバッジをつける事によってアピールし、席を譲ってもらえるように暗黙のうちに促す。というような主旨だったような。

東京にいたころ比較的このバッジについては早い段階から知っていたので、見かけたら電車で席は譲るようにしていましたが、内心では「私も連日終電帰りでヘトヘトなんだけどな〜。できれば視界に入らなければよかったのに」と思っていましたね。またそんなことを考えてしまった自分を責めたりして。

久しぶりに思い出して、アメリカに1年いると考え方が変わるなと思いました。いまはきっぱり「そんなバッジをつけないと席を譲ってもらえないなんておかしい!」と言えます。そしてそのバッジ自体もおかしいですね。聾唖者でない限り、口があるのですから「私は妊婦なんです。このまま立っているのはキツいので席を譲って下さいませんか?」と言えばいいじゃないですか。胎児と母体を守るのは自分ですからね。コミュニケーションの基本は言葉。意思表示はきちんとすべきだし、言われた相手ももし席を譲りたくないのであればはっきり「私も実は腰痛持ちで座っていないと辛いのですよ。他の方にあたっていただけませんか」とかなんとか言えば良いのでは?その会話を聞いた他の人が「じゃあこちらにどうぞ」と言って丸く収まる。というのが理想だと思います。

こう思考が変化をした理由はまず、英語という言語と日々向き合っているからですね。通じるように話さないと誰も察してなんかくれない。さらに構造的に「雰囲気を伝えるもの」ではなく「状況や意志を明確に伝える道具」だからなるべくストレートにクリアーに言うと習慣が身に付いてきたのでしょう。

さらにもう一つ。国民性とかキリスト教的精神と言ってしまえばそれまでですがアメリカ人は基本的に親切です。困っている人がいれば助ける。言葉をかけあって、解決していくというのが身に付いている。くしゃみをしたら「God bless you」から始まり、つまずいたら「Are you OK?」、遠くからエレベーターを目指す人がいたらドアを開けて待っていてあげる。車内から車椅子の人がバスに乗ろうとしているのを見つけ「いまから乗ってくるから席を立って場所を空けてあげて!」と叫ぶご夫人、もっともだという顔で従う人々等。あとどんな下手な英語で話しかけても「無視」とか「聞き流す」という扱いを受けたことが一度もありません。互いに粘って何かの結論を出すまで向き合う。

「空気を読む」とか「察する」とか「暗黙の了解」という七面倒くさい能力を必要とする日本語に比べ、つたない英語での会話の方が変なストレスが溜まらず逆に楽ですね。不思議な事に。

社会が成熟し思いやりや身体的精神的な弱者に理解があり慈愛に満ちていて、その上で個々人が明確な自分の意志を持ち、それを言葉で表現できるようになれば物事はもっと上手くいくのではないか、というのが私の意見です。「遠回し」のバッジで「さりげなくアピール」し、さらにそれを「察し」たり、逆に知っていても「察しないフリをする」。という猛烈にややこしい回路になぜ陥って行くのだろう。道徳の授業かというような注意事項だらけの車内放送の異常な長さ。ヘッドホンを大音量で聞いているためそれに気がつかない乗客という全くもって不毛な現象。痴漢防止策としての女性専用車両もそう。本質的な解決を回避することにかけては非常に熱心で、職人的にその回路をせっせと作る傾向にある。
変な国だなあと、分かるのは外に出てからですね。

2008年9月26日金曜日

有権者登録の風景


「もう登録はすませましたか?」
街角に設けられた特設コーナーの前で、そして地下鉄の中で書類を抱えたおじさんがこう呼びかけています。私も何回も声をかけられました。そしてその度に
「No. I'm not a US citizen.」

11月4日に迫ったアメリカ大統領選の一般投票にむけ、有権者登録を促しているのです。アメリカ大統領選に投票できる条件は、ここペンシルベニア州を例にとると(州により多少違うので)

① 選挙の少なくとも1ケ月前にアメリカ合衆国国民になっていること
② 選挙の少なくとも30日前にはペンシルベニア州そして選挙区の住民になっていること
③ 選挙日当日に18歳以上であること
④ 過去5年以内に重罪で刑務所に収監されていないこと

そして大切なのが以上の条件を踏まえた上で

☆10月6日までに有権者登録を済ませてあること!☆

日本と違い戸籍制度も住民票制度もないアメリカ。さらにしょっちゅう引越をする国民性ときているので、国は誰がどこにいるのかという情報はきちんと把握していないのですね。ほうっておいても選挙の通知ハガキが来る日本とは違い、投票するには自分で有権者登録をしなければならない。それも前回の選挙以降、引越したり、結婚・離婚などで名前が変わっていたらその度にする必要がある。と実に面倒な話です。そしてこんな草の根運動的な活動では、有権者登録に気がつかないまま終わってしまう国民もいるだろうに、という危惧が拭えません。

『見えないアメリカ』(講談社現代新書)で著者の渡辺将人さんは、2000年にアル・ゴア大統領選ニューヨーク支部アウトリーチ局(アジア系集票担当)で働いた経験を書いています。彼はキャンバシングという戸別訪問の投票勧誘と調査に志願して、オハイオ州クリーブランドの黒人ゲットー(貧民街)を一軒一軒歩いて回ったそうです。そこで語られる風景は、そのままノースフィラデルフィアに置き換えられそうな荒みっぷりで迫力があります。明らかに二年前に人が住んでいたはずのところなのに、手元のデータ帳の番地が存在しない。家によってはバリケードで塞がれ、窓ガラスが割られている。家そのものがあとかたもなく消え、芝生の空き地やゴミ置き場になっている。等々。

