2008年11月25日火曜日

音楽のある日常


昨日は古い町並みの残るオールドシティーエリアにあるOld Pine Street Churchで、フィラデルフィアオーケストラの室内楽コンサートを堪能してきました。日頃から感じている事ですが、オーケストラと市民の距離が本当に近い。こういったオケのメンバーによる室内楽のコンサートも教会等でよく開催されており、そのお値段もとてもリーズナブル。コンサート後にはワインを片手にメンバーと話すレセプションもあったりして、それがさして特別なことではなく、日常に音楽が溶け込んでいるというのが本当に素晴らしいと思います。

日本にもNHK交響楽団や水戸交響楽団など有名なオケはあるのですが何故だか敷居が高く、あと舶来モノのイメージがあるからでしょうか?海外オケの来日公演の方が格が上という印象が拭えず、そしてもちろんのこと様々な経費がかかっているため料金も高い。コストパフォーマンスを過度に期待して失望し、辛口のコメントを口にしてしまうという悪循環があるような。

いい演奏会でした。面白かったのが楽団員が自分で曲の紹介をすること。1735年製のストラディバリウスを手にしたバイオリストによる、クライスラーの『愛の喜び』( Liebesfreud)と『愛の悲しみ 』(Liebesleid)はため息が出るほど美しかったです。なんとクライスラー自身が使っていたバイオリンをレンタルしているんだとか。

また別の楽曲の演奏中にクラリネットのリードが詰まり音が出なくなり中断。「ごめんよ」と言って直してから再度スタート。そんなことも全て楽しいんですよね。ステンドグラスから差し込む光、それに反射して輝くハープ。至福のひとときでした。

そしてコンサート後、仲良くさせていただいているオケのピアニストと主席オーボエ奏者の方と一緒に素敵なレストランへ。どちらも本当に才能のある、通常でしたら雲の上の存在なのに、非常に気さくで若い日本人をかわいがって下さり、会うたびに話が盛り上がるのが嬉しい。気持ちよく酔っぱらいながらフレンチと美味しい会話に舌鼓。

この夏、彼らは日本を含むアジアツアーへ遠征していたのですが、中国でのエピソード。どのレストランへいっても「ご飯」が出てこない。頼んでも「ない」の一点張りで理由を教えてくれない。そして日本へ言った時になぜ米がないのかが判明。ちょうどオリンピック前で国をあげてその準備に取りかかっていたので、水の調達が大きな課題となっており、水を大量に使用する米作りは禁止になっていたんだとか。おかげで国中から米が消え、農家は仕事を失い大変なことに。

「中国は随分変わったよ。僕は20年間ツアーで見ているからね。最初に行った時は男性も女性も人民服を着ていて殺風景だったよ。そしてみんなもの至る所でタバコを吸っていたんだ。タバコ産業は国営だったからね。ところがぴたっとそれが無くなった。ある日突然、路上での喫煙が禁止になったんだね」

ちなみにオケが演奏を開始する前にチューニングをしますが、その最初の音をコンサートマスターの指示で出すのはオーボエなんですよね。彼がその担当。席によっては見えないけれど、でも音で彼の存在を感じる。ちょっとドキドキする瞬間です。

年末には是非我が家にお越し下さいな。大したものは作れないですけど、とお誘いしたら2人とも非常に喜んでくれました。じゃあ僕はワインを持っていくねと。今から楽しみです。

2008年11月11日火曜日

声優デビュー

世の中には本当に色んな仕事があるものだと。今日はなんと声優デビューをしてまいりました。アニメや映画ではありませんよ。世界中で利用されることを目的とした開発中の薬を治験をする際に、担当医がコンピューターや電話から問い合わせをした時に流れる日本語テープの録音。なんと20カ国以上もの言語に録音しているとのこと。

