2009年3月16日月曜日

一時帰国の感想

先日、2週間ほど日本に帰った時に強く感じたのですが、特に東京という大都会を歩いていると、人々が大衆という”無”の中に個を溶かして、意志ではなく”気配”を漂わせて、理解ではなく”察する”という圧力をかけたりかけられたりしながら、暗黙の均衡を全体で保とうとしている。そのバランス感覚たるやすごいもので、これが共産主義国的な教育を施した結果でないとしたら、逆に洗練された感性の文化なのかしらとも思いました。(いや多分ある意味共産主義的な教育を施しているのですが)自己主張するのを美徳とせず、なんらかの型(満員電車の通勤客、会社員、OL、無言の通行人)に自分を当てはめて演じきることにより、1日を無難に回していく。様式美というか型の文化というか。

見た目だけではありません。話し方からも同様の印象を得ました。婦人服売場の販売員はなぜあんな独特の高音で「いらっしゃいませー、こんにちはー、どーぞー。ご覧下さいませー」と語尾を伸ばしてオールリピートをかけてくるのだろう?チェーンのレストランや飲食店でも同じく浴びせされる「笑顔」と「かけ声」。何か言うと「へー、そうなんですねー」という小馬鹿にしたような相槌。この薄っぺらい接待の型に順応することによってマシンとなり、考えることを放棄しているとしか思えない、消費者もそのthe 接待を受けることにより「私は消費者である」という安心感を得ている。
私がここにいられるのは、その役割をもらえたから。

日本国内だけでなく、ニューヨークにある日系の人材派遣企業に転職し、最近研修を受けたばかり友人の話にも衝撃を受けました。その会社のイメージにあった社員を作る為にまずは、見た目、そして所作から教え込んでいくのですね。お酒のつぎ方、大きすぎるイヤリングはダメ、お化粧は程々に、カラフルなバッグは相手先の印象を悪くしたり、汚れるのではと気にされてしまうから、そういった心配を先方にかけないために色は黒にすること。あなたニューヨークにいるのに…。自由とファッションの街にいるのに…。

どうなんでしょうね。こういった研修をフムフムと問題意識を持たずに聞き、受け入れていけるものなのでしょうか?日本にいる日本人の人々は。私はこのバッグのくだりには特に疑問をもってしまいましたが。お洒落なバッグを持っていたら、「素敵ですね!」をそこから話題が盛り上がり、ビジネスも上手くいくのではと思うのですが。なぜそこまで規律を重視し「個」や豊かさを無理矢理消したがるのだろう?

私もかつてセールスの仕事をしていたことがあり、地獄の「マニュアルトーク研修」の劣等生だった記憶がありますから、企業の狙いが分からないわけではありません。

で、そんなことでいいのかな〜と思うのです。型や規範によってオートメーション化された工場で「人材」や、あるいは「消費者」が大量生産され、思考回路まで支配されていく。大きな視点で、おおきな、おーおーきーなー視点で捉えて、考えてみて下さい。果たしてこれで人間として、幸せなのでしょうか?このまま、この国は突き進んで良いのでしょうか?新たな芸術や文化は芽吹くのでしょうか?子供達は幸せに育つのでしょうか?

というようなことを言い出す異分子には変人のレッテルを貼られ、企業や社会にそぐわないということになり、さらに労働者としては、この不況下「特にいりません」と追い払われるのでしょうね。くわばら、くわばら。

ま、ようは私がどう生きるのかが問題なのですが、いままでどう生きてきたか、どう生きてこさせられたかを、どうしてあんなに生きるのが辛かったのかを、母国で他人を鏡に再体験した旅となりました。

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