オバマとバイデンの看板を掲げた民主党色バリバリの登録ブースで今日も声をかけられました。
「登録はすんだ?」
「ごめんね。アメリカ国民じゃないのよ」
「あら、そうだったらよかったのに」(そうかい?本当にそう思っているのかい?)
「ねえ、ちょっと聞いてもいいかしら。ここは民主党の支持者しか登録を受け付けていないの?」
「いいえ、オバマは若い人に投票に行くよう強く訴えているから、共和党主義者でも誰でも登録できるのよ」(そんな事言ったってこれじゃ近付き難いだろうに)
「でもさ、こういった街角のブースに気がつかない人もいるんじゃないかしら?」
「市庁舎でも登録はできるし、街のあちこちにあるから大丈夫よ」(自信たっぷりだなあ)

異文化の人に選挙の説明ができて誇りに思うわと胸を張った、たぶんボランティアであろう白髪の女性。

見えるアメリカ。聞いて、読んで理解できるアメリカはその範囲を少しずつ広がってきています。でもまだまだ。分かったと思ったら、逆にもっと分からなくなる。その繰り返しです。

2008年9月23日火曜日

新渡戸稲造の足跡を追う





最近フィラデルフィアにゆかりのある日本人たちを取材しています。前回、ブリンマー大学に在籍した津田梅子については触れましたが、なんと新渡戸稲造(1868〜1912)もフィラデルフィアにいたんですよね。あの『武士道』で知られる、樋口一葉の前に5000円札の顔だった新渡戸さんです。

岩手県盛岡市で士族の家に生まれた新渡戸は札幌農学校(現・北海道大学)で学びます。1884年に渡米した彼はジョン・ホプキンス大学に入学し、熱心なクエーカー教徒に改宗します。

さらに彼は同じクエーカー教徒のメアリー・パターソン・エルキントンと国際結婚をしました。その結婚式の会場となったのがここ、フレンズ・ミーティング・ハウス(Arch Street Friends Meeting House)。

当時としてはセンセーショナルな一大事件で、翌日地元の新聞『フィラデルフィア・インクワイアラー』は1面で「東洋人を夫とする:クエーカー教徒のメアリー・パターソン・エルキントンが日本の新渡戸稲造と結婚 〜愛する人のための若き女性の犠牲〜」と見出しをつけて取り上げました。実際メアリーの両親に結婚の了解を取り付けるのは大変だったそうです。

その現場をアポなしに突撃(さらに閉館20分前)したにもかかわらず、2人の職員は実に丁寧に対応してくれました。そして私が日本人だと知ったとたんに

「私、日本語ちょっとできます」

と微笑んだ白髪のNiel氏。戦後3年間、新宿区の戸山ハイツでクエーカーの布教にあたっていたそうです。
「私ともう1人アメリカ人がいて、あと皆日本人だった」
「あなたは牧師ですか?」
「クエーカーには牧師はいないんだ。誰もがその教えを広めることができるのさ」
勉強不足を恥じました。確かに、飾りのない質素な礼拝堂の中で人々が集い、音楽も司会者もいなくひたすら祈ると聞いた事があります。

当時の戸山ハイツは、焼け野原で何もない東京に作られた、陸軍戸山学校跡地の広い土地を利用した集合住宅でした。そんな歴史をここフィラデルフィアでアメリカ人の老人から聞くとは。

「新渡戸稲造ね。一番有名な日本人クエーカーですね」

私以外にも新渡戸稲造の足跡を求めて訪れる人がいるのかもしれません。怪しい日本語で書かれたパンフレットと、フレンズ・ミーティング・ハウス以外の彼ゆかりの場所が載った案内をくれました。またクエーカーに関する本を色々調べてくれ、新渡戸稲造の結婚に触れた箇所を探し出してくれたりと本当に親切。またその章の著者がエリザベス・グレイ・バイニング夫人(現天皇が皇太子時代の家庭教師。クエーカー教徒)だったのも驚きでした。

閉館時間を大幅に過ぎて、老人が眠そうな顔になってきたので今日はここで終了。彼は月曜日だけのボランティアなんだとか。また会いに行き、日本の思い出話を聞きたいものです。

2008年9月18日木曜日

Bryn Mawr College


フィラデルフィア中心部から電車で25分。北米を代表する名門女子大学・ブリンマー大学まで出向き、津田塾大学の創設者・津田梅子の資料にあたってきました。事前に図書館の特別資料室とのメールや電話でのやり取りを経て、ようやく迎えたこの日は緊張の嵐でした。

郊外の高級住宅街に位置する広々としたキャンパスには、石造りのずっしりとした建物が、ぽつぽつと住宅展示場のように配置されていました。これが密集していたらやぼったい印象になりますが、適度な距離と芝生や木々とのバランスで、多少退屈な、でも安堵感を得られる景色になっていました。遠くから聞こえる虫の声と、ときたま通る女子大生のさざ波は、のどかな秋の午後にさらなる眠気を誘います。私の母校のキャンパスによく似た雰囲気で、ふと懐かしくなりました。(日本ですよ)

1890年前後、2度目の留学先としてブリンマー大学を選んだ津田梅子は、生物学を専攻し蛙の卵の研究をしていたのですよ。その後、日本の女子英語教育の船出に向け生涯を捧げる事になる彼女の、もしかしたら唯一全てから開放され、純粋なる知的好奇心に没頭できた幸せな時間だったのかもしれませんね。

