2009年5月5日火曜日

映画「Tokyo Sonata」を観て

最初から最後まで悲しい映画でした。そして見終わったあと、その悲しみが胸にしこりの様にいつまでも残り、苦しまされた映画でもありました。

アメリカの映画館で、アメリカ人の観客に囲まれ、日本の映画を、英語の字幕付きで見るというのはなかなか不思議なものです。彼らリアクションの大きさと、自身の感覚とのズレに、時折現実に引き戻されるからです。

「おかしさ」がそのまま「おかしさ」であり、ゆえに「悲しさ」でもある、という演出が散りばめられた作品でしたが、その機微がいったいどれだけ伝わっているのだろうという疑問。話し合いを避け、相手を察する。察するが故になにもしない。察するが故に理不尽とも取れる激昂へと誘われる、といういかにも日本人的な心性は、とうてい普通のアメリカ人には分からないだろう、と気になって仕方がありませんでした。

驚かされたのは、父親が子供を殴り飛ばすシーン。会場から怒りに満ちたどよめきが起き、褒めて伸ばす教育が浸透したお国柄からすると、信じ難い光景だったようです。もちろん子供への虐待がないとは言いませんが、わざわざ日本映画を見に来るような意識の高い、ある程度恵まれた知識層において、ということです。

私の胸で疼き続けた悲しみとは、言葉にしてしまうととても陳腐なのですが、そこに「希望」が持てなかったということです。どん底から立ち上がって生きようとする人間の、固い意志が見えなかった。

現実を直視できない弱さを持った人々が、実に他力本願なままプレート運動に身を任せてしまい、歪に堪えきれなくなり激しい地殻変動を起こす。ショック療法で立ち直ったかのように見えますが、結局のところ自助努力で成し遂げたものではない。天賦のピアノの才能を持った次男をサポートするという形で、淡いハッピーエンドらしきものに帰結するのですが、実に説得力に乏しい。でもこの「説得力」の乏しさこそが逆に、(あえて)日本人的な弱さとしては「説得力がある」と言えなくもないのですが…。ピアノの演奏が役者本人ではないことがバレバレで、急に安っぽいテレビドラマ風になってしまう。深読みすると、そこまで計算に入れた上での演出なのかもしれませんが、そうなるとますます哀れで、ダメな日本人像を突きつけられたまま、消化不良の感覚を「悲しみ」をして持ち続けさせられる。

映画の感想をメールで交換した友人の指摘がなかなか鋭かったので紹介します。

I also thought it was interesting that three of the family members, the mother and the two sons, had their redemption through something with a non-Japanese origin: the one son in Iraq , the other son with European piano music, and the mother through a ride in a Peugeot (French car). The father’s was a little unclear, it seemed like he had been lying there for days because he was covered in leaves. Almost like he was dead and then came back to life.

まあ私の「他力本願だ」という感想と一致したのですが、混沌とした状況を打開するには、意識するにせよしないにせよ、ガイアツに寄らないと無理だということでしょうか?

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