2014年10月27日月曜日

Pollo a la chilindrón


Today's dinner. Pollo a la chilindrón (chicken chilindrón style) cooked by my husband with Côtes du Rhône.

夫が作ってくれた夕食。「ポヨ・ア・ラ・チリンドロン」(鶏肉のチリンドロンスタイル)。

ニンニク、タマネギ、ペッパー(ピーマン)、トマト、ピメントン(スペインのパプリカ粉)などで作ったソースに、グリルした鶏肉を加えて低温で煮込んだ、スペインはアラゴン州のおふくろの味。

今回は隠し味に日本酒、醤油、みりんを使ったそう。その影響か、トマトやペッパー、タマネギの甘みの中に、味噌のような独特のコクが、でんと座ってにらみをきかせているようだった。

合わせたのはフランス南部のローヌワイン。

2014年5月19日月曜日

私を満たす時間


満たされた時間1
こよなく愛する彫刻家、安田侃さんのニューヨーク初の個展のレセプションへ。ご本人ともお話でき、久しぶりに気が遠くなるような幸せに全身が粟立った。一つ一つの作品に手のひらを這わせると、石の鼓動を感じることができドキドキ。ごくたまにだけど、生きていてよかったという瞬間が訪れることがある。No art no life.



満たされた時間2
内田光子&バイエルン放送交響楽団による、ベートーヴェンのピアノコンチェルト4番@カーネギーホール。内田がアンコールで軽やかに奏でたモーツァルトが、泣きたくなるほど美しかった。木漏れ日が水面に反射してキラキラ輝く清流が、体という森の中を抜けていくようで、突き抜けるような多幸感に支配された。

Performers
Bavarian Radio Symphony Orchestra
Mariss Jansons, Chief Conductor
Mitsuko Uchida, Piano

Program
BEETHOVEN Piano Concerto No. 4
SHOSTAKOVICH Symphony No. 5

2014年5月12日月曜日

初夏のセントラルパーク


これぞ初夏のセントラルパークという光景が広がっていました。


新緑が目にしみます。後ろはプラザホテル。

2014年5月3日土曜日

ゴーギャンが憑依

昨日、MoMA(ニューヨーク近代美術館)で開催されていた、「Gauguin: Metamorphoses」(ゴーギャン: メタモルフォーゼ展)に行ってきました。

メタモルフォーゼとは「変質」「変容」という意味で、ポール・ゴーギャンの作品を、版画や習作、木製やセラミックの彫刻などをメーンに時系列に並べ、彼の作品のテーマや手法を深く探求するという企画でした。
ゴーギャンが受け入れがたい現実と妄想のはてに創り出した、薄暗い迷宮に迷い込んでいくような感覚にとらわれる、なかなか凄みのある展覧会でした。

ゴーギャンは楽園を求めて南太平洋にあるタヒチ島に渡ったものの、フランス領となっていた島には彼が求めていた美しい世界はなく、貧困や病気に悩まされ、絶望と失意の中で作品を作り続けたことはよく知られています。
暗さを湛えた色彩で描く、タヒチの神々や女性たちの絵や、『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』といった大作については、わたしもそこそこの知識はありました。

しかし各作品の裏にうごめく、彼独特の悪魔性、エロティシズム、島の神話とキリスト教的世界感の融合といったテーマに関しては、この展覧会でより深く知ることとなりました。

ときおり描かれるキツネは「猥褻さ」、および「彼自身」のシンボルであるといった情報は、知るのと知らないのでは、作品の「意味」がまったく違ってきます。

最も強烈だったのは、5歳児くらいの高さはあろうというセラミック製の彫像「Oviri」(オヴィリ)。
これはタヒチの言葉で「savage: 野蛮人」を意味し、女神をかたどっていますが、あくまでゴーギャンが妄想の中で作り上げたもの。タヒチの神話には現れません。

血まみれのオオカミの上に立ち、片手に死んだオオカミの子供を持った女神は、相手を射抜くようであり、うつろでもあるような、気色の悪い大きな目を見開いています。
背筋が凍るような恐怖を覚えました。
ゴーギャンはこれを、彼自身とみなしたそうで、客死したマルキーズ諸島の墓の横に、そのブロンズ像が立っています。