図書館には彼女の写真、当時の学長に当てて書いた直筆の手紙、日本語・英語の様々な資料などが私宛にまとめて用意されて待っていました。優秀な図書館員、バーバラに感謝。そしてこういった原物資料に素手で触れられたことに大興奮。一つ一つ目を通し、舐めるように瞳でスキャン。は、できないのでコピーを依頼したところ、1枚25セントとなかなかお高い!厳選し、結局手紙と、寄贈された津田塾大学紀要のコピーをもらってきました。また当時の寮や学び舎が現在もそのまま利用されていたので撮影。津田梅子の肖像写真のデータも希望したところ、手際よくメールで送ってくれました。

津田梅子で有名なブリンマー大学ですが、その後多くの日本人女性が留学をしており、なんと恵泉女学園の創始者である河合道(かわいみち)も通っていたという面白い発見もありました。新渡戸稲造の紹介で1900年〜1904年まで学んだ彼女はその後、津田塾大学で講師を勤めたり、日本YWCA同盟の最初の日本人総幹事に就任したりとキャリアを積み1929年、恵泉女学園を設立します。恵泉はクリスチャン系のお嬢さん大学ですが、授業に農作業を取り入れているのが特徴の一つ。キリスト教の精神からくるものなのでしょうか?でも何よりも気になるのが、以下ウィキペディアからの抜粋になりますが

「敗戦後、マッカーサーの高級副官として来日したボナー・F・フェラーズは、同じクエーカー派の大学に留学していた河井の一番弟子にあたる一色ゆり(旧姓・渡辺)と河井の消息を捜し当てた。フェラーズは二人を、1945年9月、昭和天皇とマッカーサー元帥が初めて会見をする4日前にアメリカ大使館に招待。天皇の戦犯問題について、二人の意見を取り入れながら、天皇不起訴を進言する覚書を作成した」

という点。なんだ、なんだ。津田梅子より遥かに面白そうじゃないか!と思ってしまいました。が、河合道についてはこのあたりでペンディングにしておいて、さて、これから持ち帰った資料と格闘です。

2008年9月16日火曜日

9月11日に会った人


ニューヨークで発行されている東海岸在住の日本人向けフリーペーパーで、記事を書かせていただけるようになりました。そしてその第一弾のお仕事となったのが2001年の9月11日の同時多発テロ事件の際、ワールドトレードセンターのすぐ側のレジデンスにお住まいだった遠藤明子さんのご著書の書評でした。

彼女は1982年に渡米され以後25年のキャリアを積まれています。2001年まで東急グループ傘下東急百貨店ニューヨーク駐在所長。北米を中心とし、商品企画・新規事業・ブランド事業開発・海外事業の導入などに携わられ、特にアートを中心とした各種イベントの企画を多く手がけられました。1973年に発表した「ラップドレス」で一世を風靡したダイアン・フォン・ファーステンバーグの、日本発のコレクションをホテルオークラで開催したのも彼女の仕事。ファッション動向に関するコンサルティング業務を展開する会社も設立し、全てが順風満帆で華々しい人生だったのでしょう。

そんな遠藤明子さんが9.11で被災され、命からがら逃げ出し、彼女の人生感は180度変わります。大勢の尊い命を失った消防団員を目の当たりにし、何かできないかと、消防署をまわって夜食を差し入れするボランティアもしました。彼女の言葉で、強い言葉で、おっしゃったことは忘れることができません。

「私を助けてくれたのはアメリカ人でした。この国の危機管理体制は素晴らしかった。私はアメリカ人でないということで差別を受ける事なく、FEMA(アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁)の支援を受ける事ができた。また各国の大使館は必死でプラカードをもって現場にかけつけ、自国民の救済にあたっていた。でも日本政府はなにもしてくれなかった」

そして以前までの利益追求型の企業方針についていけなくなり、疲れきった彼女はタイ・カンボジアへ旅をします。そこで出会ったジャスミンの香りに励まされた遠藤さんは、心機一転。今度は「呼吸」をテーマにした女性の心を癒す香りのビジネスを展開する発想を得ます。そして立ち上げたブランドが「LA LUMPINI(ラ・ルンピーニ)」。このラインで発表したのは、アロマティックバスコスメ、スキンケアライン、そして下着を手洗いする時の「ランジェリーソープ」等。LAZY SUSANから発売しました。

そして先週9月11日、ニューヨークの日本クラブで彼女の著書『The scent of
jasmine ジャスミンの香り グラウンド・ゼロに舞い降りた雪・・・白い花びら』の出版記念パーティーが開かれ参加してきました。それまでのキャリアからどんなにたくましい方だろうと想像していたらなんと、私よりも小柄で華奢で、非常に腰の低い美しい女性でした。

パーティーにはロイターの取材も入っていて、ロイターの報道記者、我謝京子(がしゃきょうこ)さんの司会でトークショー形式で進められました。さらに途中、遠藤さんの著書を読み感銘をうけたニューヨークで活躍する日本人ピアニストの生演奏もあり、非常に感慨深いものがありました。

ロイターのニュースはネット配信していたので、こちらから見て下さい。前半は時事ニュースで、後半に彼女が登場します。

http://jp.reuters.com/news/video?videoId=90599&videoChannel=206

番組ではトークショーの様子は流れていませんが、ロイターの我謝京子さんの

「わたくしも報道に携わっておりますので、穿った見方をしてしまいますと、やはり9.11の体験をビジネスに利用しようとしていると、受け止められてしまった事もありましたでしょう?」

の鋭い質問に思わず乗り出してしまいました。そう、そこが聞きたい!そして遠藤さんの回答はとてもすっきりしていました。

「はい。そういう心ないことを言う人もいっぱいいましたし、実際そうしてビジネスに利用した方もいっぱいいらっしゃいました。でも私はそうしたくなかった。だからこの企画もずっと秘密にしていましたし、本当に自分が信念をもってやりたいのかどうかを自問自答しました。資金調達は私財をなげうって自分で集めてスタートしました」