ネイティブの日本人女性。素人であることが条件でひょんなところから依頼がきまして、当日までの全てのやり取りとメールで済ませてしまい、担当者に会うのも今日が初めて。途中何度もこれで全てが嘘だったらどうしようと不安になりました。まあ事前に日本語の原稿がメールで着ていたし、実在する研究所であることは分かったので思い切ってトライ。ただ場所が遠かった。久々に6時起きをして電車とタクシーでトータル1時間半。フィラデルフィアのかなり北の郊外の、もう野生のガチョウが群れをなして歩いている以外何もないところにドーンと大きな医療研究所が。たどり着けただけでほぼ目的は達成したような感じ。

恐ろしく静まり返った殺風景な白いオフィスで私を出迎えたのは、紫色のスーツに身を包んだスペイン系の女性。説明もそこそこに早速レコーディングをしましょうと連れて行かれたのは聴覚検査でもするようなガラスケースの中。箱の外のコンピューターの前に座った彼女が「Go」という度にマイクに向かって

「入力した被験者IDはあなたの治験実施施設で無効です」
「この層別で無作為化できる被験者の数が最大に達しました」
「盲検の解除をしたい薬剤の番号を入力してください」

という自分でも何を言っているのかさっぱり分からないセリフを吐き続けました。一番長かったのは

「このオプションを選択すると盲検は解除されます。被験者が受け取る治験薬の種類を知ることで、その被験者の治療に影響が出る場合にのみ、被験者の盲検の解除をおこなってください。IXRSを使用して盲検の解除をする前に、可能な限り治験依頼担当者に連絡をしてください。一度盲検が解除されるとこの被験者は次回からの薬の割り付けができなくなりますのでご留意ください」

まあよく噛まずに言えたものだと(笑)。相手も日本語が分からないのでもうちょっと高めの声で言ってという以外には何の指示もなく、再録音の希望はこちらからの自己申告のみ。大丈夫なのかこれで?もちろん最後に全部聞き直してチェックはしましたが、自分の声を聞くのはあまり気持ちの良いものではありませんね。

さらに続いて基本的な単語のみのレコーディング。ひたすら例の「Go」のあとに「0」から「100」までの数字を言う。「1000」、「10000」といった大きな単位。曜日を言う。時刻・秒数を言う。「#」「*」「スペース」「小数点の『.』」等々。そして部屋を変えて今度は別の担当者によるこれらの言葉の組み合わせのチェック。よく電話問い合わせで自動音声システムが回答する、あれのようなものです。空港のフライトインフォメーションを想像してみてください。
「お探しのフライトはノースウェスト、1、0、4、8便ですね」というように大きなケタの数字がブチブチと切れて発音される。ああ、こうやって言葉を組み合わせていたんだと。先ほど「千」とか「億」とだけ言わされたのがここに反映していたことが判明しました。
「587993829」が「ご おく はっせん ななひゃく きゅうじゅう きゅう まん さんぜん はっぴゃく にじゅう きゅう 」

細切れにされてむりやり再構成された私の声には、もうまったく人間らしさの欠片もありません。「意味」の重みを嫌うあまり構造や既存の価値観の破壊に走った現代芸術の、さらにその上をいく感じでした。

そして最後に「1st」「2nd」「3rd」といった序数を日本語ではどう表現するのかと聞かれ、まあ何を数えるかによるけど基本的には数字のあとに「番」(ばん)をつければ大丈夫と回答したところ、じゃあその「番」だけもう一回録音してきてと言われてしまいました。例のガラスケースに戻り一言

「ばん」

はい終了。まるで「ワン」と吠えているかのようで、しばらく笑いがとまりませんでした。休みなしで4時間ぶっつづけですよ。そして最後は「ばん」。
いやあ、いい勉強になりました。

帰りのタクシーを呼んでもらい駅についたら電車は1時間後。駅の周りにはレストランもカフェもなにもなく、ひらすら凍えながらひとりホームで電車待ちました。今夜はよく眠れそうです。それにしてもいったいどんな方が私の日本語ガイドを聞きながら治験に励まれるのでしょうね。

2008年11月10日月曜日

日本的社会の逆洗礼

例のASN(米国腎臓学会)の派生的な会議兼意見交換パーティーのお手伝いのお仕事を先日してまいりました。製薬会社さんが主催となって日本人のドクターたちを接待するのが主な目的。私の仕事は受付や会場でのご案内、立食パーティー会場でのアシスト、お帰りのお車の手配等。いやあ、久々に日本社会の洗礼を受けましたね。

