2009年10月27日火曜日

E列車午前0時半

ニューヨークの地下鉄はクレイジーだ。
本格的に寒くなる前の集中工事とはいえ、ダイヤだけでなく、その路線を走る電車を突然変えたり、前触れもなく各駅停車から急行にしたり、さらにマンハッタンのど真ん中で終点にしてしまい、車内放送を聞き漏らした客を乗せ、もと来た方向へ戻って行くのには、本当に、本当に、怒りを通り越して卒倒しそうになる。

今夜もいつも利用するR列車はとうに終わっているので、6番列車で51番駅まで行き、長い地下道を歩いて53番駅でクイーンズ方面行きのE列車に乗り、帰宅する予定だった。これまた地獄まで行くのではという、長いエスカレーターを降りて目にしたものは、クイーンズ方面行きのプラットホームに張られたロープ。小さな張り紙によると、工事のためE列車はこの駅には止まらない。クイーンズ方面へ行きたい人は、マンハッタン方向に2駅、ロックフェラーセンターまで戻り、そこで逆方向行きに乗り換えろとのこと。

横を「今から仕事だぜい。ヘイ、元気かい」と、深夜の工事に取りかかる黒人の肉体労働者たちが、口笛を吹き吹きハイファイブをしながら通り過ぎていく。

もう諦めてタクシーに乗ろうかとも思ったが、財布には5ドルしかない。これでは強盗に襲われても、襲った方が哀れというものだ。 同じ罠にかかったと思われる客達が、「shit」とつぶやくのが聞こえる。そりゃ言いたくもなるわ。待つこと10分強。ようやく逆方向の電車が現れた。

さらにようやく、正規の方向のE列車に乗り腰を下ろし、深いため息をついて顔をあげると、正面に座ったインド人の少年がつぶらな瞳で私を見つめていた。そして小さな声で言った。

「Hi」

午前0時半。いったいこんな時間になぜ、こんなに年端もいかない子どもが地下鉄に乗っているのだろう。彼は、半開きの口から見える乱杭歯が汚い、貧しそうな父親と、でっぷりとした肉体を真っ赤なカーディガンで包んだ疲労感の漂う面持ちの母親、そして乳母車でぐずる乳児と一緒だった。母親の同じく真っ赤なマフラーについたボンボンを握りしめ、床につかない足をブラブラさせながら、彼1人キラキラとした瞳で真っすぐ前を見つめていた。それは、家族が背負う重苦しい雰囲気と全く交差しない、夜空に1つだけまたたく星のような美しさだった。仕事中ずっとにらめっこをしていた、子ども服の作り方の本に登場する、媚びた笑みの子どもモデルたちが温室育ちの花だとしたら、彼は月の光をうけて輝く野生の百合のようだった。

お互い目をそらすことができなくなり、時がとまったように見つめ合い、そして彼はもう一回言った。
「Hi」
私も聞こえるか聞こえないかの、小さな声で返した。
「Hi」
きっと私たちは恋に落ちたのだと思う。陳腐で、アホらしい表現かもしれないが、でもそこには確かに言葉にならない胸のうずきが沸き起こり、全身を支配して官能にまで導いたのだ。

列車が最寄り駅に止まり、降りなくてはいけないのが辛かった。もっと見つめていたかった。君を。立ち上がった私を見て、彼は礼儀正しく別れを告げてくれた。

「Bye」

2009年10月19日月曜日

Aさんの漬け物


今夜の最低気温37℉。摂氏に直すと3℃ちょっと。
寒い…。今年のニューヨークの冬は例年になく寒いらしい。秋を楽しむ間もなく、真冬に一気に突入しそうな気配。さらにここ数日、冷たい雨が降り続いている。