そして楽園に見えたカンボジアにて、ラッフルズホテルでアフタヌーンティーをして出てきた自分の目の前で、道ばたで売春宿に売られた少女を目撃したのです。裸足で髪をクシャクシャにして歩いていました。その時いったい自分はなにをしているのだろうと思ったそうです。そういった女性がまだまだ社会的地位を得られない、売春の対象にされてしまうのは自立できないから。自分にできる事からそういった人々をサポートをしていきたいと感じた遠藤さんは自分の事業の発注先として、身障者たちが自力で工場を運営しているReHabというファクトリーを選んでいます。

深く頭が下がりました。一貫した揺るぎない信念を持った素晴らしい女性でした。今回のこの本は販売を目的としない限定刷りでしたが、ロイターのニュースでも紹介された通り『9.11のジャスミン』と改題し多少手直しを加え、10月25日に朝日クリエより、全国発売されるそうです。

2008年9月9日火曜日

英語→日本語の苦悩


ジャパニーズガールズロックバンド『THEE 50'S HIGH TEENS 』がニューアルバム『PUNCH DE BEAT』を引っさげ、この金曜日にフィラデルフィアでライブ&ラジオ出演をする。ラジオのインタビューで通訳をすることになった友人から質問文を「自然な」日本語にして欲しいと頼まれ、初めてそのバンドの存在を知った。

大学で日本文学を専攻し、奈良県で2年間過ごし、最近の愛読書は村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』(もちろん原書で読んでいる)という彼の日本語能力は素晴らしいのだが、やはりこう仕事で使うとなると色々と問題があるのが分かってきた。いや「問題」というのは心ない言い方で、英語と日本語の相違点が改めて浮き彫りになったと言うほうがフェアかもしれない。


其の一:カタカナで表記される外来語の多さよ!

「アルバム」「リリース」「ライブ」「ボーカリスト」「ギタリスト」「ベーシスト」「ドラマー」「メンバー」「フューチャー」「コスチューム」「テイスト」「リミックス」「パフォーマンス」「ステージ」

ロックバンドへのインタビューなので外来語が多いのは仕方がないのが、こういったものを逆に正しい(?)日本語にしようとすると、よけいにワケが分からなくなってしまう。ちょっと極端な例だが

「日本出身の女性だけの洋楽合奏団の構成員は、吸血鬼の衣装で演奏をします」
だとピンと来ないが
「ジャパニーズガールズロックバンドのメンバーは、ドラキュラのコスチュームでパフォーマンスをします」
だと分かったような気になるし、その光景も想像しやすい。日本文学をこよなく愛する彼をがっかりさせながら、カタカナだらけに正してしまった。



其の二:英語は「時制」を厳密に表現するが、日本語はあやふやである

「バンドに入った前はなにをしましたか?」
彼に限らず日本語を勉強するアメリカ人はよくこのように言ってしまう。英語で書くと
「What did you do before you became a member of the band? 」
となるから直訳すれば確かにそうなるのだが、実際私たちはそうは言わない。
「バンドに入る前はなにをしていましたか?」
が通じる日本語だろう。逆に日本語の頭で英語にしてしまうと時制や三人称の"s"を忘れる羽目に。私も会話がエスカレートすると、未だにすっ飛ばしてしまう。



其の三:文脈を知らないと会話にならない…

「そのコスチュームはBéla Lugosi(ベラ・ルゴシ) を意識しているのですか?それとも一般的なドラキュラですか?」
「Béla Lugosi ってなによ?」
「知らないんですか?ドラキュラ映画と言えばBéla Lugosi 。ホリウッドの有名な俳優ですよ」
「知りませんねえ。ちなみにハリウッドね。『ホ』じゃなくて『ハ』」
「はい、ハリウッド。本当に知りませんか?アメリカ人はみんな知っていますよ」
「本当に?でもさ、このバンドのメンバーって20代前半なんでしょう?知らないと思うよ。念のために最初に『Béla Lugosiって知っていますか?』と確認してから話した方がいいね。Yesだったらそのまま会話を続けて、Noだったら…」
「え〜!知らないんですか〜??」
「いやいや、それはちょっと感じが悪いでしょう」
「そうですか?」
「そうよ。そんなリアクションはダメよ。相手が引くかも。『アメリカではとっても有名な俳優なんですよ。彼に似ているあなたたちは、アメリカで人気が出ると思いますよ』と加えてっと」
「そこまで言わなくてもいいんじゃないですか?」

とまあ大変だった。家に帰って調べたところBéla Lugosiは映画『ドラキュラ』(1931年)で主役を射止めたハンガリー出身の俳優。映画がヒットし、その後も怪奇スターとして出番があったものの、ハンガリー訛の強い英語が災いして徐々に落ち目になっていったとのこと。

もともとホラー映画は苦手だし、1931年の映画でしょう。1931年って高倉健やジェームス・ディーンが産まれた年だよ。知っている訳がない!と開き直ったものの、やはり何かの代名詞になっているような人や物は押さえておかないと会話にならないのだと痛感。

ラジオのインタビューは生放送ではなく収録。後でおいしい所取りをして編集して流すそうで、どうりで質問項目が異常に多かった訳だ。Good luck!!