まずは代理店の社長直々のスタッフへのご挨拶。
「我々の会社のモットーは『気配り、目配り、サービス業です』。規模は小さくとも日本一のサービスを提供していると自負しております」
ううううっ、久々に聞いたぞ!気配り、目配り。そして大切なのは「笑顔」。日本のサービス業ってそうだったわと身の引き締まる思い。私も転職が多く、サービス業も経験したことがあるので、脳の中にしまっておいたタンスの扉を開けてぱんぱんと埃を払って、にっこり。できた!そうそうこの微笑みよ。アメリがでガハガハ口を開けて笑ってるから、ちょっと錆び付いたかと思っていたわ。

そして姿勢正しく立ち、指先まで神経を行き届かせ、お話をうかがう時は軽く頷きながら真摯な瞳でお顔を拝見。決して相手の目を穴のあくほど見つめてはいけない。だって偉い先生方ですもの。高いサービスは受けて当然と思っていらっしゃるわ。

そして先生方のご到着。50人もいらっしゃれば大満足と思っていたのに、なんと100人以上お越しになり代理店の皆さんもピリピリムードに。会場に急遽追加で椅子を入れたり、立食パーティーでのお食事を追加したり目が回るほどの忙しさ。

そして悲しい!と思ってしまうのが、きっと自分も日本では同じように振る舞っていた「軽く無視する」人々。悪気はないのです。よく分かっています。でも何かをして差し上げたら目を見て笑顔で「Thank you」が当たり前のアメリカにいると、壁を見るかのような目で「ああ分かった」と言う風に顎を少し動かしてそのまま素通りされてしまうとショックなんですよねえ。これが。

もちろん中には丁寧にお礼を言って下さる方や、雑談にいらっしゃる方もいらして、そんな時は本当に嬉しかったです。日本語で会話する事自体少ないですからね。

名簿を見ながら出席者のチェック。北は北海道から南は九州まで、本当に色んな場所からここフィラデルフィアに集結されたんだなあと不思議な感動に包まれました。

全てのお客様がお帰りになられて、余った寿司をつまみながら一息。先ほどの社長。さすが「気配り」がモットーだけあって、我々現地日本人スタッフのためにとらやの一口サイズの羊羹と、美味しい日本茶の差し入れも持ってきて下さっていました。美味しい。さすが日本のお菓子はデリケートで奥が深いなあ。とふと谷崎潤一郎の『陰翳礼讃 』のくだりを思い出しました。

「だがその羊羹の色合いも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへと沈めると、ひとしお瞑想的になる。人はあの冷たく滑かなものを口中へふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くはない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う」

そんな耽美的な世界観を愛してやまなかった時期もあるのに、いま私にその繊細さは残っているのかしら。アメリカナイズされた雑な人間になってしまっていないかしら。

とまあ、色々と逆カルチャーショックを感じた日でございました。

2008年11月8日土曜日

空港にて

フィラデルフィアではいま、ASN(The American Society of Nephrology :米国腎臓学会)という大きな学会が開催されています。世界各国から集まった関係者が首から学会のネームタグを下げ、同じ学会マークの入ったショルダーバッグを持って街を歩いているのをよく目にします。もともとアカデミックな街ですが、さらにその雰囲気が高まり人口も一度に増えて、なんだかわくわくしてきます。

日本からも約500名のドクターたちが到着。こういうときに重宝するのが現地在住の日本人。ということで私にもお声がかかり、お小遣い稼ぎに奔走。ここ数日様々なお仕事が入っているのですが、一昨日は日本からお越しになった17名のグループを空港からホテルまでお連れする任務を引き受け、まあ無難にこなしてまいりました。ただ久しぶりに日本語の敬語を使うと舌が回らなくなっているのに気がつきヒヤヒヤ。あと先に英語の単語が出てくるのに日本語でどういうのか分からない場合もあり、このまま行くと日本語も英語もアヤシい人になってしまうと、ちょっと危機感が。