1階の住人Aさんとスモーカー同士、玄関先で震えながら会話。大都会の危険と、人の冷たさと孤独について、色々と話してくれた。彼女自身マンハッタンに住んでいる時に、ホールドアップでバッグを盗られた経験も、信用していた人にだまされた経験もある。東京と似て大都会ニューヨークで暮らす人は、常に警戒心から解放されないため、なかなか心を開かない、開けなくなっているのだという。逆に最初からニコニコと近づいてくる人は、警戒した方がいい。下心あってのことが多いから。「でもね」と彼女は続けた。

「私は人への希望を捨ててはいないんですよ」

啖呵を切って仕事を辞め、雨の夜、この先どうしようと途方にくれながら軒下で雨宿りをしていた時、通りすがりの見知らぬアミーゴが振り返り様に声をかけてくれたのだと。

「Don't think too much!」

「ほんとそれだけでね、その後会うこともない人でしたが、でもそこに私は神を見たんですよ。一瞬でしたけど、ぱああっと一気に気持ちが楽になって。私も単純だから…」

またたく煙草の火から、ぬくもりが全身に伝わってくるように感じた。そう、そういうささやかなエピソードに時々救われながら、都会に漂流した難民たちは生きぬいていくのだ。

約束した雑誌を渡すため、部屋に一旦戻ってから、彼女の待つ階下に行くと、スターバックスのプラスチックカップに入れた、自家製の漬け物を持ってきてくれていた。拍子切りにしたニンジンと薄切りタマネギを、鰹節と醤油で合えたシンプルな漬け物。

「こう手でつまんで、ポリポリかじってちょうだい」

それは胸が痛くなるほど、優しい味がした。

2009年10月9日金曜日

悲しみよさようなら

忙しい。猛烈に。
特集企画を考え、綿密なリサーチをし、取材のアポを入れ、外部ライターを回し、自分でも慣れない一眼レフを持って取材をし、原稿を書き、いくつも抱えた担当コーナーから常に新鮮な情報を発信し、信じられないくらい文字数オーバーして入稿される記名記事に外科手術を施し、校正作業やファクツチェックをし、紙面のレイアウトを引き、製作と相談し構成を考え…。
どんなに深夜遅くなっても、編集の仕事は終わらず、容赦なく締切はやってくる。

楽しい。猛烈に。
フィラデルフィアでの約2年は、アメリカに慣れるための準備期間と、疲弊した東京での生活からエスケープする長期休養だったのだと思う。充電期間は終わり機は熟した。今はチャレンジの時。ハードルが高いほど燃える。NYに来て1カ月足らずで、精悍な顔つきになってきた気がする。そう私の顔は変化が早い。数年前の写真を見ると、別人のよう。

NY在住の日本人は約6万人と聞いている。小さな世界だ。誰もが、もがき苦しみ、幸せも悲しみも抱えながら、前に進んでいる。というのを肌で感じる。読者が見える、そこに登場することがステータスになる。メイクアップアーティストも、弁護士も、起業家も、レストラン経営者も、医者も、ダンサーも、料理研究家も、ボランティア活動にいそしむ主婦も。たかがフリーの情報誌といえど、その内容の濃さと読者からの期待値の高さに、雑誌本来の姿を見る。「記事を読んだ人に、アクションを起こさせるのが目的」をいうコンセプトに、「面白くなければ広告は入らないが、クライアントのちょうちん記事は絶対に書かない」という方針に、1つ1つ賛同できる。

底を流れるやさしさがそこにはある。異国の地でともに生きているという連帯感が、私たちを支えている。ナショナリズムでもなんでもなく、必死に生きているというリアリティが。

そう、悲しみが去るのは驚くほど早かった。この世はあまりにも楽しいことが一杯で、悲しんでいる時間がもったいない!