Béla Lugosi、うーん確かに一回見たら忘れられない容貌…。

2008年9月3日水曜日

携帯電話の意外な機能


フィラデルフィアはレストランに恵まれている、と思う。

ZAGATのシールがベタベタ貼られたイタリアン、フレンチ、ステーキハウス、フュージョンレストランはセンターシティの至る所にある。ただしちょっとお高めの場合が多い。

我々アジア系庶民の味方はチャイナタウン。ぷりぷりジューシーな餃子(dumpling)を刻んだ生姜たっぷりのソースにつけてほうばれるし、お腹いっぱい食べても一人10ドルもいかない飲茶(dim sum)の店も嬉しい。マレーシアやベトナム料理店でライムを絞ってさっぱりと胃に優しいフォー(pho)というのもたまに食べたくなる。

インド料理はなぜかバッフェが多く、人生初めての本格モロッコ料理の店では素手で大皿から取り分けて食べるものだと教わった。ひざにかけたバスタオルの上にぼろぼろこぼしながら食べるのも、慣れてしまえば気にならない。この味、日本人の口に合うと思う。蜂蜜で味付けしたケーキは絶品だった。

一応フィラデルフィアの名物はフィリーチーズステーキ(Philly Cheese Steak)ということになっているのだが、(フィラデルフィアから来たと言えば、ああチーズステーキの街ねと言われるほどアメリカ国内では浸透している)、ご多分に漏れず大して美味しいものではない。ステーキとは名ばかりで、薄切り牛肉とタマネギを炒めたものをパンに挟み、これでもかとトロトロのオレンジ色の液状チーズを塗り付けてドンッ!胃にもたれる。私はフードトラックで売っている1ドルのシンプルなホットドッグの方が好きだ。

満腹になりさて会計。サービスに応じて15〜20%のチップを払わないといけない。もちろんワリカンの場合はチップを換算した上で頭で割ることに。ベジタリアンなど食べられるものが限られる人がメンバーにいると、食べた分だけ支払いたいと主張されるので結構面倒くさい。

そんな時に便利なのは携帯電話。気がついたのは実は昨日!ピコピコいじっていたら計算機の機能の中にチップ計算表がついているのを発見した。Billに総額を、Tipにチップの割合を、Payingにワリカンする人数を入れると自動的に一人頭いくらになるかまではじいてくれる。もっと早く気がついていれば…。

ちなみに私の携帯電話、converterの機能もあり摂氏から華氏へ、センチメートルからインチへ、キロからポンドへといった計算もできることが分かってきた。さらにCurrencyでは日本円からUSドル、またそれ以外の国の通貨への変換もできるようになっていたが、何故かそこで設定されていたレートは1ドル119.23円。現時点での正式なレートは1ドル108.59円。自分で調整できるのだが、ここも自動で変わってくれればもっと助かるのになあ。

痒いところに手が届く日本の最新携帯電話には、こういった機能はあるのでしょうか?

2008年8月29日金曜日

Chocolate Sunflower



それは見たことのない美しさだった。
花屋の軒先に佇むこっくりと濃いセピア色の大輪の花。居並ぶ色鮮やかなバラやひまわりたちもおしゃべりをやめてしまう存在感と静寂さ。

「Chocolate Sunflowerっていうんだ。めずらしいだろう」

と話しかけてきたのはアジア系の店主。シミもシワも、使い込んだ常滑焼の器のようにしっくりと肌になじんだ顔は郷愁を誘う。眼鏡越しの瞳が優しい。

Chocolate Sunflower。なんと甘い名前。でもきっとこのチョコレートはビターだわ。そうだ、この花をこれから訪ねるマリエルへのプレゼントにしよう。酸いも甘いも噛み分けて生きてきた彼女なら、きっとこの花の魅力を分かってもらえるにちがいない。

手慣れた様子でギフト用のラッピングをしながら店主は語る。

「あんた日本人だろう。私は台湾人なんだよ。1967年にアメリカに初めて来て長いこと暮らしたねえ。それからいったん帰国してリタイアしてから2000年に再度渡ってきたんだ。この店かい?これは息子の店でね。そうそうモモヨって知っているかい?モモヨは日本人だよ。この先のバーバラという花屋で彼女も働いているんだ。今度行ってご覧」

たった2本だが花もつぼみもたっぷりついて8ドル。彼の人生談のお釣りまでついてきた。モモヨに会いにいくんだよ、と念を押しながら外まで送ってくれた彼。名前を聞いたら

「アーサー。ほら日本語で『morning』の意味なんでしょう」

いつものように熱烈なハグとキスで迎えてくれたマリエル。花を見て「なんて美しいの!」とこちらが幸せになるような笑顔で喜んでくれ、さっそくガラスの花瓶に。花越しに語り合った数時間。今日のテーマは大統領選から地元へのカジノ誘致に絡む問題まで、と相変わらずちょっとシリアス。

そして会話が途切れ、2人ただ花を見つめていた時、ああ今日はいい一日だと、思ったのでした。

2008年8月28日木曜日

ヒラリーに身震い

デンバーで開催中の民主党党大会。CNNで連日生中継しており昨夜も見ていたのだが、ヒラリー・クリントンの演説は物凄かった!もう物凄いとしかいいようのない神懸かり的な話術。オバマの演説を高く評価する人も多いが、私は彼女のパフォーマンスは天下一品だと思う。田中眞紀子なんか足下にも及ばない。

まず大変聞き取りやすい張りのある声で、シンプルな単語を繰り返し繰り返し使いながら主旨を明快に届けることに非常に長けている。これまでのオバマ批判はどこへやら、彼こそ大統領としてふさわしい。ブッシュがこの国にもたらした悲劇を繰り返してはいけない。今こそアメリカ国民は一致団結して立ち上がり民主党に政権を取らせるべきだと拳を突き上げて鼓舞力説。