彼が暗闇の中を掘りながら進み、最後まで光を見つけて出ることの出来なかった、狂気じみた人生というトンネルを、短時間で追体験したという感じで、どっと疲れが押し寄せてきました。
これはキュレーターの企画力の勝利だと思います。

「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」
ゴーギャンの怨念のように、わたし自身もこのテーマを背負って今後も生きていくのだと、再認識した次第です。

2014年4月15日火曜日

アルメニア人ピアニストとシュトラウスの夕べ



金曜日の夜に行ったミュンヘンフィルのコンサートは、当初予定されていたロリン・マゼールが病気で降板したため、急きょ、ロシア人指揮者、ヴァレリー・ゲルギエフが登場。

会場のカーネギーホール前には、彼の政治的方向性に反対する人々が集まり「国に帰れ」「ゲルギエフよ恥を知れ」「ゲルギエフはウクライナの戦争を支持しているし、同性愛者の敵だ」などとシュプレヒコールをあげていた。

こんなところまで政治の波がと、怒りがわく。ゲルギエフはこの日、このコンサートのために到着し、リハーサル1回のみで臨み、翌朝5時には帰国するという超タイトなスケジュールで来てくれたのに。くだらんことを叫ぶ前に音楽を聞け。彼の存在意義は政治的な方向性ではなく、その演奏にあるのに。

やや憤慨しながら、バルコニー席までふうふう言いながら階段で上がり(カーネギーホールでは老若男女、基本的には階段で移動。安い席ほど、階段で高く高く登らないといけない)、席に着いたら、隣の席の青年が話しかけてきた。

「君は音楽関係者?それともいちクラシック音楽ファン?」
「いちクラシック音楽ファンの方だけど、あなたは?」
「ピアニスト兼、作曲家なんだ。主に現代音楽を作曲しているのさ」

アルメニア出身のその青年の名前はカレン・ハコビアン(Karén Hakobyan)。17歳でカーネギーホールデビューを飾って以来、世界各国で演奏している(らしい、後でウェブサイトで調べたところによると)

プロの音楽家を前にして、本日のプログラムさえ、ろくに予習してこなかった、即席クラシック音楽ファンは、何を話したらよいか分からず少々焦る。が、たぶん彼なりにレベルを落としていろいろと教えてくれて、一緒に鑑賞出来て楽しかった。

ちなみにプログラムはリヒャルト・シュトラウス一色。
「ツァラトゥストラはかく語りき」
「ブルレスケ」
「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」

人生でこんなに長時間シュトラウス漬けになったことはないというほど、みっちり奈良漬けのごとく漬けられた。特に「ツァラトゥストラはかく語りき」は圧巻だった。なんという楽器の多さ。バリエーションの豊かさ。多分CDだったら長時間聞くのが少々辛いこの曲、全パートを見下ろせるバルコニー席から見る生演奏だと、実に興味深いものがあった。カレン青年も「この曲は素晴らしい」と舌を巻いていた。

「ブルレスケ」はピアノ協奏曲。
「ほら、だいぶオケの楽器が減ったでしょう。あまり楽器があるとピアノの音が聞こえなくなっちゃうからね」
と耳元でささやくカレン青年。確かに、オケの4分の1くらいは退場した。
「普通ピアノ協奏曲は、ピアノが休んでオケが演奏するパートがあるんだけど、この曲はピアノの演奏部分が長くて、さらに難解だからタフな曲なんだよ」
そういう解説付きで見られるとはなんとも贅沢である。

ピアニストはエマニュエル・アックス。妻が日本人であることから、日本での認知も高いらしい。カーネギーホールの常連。アメリカ在住のユダヤ系ポーランド人でなんとウクライナ生まれ…。ゲルギエフと組むことは心中穏やかではなかったのか、それとも芸術家同士、そんなことは関係なく最高の音楽を編み出すことのみに集中出来たのか。即席いちクラシック音楽ファンとしては後者であることを願ってやまない。

