2014年3月25日火曜日
ウィーンフィル&エッシェンバッハ
少し前になりますが、3月15日(土)にカーネギーホールで行われた、ウィーンフィルのコンサートへ1人で行ってきました。
指揮はクリストフ・エッシェンバッハ。フィラデルフィアオケの公演を観て以来です。
プログラムはシューベルトの『未完成』、マーラーの『交響曲第4番』。
チケットは事前に購入していましたが、観客として変な気負いがなく臨めた希有な経験でした。観客なのに気負うというのもおかしな話ですが、「救い」や「法悦」といったものを過剰に求めてコンサートや展覧会へ行ってしまうことが、わたしにはしばしばあるのです。
そして音楽やアートが”本当に”心の琴線に触れたのか、それとは関係なく自分の妄想の中で果てたのか、どちらなのか訳が分からなくなり、自己嫌悪を咀嚼する、まあ、面倒くさいことになることも多くって。
今回、そういった邪念がない状態、デスパレートじゃない状態で臨めたのがよかった。あるいはそんな邪念を抱かせないほど、演奏がよかったのかもしれません。
久しぶりにプロの仕事だと思えるものを観せてもらいました。
媚も隙も一切ない。そして多分、誰よりも演奏者が楽しんでいる。
観客を置いてけぼりにしないが、こっちにおいでと誘うわけでもない。
その場にいられることに素直に幸せを感じられる、そんな時間。
「いいなあ」と思わず微笑みながら観ていました。実にいい。
マーラーが終わった後、エッシェンバッハは余韻を楽しむようにしばらくタクトを掲げた手を下ろしませんでした。観客も息をのんで拍手をグッと我慢。心地よい沈黙。この時間に全てが集約されていたように感じました。
カーテンコールをスマートに終え、アンコールはなくさっさと引き上げる団員たち。
アンコールはなくて正解でした。消化不良を起こさない程度に腹八分目。でも質への満足感は、量が過剰ではないぶん際立つ。大人の食事の仕方のように、大人の演奏の仕方もあるのですね。
帰り道、マンハッタンの雑踏がいつも以上に色彩を持って迫ってきました。
感性が研ぎすまされるのでしょうか。
地下鉄の隣の駅で乗り込んできて、奪い合うように私の隣の席に中国人の若い女性2人は、ぺちゃくちゃしゃべりながら、ゲーム機でテトリスをしていました。そのゲーム音にさえも、どこか愛おしさを感じました。
私の向かいに立っていた白人の若い男性は、ジャズ・アット・リンカーンセンターのプログラムを読みふけっていました。彼も、私とは違う場所、違う音楽で満たされたに違いありません。口元にバラ色の幸せが灯っていました。
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