そして挿入される「You」「Your children」「America」の多いこと多いこと。「あなた」が作る、あなたの子供、またそのまた子供のための「アメリカ」の未来を決めるための大統領選という強調(というか洗脳)。そのたびにどっと歓声をあげ立ち上がり熱狂的な拍手を送る観客たち。アメリカは建国の歴史からして自然発生的なものではなく「人」が立ち上げた意志の国。私とあなたとで未来を作り上げていきましょうというメッセージが、彼らの国民としての誇りに火をつけ燃え広がっていく様子が、はためく星条旗を透かして見えるようだった。

さらにすごいのが演説後の彼女。舞台を上手から下手、下手から上手へ行ったり来たりしながら満面の笑みで会場を見渡し、目のあった観客を次々に指差しさらに力強く歯を見せて笑う。「そうそこのあなた、私はあなたに語りかけているの!ええ、あなたなの。伝わったでしょう私のメッセージ」という強烈なアピール。個人的に繋がっているという幻想を抱かせ、盲目的に崇拝させる。うまいなあ。怖いくらいうまい。

と今日会った友人に話したら、夫のビル・クリントンもそっくりな話し方をして、彼の演説に多くのアメリカ人が魅了されたんだよって。
「最初彼は人差し指で観客を指し示しながら話していたんだけど、それはちょっとメッセージ性が強すぎるというアドバイスを受け、握り拳をつくり人差し指を曲げて関節の辺りで観客を指しながら話すようにしたんだ。ヒラリーもまったく同じように話すから、彼のやり方を学んだんだね」
ほう、と思い再度ビデオで確認したところ、確かに演説中は握り拳&人差し指第二関節方式を導入していたことが判明。

だが、だがである。私はあくまで日本人でこの選挙への投票権はない。いまいるこの国の景気や教育問題、テロへの恐怖、健康保険の問題が改善して欲しいと心底思うし、さらにそれが世界経済にも直接的に響いてしまう大国なのでバランスを保って賢明な政治経済の舵取りをして欲しいとは思う。思うものの、外部に敵を作り、諸外国との覇権争いを劇的に演じることによって国民の目を外に向け彼らの一体感を取り戻す作戦に出た場合、いつ日本だってこういった素晴らしい演説の中で悪者扱いされるか分かったものではない。「No McCain! No more Republican!」の代わりにこの調子で「No Japan」と言われたらと思うと身震いがしてきた。まあ過去にも言っていたんだろうし。大統領選という祭りが去った後、きれいごとばかり並べる両候補の将来、この国、この国の影響を受ける世界はどうなるのだろう。

オバマの演説は党大会最終日の明日28日(木)夜。ヒラリーの存在感につぶされない歴史的なスピーチになるのか。アメリカだけでなく世界に目を向けた話を聞ければ多少安心できるのだが。選挙中は無理かな・・・。

2008年8月25日月曜日

蛍光灯はどこだ??

キッチンの蛍光灯が切れた。恨めしい顔で見上げてしまう。やれやれ、また一つ解決しないといけない課題が。こういう時、まず真っ先に頭に浮かぶのは
「『蛍光灯』って英語でなんて言うのよ〜!!」

生活をしているとどうしてもこういった想定外の小さな問題の処理に対応せざるを得なくなる。つい先日は玄関のサムターンが突然ポロッと取れた。その前はシャワーの取っ手がはずれ、シーリングファンつきのリビングの電球が落下し粉々に砕け部屋中に飛び散ったことも。ファンの振動で接触が悪くなっていたと思われる。それ以降間接照明のみにすることにした。

そして今度は蛍光灯。実はこれが初めてではない。以前切れたときはアパートメントの受付に電球を持っていき、「コレとりかえて」と言ったところ20分後にスタッフがきて全ては解決。したのだが、その月の家賃には14ドル加算されていた。電球一つ取り替えるのに14ドル!人件費にしても高すぎる。今回は自分でなんとかせねば。

辞書によると蛍光灯は『fluorescent』。さらにこれを音声ガイドつきのインターネット英英辞典に打ち込み発音をチェック。
http://encarta.msn.com/encnet/features/dictionary/DictionaryResults.aspx?refid=1861674275

「f」も「l」も「r」もあるからややこしいぜと思いながら何回も繰り返し発音練習。まあこれで通じるだろう。次に直管型の電球を立てて自分と比べてみる。鎖骨の下辺りまでだから120cmくらい。4フィート。あるいは47〜48インチといったところか。さて、問題はいったいどこで蛍光灯を売っているのかということだ。もしこれが車社会に生きる郊外型生活者だったら大型ホームセンターの「Target」までひとっ走りで済むのだろうが、フィラデルフィアのダウンタウンのどこで手に入るのだろう?「街の電気屋さん」なんか見たことがないよ。

まずは近所の「CVS」(薬局とコンビニが合体したようなチェーン店)へ。見当たらず。次にマーケットストリート沿いの比較的大型スーパーマーケット「K-mart」へ。フロアの端から端まで歩いたが丸形の電球やランプの傘などはあるものの、蛍光灯はミニサイズしかない。「RITE AID」にもない。誰か友人に聞こうと携帯電話を取り出した時、ふと「STAPLES」ならあるかもともう一軒足を伸ばすことに。「STAPLES」はチェーン展開をするオフィス用品店で、文具からパソコン、プリンター、ソフトまでそろう。最後の頼みの綱。ガシガシと入って目が合った店員に聞いたところ、あっさり頷き売り場まで案内してくれた。「このサイズしかないんだけど」と言うが、それがまさに欲しかったサイズ。念のため、彼の見ている前で蛍光灯を立て、胸まで届くことを確認。さらに2本で5ドル30セント!!
「That's exactly what I'm looking for!! Thank you!」
と満面の笑顔で去ろうとしたとたん、肩をつかまれ
「いやいや、出口は逆だよ」(笑)

