2009年12月7日月曜日

傘とゲイとの関係

この土日は久しぶりに完全に休みを取ることができました。締切が迫るのに、なかなか記事をまとめることができず苦しい数週間でした。3ページに渡る巻頭特集。数週間おきに担当が回ってきて、リサーチ、構成、取材、執筆、校正の全てを一手に引き受けるのですが、軸になる「何をどう伝えたいのか」という部分が固まらずブレ続け、そんなものに価値が果たしてあるのか、という自問自答に悩まされ、眠れず、書けず、責任の重さに潰されそうになりながら、まあなんとか発行にこぎ着けることができました。

出来上がった紙面とそれを読むであろう人々の反応を想像しながら、「やればできるじゃん」という安堵と、この恐怖がまたすぐ襲ってくるのだという、無限地獄に気が遠くなりそうになりながら、力が抜け、風邪を引きました。やれやれ。昨日はみぞれまじりの雪も降り、ニューヨークも一気に冷え込んできましたからねえ。

Responsibility means accepting the consequences of your actions.
辞書で見つけたこの例文が頭を離れません。
「責任とは、自分の行動の結果を受け入れることだ」

さて話は変わりますが、先日編集部の同僚と話をしていた時のことです。彼はニューヨーク州の北の方にある(彼いわく”北国”)の大学で、ジャーナリズムを専攻していたのですが、そこでは雨が降ろうと雪が降ろうと傘をささなかったそうです。なぜなら、傘をさしていると”ゲイ”呼ばわれされ、バカにされるから。これには編集部中が「えっ?」となりました。想像するに、随分と田舎の閉鎖的な社会だったのようですが、傘をさす=都会の洗練された人=ゲイ、という極めて単純な思考がそこにはあったようです。彼はニューヨークへ来て、男性が普通に傘をさして街を歩いていることが新鮮に映ったそうです。

私はフィラデルフィアからニューヨークへと、アメリカは大都会にしか住んだことがありません。どちらもゲイコミュニティーがしっかりしており、むしろ誇りをもってゲイであることを主張して生きていける環境ですが、まだまだちょっと田舎へ行くと、こういった差別的な意識が強いのだなと改めて感じました。

それにしても傘もさせないなんて…。キリスト教の思想が根底に流れるアメリカで、さらに田舎へ行けば行くほど敬虔な信者も多く、それゆえ子孫繁栄に全く貢献しないゲイであるということは、許し難いようです。また生理的な嫌悪感も想像を絶するほど強く、悪口や、罵り合いなどで「あいつはゲイだ」とか「お前、ゲイなんじゃないの」というような表現は耳にしますね。言われると相当カチンとくるみたいですし。「あの人ちょっとアレね」なんて、片手の指をそらして頬の前にかざし、オカマポーズで表現する日本って、なんて奥ゆかしいのかしらと思ってしまいます。(その分陰湿だという話もありますが)

一芸に秀でている人が多いのか、あるいはそういった環境が一番仕事がしやすいのか、ビューティー関係や、ダンス、演劇関係者にゲイの人は多いですね。そして、こざっぱりとしていておしゃれで、豊かな感性を持った人が多い。ゲイの友人がもっと欲しいです。一番いいのが、ゲイとなら恋愛沙汰に巻き込まれないこと(笑)。友人として楽しくつきあえる異性を探すというのは、実に難しい。ニューヨークでは特に、誰もがテンポラリーな恋人を探して、ガツガツしているので、楽しくつきあえて、しかも安全な男性の友人を見つけるのは至難の業です。

最近よく思うのですが、ほとんどのアメリカ人にとって、日本人の若い男性はゲイに見えるんだろうなあって。ひょろっとしていて、眉や髪や爪をいじって、女の子みたいな格好をして、さらに性欲も薄いときたら…。

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