3曲の中で、個人的に楽しめたのはこの「ブルレスケ」。ピアノとティンパニの対話が実に愉快。コミカルで発見の多い曲だった。空耳かもしれないが、ティンパニの音すらドレミで聞こえた。(絶対音感は昔はあったが、最近は自信がない)。

と、なんだかんだ楽しんで終わったコンサート。ゲルギエフに心から拍手を送り、カレン青年ともさよなら。「5月にニュージャージー州でボクのコンサートがあるんだ」と誘ってくれたが、あまりにも遠く車がないと行けない(クラシック音楽に全く興味がない夫が運転して連れて行ってくれるとは思えない)ので、「多分無理だわ」と告げる。

来年には初の日本での公演もあるから楽しみとのこと。彼の名前を見たら応援してあげてください。

ちなみに彼のウェブサイト(英語です)はこちら。開くと彼のピアノ演奏が流れます。
http://www.karenhakobyan.com/Home_Page.html

2014年3月25日火曜日

ウィーンフィル&エッシェンバッハ



少し前になりますが、3月15日(土)にカーネギーホールで行われた、ウィーンフィルのコンサートへ1人で行ってきました。

指揮はクリストフ・エッシェンバッハ。フィラデルフィアオケの公演を観て以来です。

プログラムはシューベルトの『未完成』、マーラーの『交響曲第4番』。

チケットは事前に購入していましたが、観客として変な気負いがなく臨めた希有な経験でした。観客なのに気負うというのもおかしな話ですが、「救い」や「法悦」といったものを過剰に求めてコンサートや展覧会へ行ってしまうことが、わたしにはしばしばあるのです。

そして音楽やアートが”本当に”心の琴線に触れたのか、それとは関係なく自分の妄想の中で果てたのか、どちらなのか訳が分からなくなり、自己嫌悪を咀嚼する、まあ、面倒くさいことになることも多くって。

今回、そういった邪念がない状態、デスパレートじゃない状態で臨めたのがよかった。あるいはそんな邪念を抱かせないほど、演奏がよかったのかもしれません。

久しぶりにプロの仕事だと思えるものを観せてもらいました。
媚も隙も一切ない。そして多分、誰よりも演奏者が楽しんでいる。
観客を置いてけぼりにしないが、こっちにおいでと誘うわけでもない。
その場にいられることに素直に幸せを感じられる、そんな時間。
「いいなあ」と思わず微笑みながら観ていました。実にいい。

マーラーが終わった後、エッシェンバッハは余韻を楽しむようにしばらくタクトを掲げた手を下ろしませんでした。観客も息をのんで拍手をグッと我慢。心地よい沈黙。この時間に全てが集約されていたように感じました。

カーテンコールをスマートに終え、アンコールはなくさっさと引き上げる団員たち。

アンコールはなくて正解でした。消化不良を起こさない程度に腹八分目。でも質への満足感は、量が過剰ではないぶん際立つ。大人の食事の仕方のように、大人の演奏の仕方もあるのですね。

帰り道、マンハッタンの雑踏がいつも以上に色彩を持って迫ってきました。
感性が研ぎすまされるのでしょうか。

地下鉄の隣の駅で乗り込んできて、奪い合うように私の隣の席に中国人の若い女性2人は、ぺちゃくちゃしゃべりながら、ゲーム機でテトリスをしていました。そのゲーム音にさえも、どこか愛おしさを感じました。

私の向かいに立っていた白人の若い男性は、ジャズ・アット・リンカーンセンターのプログラムを読みふけっていました。彼も、私とは違う場所、違う音楽で満たされたに違いありません。口元にバラ色の幸せが灯っていました。

2014年3月22日土曜日

アンティチョークな夜



Aragonese huevos escalfados con alcachofas esparragos y jamon.

Aragon style poached egg with artichokes, asparagus and jamon.

深夜に夫が作ってくれた、地元スペイン・アラゴン州スタイルの、アンティチョークとアスパラガスとハモンのシチュー、ポーチドエッグ添え。

アンティチョークって可食部はほんのちょっとなのね。夫曰く「ハモン(生ハム)はかつお節のような役割」。

疲れた体に優しく染みる味でした。