レジでは特に梱包もしてくれないので、落とさないよう「捧げ銃」状態で持ち帰り、よいしょよいしょと椅子によじ上り蛍光灯の取り替え成功!!こんなことも大冒険。2度と忘れないであろう『fluorescent』。

2008年8月22日金曜日

individual freedom

マリエルと話した。たっぷり4時間は。
御年77歳。元教師の彼女はYMCAで英語を教える傍、ボランティアで自宅でチューターをしている。日本人の生徒を持つのは私で5人か6人目。

「秋には一人娘とアフリカに言ってくるわ。そこで誕生日を迎えるの。でいったん帰ってから今度はツアーでインドへ行くの。さすがに個人旅行はそろそろ辛いわね」

何度も言うが御年77歳である。過去にも中国、キューバ、東欧、北欧各国と旅した国は数えきれない。その華奢な体には想像もつかないようなエネルギーが満ちている。
「郊外へ行くぐらいなら私が運転してあげるわ。あなたは私の娘のようなものだから。私は夫は亡くしたけれども娘がいる。娘がいれば夫なんていらないのよ」
一緒に小旅行をする日も近いかもしれない。

何の準備もせずに自宅へ押しかけ、テキストはなくノートもとらない。たまに辞書を引きながら思いつくままひたすら話すだけ。私のたどたどしい英語に耳を傾け、時に意見を、時に励ましを、ユーモアたっぷりに彼女の経験談を絨毯のように広げてくれる。非常に知的な女性で、深い慈愛に満ちており、やはり祖母というよりは母。

会話のテーマは縦横無尽に変化し、互いの家族のことから、アメリカのドラッグの問題、教育問題、人種問題、貧困問題、ブラジャーのサイズから、ズボンの裾あげまで。そんな中ふと以前からの疑問をぶつけてみた。

「ハリウッドで子役で大成した人は必ずといっていいほどドラッグに溺れる。セレブリティや俳優たちがドラッグ中毒なのは皆知っている。なのにどうして彼らは逮捕されないの?どうしてそのまま表舞台に出ていられるの。日本なんて未成年者の喫煙写真が週刊誌に載っただけ、ボーイフレンドとの2ショット写真が表に出ただけでクビになる”アイドル”がいるのよ」

「それはね、まず子役たちは急に大金を手にするでしょう。そして大きなプレッシャーの元で生きている。お金があればなんでも手に入ってしまうのよ。そして金持ちは逮捕されない。逆に黒人や貧しい人だったら簡単に逮捕される。そういう社会なの」

そして、とひと呼吸おいて

「アメリカは”individual freedom”(個人の自由)という考え方が根底にあるのね。誰が何をしていようと、それはその人の問題。ドラッグに溺れようと、アルコール中毒になろうと個人の自由。周りは気にしない。でも日本は違うでしょう。あなたのご両親はきっとあなたの周りの家庭と同じような教育をしたにちがいないわ。まわりの社会に合わせようと。そういった違いを理解して、それから考えると分かってくるわよ」

すとんと胸に落ちる言葉だった。ただ個人主義、個人主義と言うが、家族、宗教、非営利組織といった「愛」でのつながりはこの国は実に深い。求めれば「救い」は「愛」という形で与えられる。与えられる前提だから「弱さ」にも寛容なのかもしれない。ただ「愛」では掬えず、こぼれ落ちてしまう者もいっぱいいる。希望のないまま産み落とされ、ドラッグの売人としての人生しか選択肢を知らない子供も。銃声の響く街で。

鼻毛も金




女性はとかくに男性の身だしなみにウルサイ。かく言う私も年とともに許容範囲は広がりましたが、鼻孔から「こんにちは」しているオケケだけはどうしても我慢ができません。いったん目に入ってしまうと会話中直視をしてしまい、どんなに魅力的に話される方でも恋愛感情はおろか、友人としても距離を置いてしまいます。鼻毛露出率は国境を超えて一定数を確保。となるとそもそも男性の鼻毛は女性に比べ成長力が著しいということですよね。ひいては身だしなみに気を使う多くの男性が人目を避け、こそこそと鼻毛のお手入れをしているということ。それもそれで想像すると可笑しさがこみ上げてきて、なんか哀れな気分に。ふん、女性だって腋毛やすね毛の処理に苦戦しているのを知っているんだよとおっしゃられるかもしれませんが、私に関してはその辺りはご心配なく。黒髪の豊かさと反比例して体毛はほとんどありませんので。と、男性女性双方の怒りをかったところで…。

ペンシルベニア大学考古学人類学博物館からの帰り道、いつも通らない路地に足を踏み入れたところ「要塞」を発見。ゴロゴロとした巨石を積み上げた重々しい中世の城砦を思わせるこの建物。歴史ある町並みが美しいフィラデルフィアとはいえ、明らかに時代錯誤な異質さを漂わせています。

エントランス上部にはめ込まれた「First Troop Philadelphia City Cavalry」の看板。その下にはアメリカ合衆国の国旗と、黄色の地に戦闘用ヘルメットをあしらった旗がはためいています。門兵もおらず入り口は開け放たれているようなのでおずおずと潜入。入ってすぐの左右の壁には歴代の「CAPTAINS」の名と任期が刻まれた大理石版が掲げられ、初代キャプテンの名前の横には「1774〜1776」と。1776年はアメリカ独立宣言の年。独立戦争下に発足した軍隊の要所と推測できます。中をのぞくと木版で覆われた壁に鉄筋の梁が露になっただだっぴろい倉庫のよう。馬車でも装甲車でもなく普通の乗用車が10台近く駐車されており、一番奥の壁には段ボールが積み上げられている。それだけ。なんの緊張感もない殺風景な空気が淀んでいました。