2009年10月6日火曜日

悲しみよこんにちは

失う危機には常にさらされてたけれど
きっと何とかなるはずだと思考を意識的に止めていた
そこに愛がある限り
重ねるカラダと、口をついて出る甘い言葉で
全てが解決できると信じていた
こんなにも、時間と距離と年齢というものが深く重く
ボディーブローのように効いてくるとは
その昔はね、
そんなもの何でもなかったの
盲目の恋に溺れるのはいつものことだけど
私が微笑めば、世界が笑ってくれた
いてくれるだけでいいと、存在を愛でてくれる人の眼差しの中で生きていた
いつから終わりある人生のある一部を今生きているという切なさに
そしてそれが愛する人の人生の一部でもあるという現実に
苦しめられるようになったのだろう
マンハッタンの上にぽっかり浮かぶ満月を見て泣き
深夜の地下鉄に貼ってあった、グッゲンハイム美術館のカンディンスキー展のポスターを見て
またそれが悲しみに憂う月に見えて泣け
涙が枯れた頃に、地下鉄のダイヤが週末は違い
最寄り駅を飛ばして、ビュンビュンと遥か遠くの駅まで来てやっと止まったことに気がつき
こんなに悲しくとも、歩く元気はあるのだわと
以外にタフな自分に呆れながら
帰ってきたのは12時過ぎ

2009年9月30日水曜日

常にそこにある恐怖

ニューヨーク生活4年以上という同僚に、今までに怖い目にあったことがあるかと聞いところ、2年前のクリスマスイブの深夜、プレゼントの山を抱えて帰宅中、いつもは使わない暗い路地を通って近道をしようとしたら、ヒスパニック系の男女二人組に襲われ、銃を突きつけられ身ぐるみはがされた経験があるとのこと。家の鍵まで持っていかれ、部屋にもなかなか入れなかった。クレジットカードはなんとか止めたとのこと。

「ほんと、ホールドアップで何もできませんでしたよ。まあ、私が悪いんですけどね。ニューヨーク生活に慣れてきた頃で危機感も薄れてたし。クリスマスの荷物を抱えた日本人の女性なんて、金持っていそうだし、狙ってくれって言っているようなもんじゃないですか」

と淡々と言うが、背筋が凍った。私も仕事柄連日深夜の帰宅。24時間営業の地下鉄は閑散とし、暗く不気味な空気が漂っている。電車の発着間隔も空くため、駅でぽつんと一人20分以上待ったこともある。英語の勉強のために電車の中で聞いていたiPodも、帰り道では使用を控えることにした。音に気をとられ、背後から忍び寄る悪漢に気がつかなくなるから。もちろん電車でうたた寝なんてもってのほか。

「もし深夜タクシーで帰宅したら、運転手に家に入るまで見ていてくれって頼んだ方がいいですよ。タクシーで家の前まできたところと待ち伏せして、鍵を開けている時に襲い、そのまま家に押し入られてレイプされる事件けっこうあったんですよ。一時期日本人女性がよく狙われてね。駅が近いからいいと思っても、逆に電車の音でかき消され、叫んでも聞こえないから。知っているんですよ狙うやつは。そういうことも」

フィラデルフィアにいた時も、もちろん地域によっては毎日銃声が響いているところもあるらしいが、こうも身に迫る恐怖というのは感じたことがなかった。友人も多く、よく大人数で遊んでいたからかもしれない。ニューヨークで一人暮らしを始めることになり、アパートメントは安全性を第一に考え選んだつもりだった。治安もさほど悪くないし、駅からもすぐだし、ルームメイトは全員日本人女性だし、大家も同じフロアに住んでいるし。だが先ほど帰宅時に玄関先で会った大家に再度、この地域の治安を聞きただしてしまった。

「大丈夫。ここに20年間住んでいるけど、なにも事件なんかなかったよ。危険は路上だけじゃなく、家の中でも起きるんだ。だからうちは誰も招いてはいけないという厳しいルールにしているし、防犯カメラも二台設置して毎日監視しているんだ。だからこっそり友達を連れ込もうとした人にもすぐ注意できたし、今誰が家にいるかも、出勤したのかも分かるんだ。あんたが出勤していくのも見ているよ。いまあんたの階に住んでいる女性のうち二人は日本に帰国しているんだけど、それも全部カメラでチェック済みさ」

