「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」
雨にむせぶフィラデルフィアの空を見つめていたら、ふと思い出しました。与謝野晶子のこの短歌。情熱の女流詩人として知られる彼女らしい、思いのたけをぶつけたセンシュアルな作品。素手で肉体をえぐるのではなく、遠くから放った言葉のやはらかな毒矢でじわじわと魂を蝕む。女は怖いなあと。でも私も女ですから、きっとこの怖さを隠し持っているのでしょう。
これをどう英訳するのかしらと調べていたら、2つ見つけました。
Not even once
have you touched my soft flesh,
coursing with hot blood,
Don't you feel a bit lonesome,
you -- always preaching your way?
Don't you feel you are preaching in vain about how life should be, without holding my hot and feminine body?
まあどちらも同じようなことを言っているのですが、やはり直接的になってしまい、まどろむような趣が消えてしますね。
分かるような分からないような、察する事ができるようなできないような、そもそも男女の中なんてそんなものです。恋愛という架空の世界を彷徨い、分かり合えるという幻想に一縷の望みをかけもがき苦しむ。こぼれおちていく言葉の球を追いながら。
恋愛に成就はないというのが私の考えです。一瞬のエクスタシーはあるかもしれませんが、味わった後はかえって肉体と精神の火照りに苦しむ。始まった瞬間から終焉にむけてのカウントダウンがはじまる。人生のように。
あまりにも考え方が暗いと友人に笑われました。hapinessというのはそういうものではないよと。愛する人と一生連れ添い、子供を産んで次の世代への希望を残すのが幸せだって。そうかもしれませんね。もしそれができるのであれば。その価値観に疑問を抱かず生きていけるのであれば。
俵万智のチョコレート語訳だとこうなります。
「燃える肌を抱くこともなく人生を語り続けて寂しくないの」
謎めいた響きが消えて、これでは詰問になってしまう。聞きたくても聞いてはいけないのは恋愛の掟。そしてそれを聞いてしまうのが女の弱さ。ローエングリーンの素性を問いつめたエルザのように。
これだったら英訳の方がまだ良いですね。少なくとも私にとっては、辞書を引きながら意味を想像する。翻訳者の戸惑いと苦悩のひだに指を這わせるという遊びの部分が残されているから。
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