さすがにそれ以上中に入るのは憚られたので表に戻り、写真を撮っていたところ迷彩服の中年の男性が通りかかりました。これまた緊張感のない顔で貧相な体躯は軍隊とは思えない。パシャパシャ撮っているアジア系の女性に興味は持ったものも、制止するそぶりも見せません。

「ハーイ」
「ハーイ、ねえちょと聞いてもいいかしら。この建物はいったいなに?」
「アーミーだよ」
「アーミー?でも中のぞいたけどさ、駐車場にしか見えないよ」
「倉庫として使われているのさ。アーミーだけど、でも1904年にその用途は終了してね」
「あなたここで働いているの?」
「そうそう」
「あっ私日本人ね」
「そんなとこだと思ったよ。観光客?」
「いや、住んでいるのよ。10ケ月くらい前に引っ越してきてね」
「へえ。どうフィラデルフィアは楽しい?」
「すっごく楽しい。素敵な街よね。興味深いものであふれているわ。例えばこの建物とか」
これがそんなに面白いかい?という顔で見上げ
「まあ、たいして面白くもない街さ」
「なんて表現したらいいの?こういう巨大なビルディングは。"massive"?」
「"well built"の方がいいね。一個覚えたじゃん」
「有難う」
「俺、マイク」
最後にお互い自己紹介をして握手。そして微笑み合った瞬間凍り付きました。

"Oh no! His nose hair caught my eye!! It was the same color on his head!!"

2008年8月20日水曜日

無料野外映画祭
























野外音楽祭、というのは知っていたが野外映画祭があるとは初耳だった。仲良しのKさんから「シティーホールの中庭で無料映画鑑賞会があるから一緒に行かない?」とお誘いを受け、字幕がないとキビシいなあと思いつつ興味が先に立ち「じゃあいってみましょっか」と返信。

ホームページをチェックすると『Movies Under Penn』と題うって、

blanket or lawn chair, bring the family and friends and head to City Hall courtyard four Fridays this summer to catch a movie under Billy Penn, during the City Hall Film Series. All films are FREE and open to the public and begin at approximately 8:30pm. No alcohol or pets are allowed.
(敷物やローンチェアを持参して、家族や友人をお誘い合わせの上、シティーホールの中庭、ウィリアム・ペン像の足下でこの夏の金曜日4回に分けて開催される映画祭に参加しましょう。映画は全部無料で一般公開されており、だいたい8:30頃スタート。アルコール類とペットは持ち込み禁止)

July 11 - Italian Job
July 25 - Priscilla, Queen of the Desert
August 15 - Unbreakable
August 29 - Invincible

とのこと。もう前半は終了していたし29日も先のことなので、地元フィラデルフィア出身の映画監督M・ナイト・シャマランの『Unbreakable』(2000年)を鑑賞することに。そのまま『アンブレイカブル』として日本でも公開されていたようだが、この人の作品は『シックス・センス』以外観たことがない。地元で撮影をすることで有名な監督だから、近所の風景が出てくるかもね程度の認識で何も調べず出かけた。

夜はサンダーストームの可能性ありというイヤーな天気予報。降ってきたらとっとと退散し家で飲み直そうと心に誓い、会場につくとそこには巨大なスクリーンとスピーカー、その前には階段式の簡易客席が用意されていた。ポップコーンの小さな屋台も出ている。観客はまばらだったが、始まる頃にはかなりの人数に。みんな何かかしら持ち込んで口をもぐもぐさせている。

映画は予定時間をだいぶ過ぎてからスタート。スクリーンの裏から照射している。空はすっかり暗くなり、気温はぐーんと下がってきた。屋外なので街の雑踏や車のライトが時折、音声や画像をかき消す。特にけたたましいパトカーのサイレンと点滅する赤ランプ、頭上をバラバラと行き来するヘリコプターには閉口した。が、『シックスセンス』によく似た静かな恐怖を淡々と煽る映画なので、夜気も街のノイズも渾然一体となって迫ってくる。

突然くしゃみが止まらなくなる黒人のおじさん。彼にうるせーよとでも言っているであろうあんたの声がまたうるさいよ。別の黒人のおじさん。どっと会場は笑いの渦に。だがなにが笑いのツボだったのかさっぱり分からず。ブルース・ウィルスはずっと困った顔をしている。彼の息子役の少年はハーレイ・ジョエル・オスメントには及ばないものの似たような淋しさを漂わせ、サミュエル・L・ジャクソンは満身創痍でとうとう駅の階段から落ちた。OH!! と会場が痛みを共有。

あちこちに気が散りながら、内容も今イチ分かったり分からなくなったり。重くたれ込めた雲からはいつ降ってきてもおかしくない。外気はますます落ちこみ、鳥肌で覆い尽くされた二の腕は恐怖のせいではなく、寒さのため。見かねたKさんは親切にカーディガンを貸してくれた。私は髪が長いから大丈夫って、本当に優しい。すかさず好意に甘える。

そうこうしているうちに、映画は終了。どんでん返しも『シックスセンス』ほどではなく、大物俳優を配しているのにB級映画の感が拭えないのは作品のせいか、私が集中できなかったせいなのか。もやもやと消化できないものを抱え、むしろ映画より観客を観察していた方が面白かったぜと思ったところで吹っ切れた。自宅でKさんとモヒートを2杯飲んでおやすみなさい。

後日、やはり映画に登場したブルース・ウィルスが警備員を勤めるスタジアムはペンシルベニア大学構内のフランクリン・フィールドで、サミュエル・L・ジャクソンが激しく転倒、落下したのはSEPTAのユニバーシティ・ステーションだったことが判明。いずれも近所。よく見ている風景だった。