と、それはそれで、プライバシーもなにもあったもんじゃないと、ちょっとムカっときたが、まだ引越して1カ月。安全はお金で買うものねと改めて思った次第である。いざという時に頼りになる友人もほとんどいないし…。

マンハッタンの中心部は深夜でもネオンが煌めき、人の絶えることない不夜城だが、クイーンズやブルックリンは少し奥地へ入ると、あるいは数ブロック違うと一気に様相を変える。そして困った時にすぐに声をかけて来てくれる知人がいない。「パーティーもできなければ、友達も呼べないなんて監獄生活みたい」と友人たちは私のアパートメントを笑うが、私はこれでまあよかったのではないかと思っている。

仕事を早く習得せねば、英語ももっと使えるようにならねば、もっと本を読んで賢くならねば、そして自分の身は自分で守らねば。極度の緊張感の中暮らすと、不思議と睡眠時間が短くとも、食生活が不規則でも体調は壊れず、仕事中眠くもならない。夜3時過ぎに眠りに落ちても、朝目覚まし前に目が開いたりする。ぐったりと疲れることもできない。疲れてぼおっとすると注意力が散漫になり、危険だと体が知っているのかもしれない。

2009年9月28日月曜日

ストーンパワー

初めてニューヨークを訪れたのは2003年。一週間の夏休みを利用しての観光旅行だった。自由の女神、MOMA、エンパイアステイトビル、セントラルパーク等を巡り、今宵はブロードウェイでミュージカル、とうきうきしていたら、例の東海岸からカナダまでを襲った大停電にやられた。信号も、地下鉄も、エレベーターも電気系統は全てダウン。街は真っ暗に。テロとの噂に震え上がり、全く通じない英語に焦りを感じ、キャンドルの光で夜を過ごし、予定より一日遅れて、ANAの臨時便でなんとか帰国。

旅の途中、ソーホーへも足を運んだ。軒を連ねる斬新なデザインのブティックに気圧され、入るのも戸惑いウィンドーショッピングをしていた時、一軒のジュエリーショップに吸い込まれるように足を踏み入れた。ディープパープルのアメジストが埋め込まれた、少しごつめの指輪に一目惚れをして購入。以後、右手の中指に毎日つけている。そのころから痩せたせいか、緩くなりグラグラしているが、お守りのようにつけている。

この週末、日本から友人が遊びに来た。いや正確に言うと「日本で知り合った友達が行くからニューヨークを案内してあげて」と、アメリカ人の友人に言われ会うことになった女性。彼女が滞在したホステルの前で会ったのが初対面。すぐに打ち解け、この2日間みっちり共に過ごした。アメリカは初めてという彼女だが、ニュージーランドとオーストラリアに留学経験があり英語は問題なし。海外旅行も慣れていて、逆にガイドを片手に私を引っ張って行ってくれたほど。9月からニューヨークで仕事を始めたものの、遊ぶ暇が全くなかった私にとって、2回目の観光となった。

57番通りの「ジョーズ上海」で小龍包に舌鼓を打った後、グラウンドゼロまでひたすら歩いた。互いの人生、仕事、悩みまで全て話し尽くしたころ、ソーホーにたどり着いた。そしてあのジュエリーショップを見つけたのである。記憶が堰を切ったように溢れ出す。全てがあの日のままだった。店員に「6年前にここで購入したのよ」と指輪を見せると、大喜び。石は違ったが、同じデザインの指輪をまだ扱っていた。指輪が私を再びニューヨークに呼び寄せてくれたのだと、思った。

彼女は十字をかたどった繊細な淡い緑のネックレスに心を奪われた。こんな高額なジュエリーなんか買ったことがないわと、そわそわしながら、狂おしいまでに見開いた瞳は真剣そのもの。美しかった。宝石を選ぶ瞬間の女性はこんなに美しいのかと、同性ながら惚れそうになった。白い肌をバックに石はケースの中より輝きを増し、鏡の中の瞳には決意がみなぎる。

