2008年10月2日木曜日

妊婦バッジは今でもあるのでしょうか?

昨日友人と話していて久しぶりに思い出したのですが「妊婦バッジ」というのが日本にありましたよね。あれってまだあるのでしょうか?そして普及しているのかしら?

妊娠していて悪阻等々辛いのだがどうしても外出しないといけない。電車の中では極力座りたい。しかし特に初期の妊娠だと気付かれない。だから「私は妊婦です」というバッジをつける事によってアピールし、席を譲ってもらえるように暗黙のうちに促す。というような主旨だったような。

東京にいたころ比較的このバッジについては早い段階から知っていたので、見かけたら電車で席は譲るようにしていましたが、内心では「私も連日終電帰りでヘトヘトなんだけどな〜。できれば視界に入らなければよかったのに」と思っていましたね。またそんなことを考えてしまった自分を責めたりして。

久しぶりに思い出して、アメリカに1年いると考え方が変わるなと思いました。いまはきっぱり「そんなバッジをつけないと席を譲ってもらえないなんておかしい!」と言えます。そしてそのバッジ自体もおかしいですね。聾唖者でない限り、口があるのですから「私は妊婦なんです。このまま立っているのはキツいので席を譲って下さいませんか?」と言えばいいじゃないですか。胎児と母体を守るのは自分ですからね。コミュニケーションの基本は言葉。意思表示はきちんとすべきだし、言われた相手ももし席を譲りたくないのであればはっきり「私も実は腰痛持ちで座っていないと辛いのですよ。他の方にあたっていただけませんか」とかなんとか言えば良いのでは?その会話を聞いた他の人が「じゃあこちらにどうぞ」と言って丸く収まる。というのが理想だと思います。

こう思考が変化をした理由はまず、英語という言語と日々向き合っているからですね。通じるように話さないと誰も察してなんかくれない。さらに構造的に「雰囲気を伝えるもの」ではなく「状況や意志を明確に伝える道具」だからなるべくストレートにクリアーに言うと習慣が身に付いてきたのでしょう。

さらにもう一つ。国民性とかキリスト教的精神と言ってしまえばそれまでですがアメリカ人は基本的に親切です。困っている人がいれば助ける。言葉をかけあって、解決していくというのが身に付いている。くしゃみをしたら「God bless you」から始まり、つまずいたら「Are you OK?」、遠くからエレベーターを目指す人がいたらドアを開けて待っていてあげる。車内から車椅子の人がバスに乗ろうとしているのを見つけ「いまから乗ってくるから席を立って場所を空けてあげて!」と叫ぶご夫人、もっともだという顔で従う人々等。あとどんな下手な英語で話しかけても「無視」とか「聞き流す」という扱いを受けたことが一度もありません。互いに粘って何かの結論を出すまで向き合う。

「空気を読む」とか「察する」とか「暗黙の了解」という七面倒くさい能力を必要とする日本語に比べ、つたない英語での会話の方が変なストレスが溜まらず逆に楽ですね。不思議な事に。

社会が成熟し思いやりや身体的精神的な弱者に理解があり慈愛に満ちていて、その上で個々人が明確な自分の意志を持ち、それを言葉で表現できるようになれば物事はもっと上手くいくのではないか、というのが私の意見です。「遠回し」のバッジで「さりげなくアピール」し、さらにそれを「察し」たり、逆に知っていても「察しないフリをする」。という猛烈にややこしい回路になぜ陥って行くのだろう。道徳の授業かというような注意事項だらけの車内放送の異常な長さ。ヘッドホンを大音量で聞いているためそれに気がつかない乗客という全くもって不毛な現象。痴漢防止策としての女性専用車両もそう。本質的な解決を回避することにかけては非常に熱心で、職人的にその回路をせっせと作る傾向にある。
変な国だなあと、分かるのは外に出てからですね。

0 件のコメント: