日本人は何かと「心」を大切にします。特に「和の心」とか「侘び寂び」と言うと、茶の湯、茶室、懐石料理、うつろいゆく四季折々の風景など、総括できない何か独特の世界が想像されます。文学を通して、また単純化されたコマーシャリズムの戦略に乗って、なんとなくそのイメージは掴めているつもりでも、その「心」の神髄を知っているのかと聞かれると、少なくとも私は胸を張っては頷けません。
先日散歩中に、小径に面したささやかなガーデンの前を通りました。ツタが這ったアーチの下に、アンティーク調のラウンドテーブルや椅子が置かれ、アフタヌーンティーでも嗜みたくなる素敵な空間。でもちょっと庭木の枝葉や雑草が元気に伸びすぎて、「うっそうとしている」の一歩手前の感じ。
「もう少し手入れをしたほうが良いわね」と連れのアメリカ人に言ったところ、千利休と秀吉の話を知っているかと聞かれました。
「千利休が秀吉を茶会に呼んだ時、弟子が庭を落ち葉一つなくきれいに掃除してしまったんだ。それをみた利休が慌てて落ち葉を撒いて元に戻したんだよ」
このエピソードが詳細に渡り史実に即したものなのかどうかは、私には分かりません。ただその瞬間、雷にでも打たれたような衝撃が体を駆け巡りました。このセリフ、言う側と聞く側が明らかに逆転している。そしてこのタイミングでそのエピソードがさらりと言えるあなた、まだ23歳なのに…。
彼が大学でイースト・アジア研究を専攻し、日本文化に造詣が深いことは知っていましたが、その神髄を生ける肉体として受け止め、言葉に溶かして己の生きる空間を作っていく。簡単に言ってしまうと、私よりずっと日本人らしかったのです。恐れ入りました。
ちなみに彼の愛読書は谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』と、岡倉 天心(覚三)が英語で書いた『The Book of Tea』(茶の本)と、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』だそうです。
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