「買うわ。着けた瞬間にものすごいパワーを感じたの」

深夜のフライトで帰国する彼女と、ハグをして別れたのは午後9時。「楽しかった。また来たいなあ」とつぶやく彼女。胸で十字がウインクしていた。大丈夫。きっと彼女もまたこの地に来ることになる。石が呼び寄せてくれるはずだもの。

2009年9月21日月曜日

フジコ・ヘミングというアイドル













恐ろしく冷房の効いたホールで、鏡獅子を彷彿とさせる、モシャモシャ頭に奇抜な色彩とデザインの服を纏った老女が、風邪気味で薬を大量に摂取していると言い訳をしながら、鼻をかみかみ(さらに鼻紙をステージに落とし、蹴飛ばして隠そうと試みていた)披露する、非常に不安定でミスタッチの多い、独特のこぶしを効かせたショパンやリストを鑑賞した。観客9割が日本人で、その演奏の善し悪しとは何ら関係なく、そこに彼女がいるということに深い感動を覚えているようだった。

というのが、正直な感想だった。先週金曜日の18日夜、リンカーンセンターのアリス・タリー・ホールで開催された、フジコ・へミングのピアノリサイタル。『ラ・カンパネッラ』が大ヒットし、またその数奇で苦悩に満ちた半生に、多くの人が胸を打たれた。というのは有名すぎる話。でもたぶん日本人の間で有名というだけなのだろう。

「黒山の人だかり」とは、日本人の髪が黒いから使える表現なのだということを、初めて実感した。ホールを埋め尽くしたニューヨーク在住の日本人、数百人。ロビーでも日本語しか聞こえない。

ドビュッシーの『ベルガマスク組曲』、ベートーベンの『テンペスト』、ショパンの『夜想曲第1番変ロ短調作品9−1』、『黒鍵のエチュード』『別れの曲』、バッハの『主よ、人の望みの喜びよ』、リストの『ため息』など、超がつくほどメジャーな楽曲の数々。身を乗り出して聞けない自分に気がつく。音に乗って、辛さが伝わってきてしまうのだ。体調が優れない中、無理して弾いているんだなあ、と。

そしてお待ちかねの『ラ・カンバネッラ』。ここでフジコは踏ん張った! 全神経を集中させ、床の鼻紙など気にならなくなるほどの、ぐいっと引き付ける芯の通ったパフォーマンスを見せた。満ち潮のように広がるスタンディングオベーション。花束や手紙を持って駆け寄るファン。涙ぐむ人も。

マイクを持って挨拶する彼女。最初は日本語で、次に英語で話し始めたが、途中からドイツ語に変わってしまい、英語はあまり得意ではないとみた。アンコールに『亡き王女のためのパヴァーヌ』ともう一曲弾いて終了。再びスタンディングオベーション。そして楽屋に走るファンたち。CD売場にも列が。

フジコ・ヘミングはピアニストというより、「アイドル」なのだと思えば全てが納得のいくショーであった。風邪を引いていても来てくれた。渾身の力を振り絞り最後まで頑張ってくれた。異国の地で生きる我々NY在住の日本人に、勇気を与えてくれた。有難うフジコ。あなたがそこにいるというだけで、私は幸せです。

ただそれは多くのアイドルと同じく、あまりにもひいき目に見ないといけない演奏内容であったことは否定できない。世界のクラシックファンを魅了する、綺羅星のごとく輝く名ピアニストたちと、比較する対象ではないということが、私は残念だった。通の方々はとうに知っていたことなのだろうが。

帰りの地下鉄の駅で、楽しげにサックスを吹いていたお兄さんの方がずっとよかった。ゴウッという電車が到着する音にかき消されてしまっていたが。