空港でお客様をお待ちしていたときの話。突然、黒人の係員の男性に
「あんた日本語話せるの?」
と話しかけられ、できるよと答えたところ
「あそこを歩いている男性が困っているから助けてあげて!」
と。
「どの人よ?」
「いやもう随分先まで行っちゃったけどあのシルバーの鞄を下げている人さ」
まわりのお客さんもあの人だよと教えてくれ、よく分からないままダッシュ。追いついて
「あの、日本人の方ですか?なにかお困りと聞いたのですが」
と非常に唐突な質問をしてしまいました。結局ご友人のご到着の便を待つのをやめて先にセンターシティまで行こうとしている同学会の関係者の方であることが分かり、電車内での切符の買い方がお分かりにならなかっただけだったので、簡単にご説明して終わり。戻ったところ例の黒人のおじさんに「会えたかい?」と聞かれたので両手で大きく「マル」。「Thank you!」「No problem at all!」

まだ飛行機が到着しないので、ベンチに腰掛けて待つ事に。大きなカートを脚で支えながら、隣に座っていたでっぷりとした白人の初老の男性と世間話。
「誰を待っているの?」
「奥さんだよ。フィリピン人でね、国に帰っちゃって2ケ月も帰ってこなかったんだ。信じられるかい。2ケ月だよ。あんたの旦那が2ケ月も帰ってこなかったらどう思う?」
「いや、別にお金さえ置いていってくれたら気にしないよ。毎日遊んで暮らすわ」
「そんなもんかねえ。これから車でデラウェア州の家まで連れて帰るんだ」
「デラウェア州と言えば、ジョー・バイデンじゃない。オバマ勝ったね」
「ああ、そうだね」

(露骨に嫌な顔をしたので、この人は共和党支持者だろうと踏んでこれ以上深入りしない事に。やはり太った白人男性は共和党支持者が多いのだろうか?)

「あんたは誰を待っているのさ」
「日本から17名。ASNの学会関係者の方が来るから、ホテルまでお連れするのよ」
「そうかい。俺も昔海軍で日本にいたんだよ。三沢基地とか横須賀とか行ったねえ。3年くらいいたよ」
「どのくらい前の話なの?」
「そこで子供が生まれたから約21年前かな。それから日本も変わったんだろうね。あれっきり行っていないよ」

(遠い目をする彼。日本語はほとんど覚えていないとのこと。そして唐突に)

「やっぱりお辞儀(bow)するんだろう。あんたお客さんに会ったら」
そうか。日本人のイメージというのは挨拶時にペコペコお辞儀をするというものなのか。

そしてお客様ご到着。私がお辞儀をしながらご案内しているのを、「ほら」という顔で観察している彼。その彼の元にも同じ便で到着したフィリピン人妻登場。明らかに彼より若かい。再婚かな?むっちりとした、あまり育ちのよくなさそうな不満げな顔の女性でした。

空港からホテルまでバスで送迎したドライバーはカンボジア人の男性。初めて一緒に仕事をしたのですが、彼のカンボジア訛の英語が非常に聞き取りづらく、28年もアメリカにいるというのにこんなにも抜けないものかしらと驚きました。非常に親切で協力的なドライバーだったので仕事はスムーズに終了。

そしてそのあとボスから聞きました。彼はカンボジアでは兵士で何人も人を殺してきたのだと。それが嫌でアメリカに逃げてきた。
「彼は優秀でね。うちのワン オブ ザ ベスト ドライバーの1人だよ。ハハハ…。でも心の中にはそういう闇があるんだよ」

2008年11月4日火曜日

『9.11のジャスミン』11月4日発売!


2001年9月11日の朝。アメリカのみならず世界中を震撼させた同時多発テロ事件のその瞬間に、ワールドトレードセンターと目と鼻の先で人生が変わる体験をした日本人女性がいた。

遠藤明子さん。ニューヨーク生活25年。華やかなファッション業界で商品企画・新規事業・ブランド事業開発に携わり、海外で活躍する日本人キャリアウーマンの先駆けとなった遠藤さん。順風満帆だった日々が轟音と共に崩れ落ちたその日、惨劇の現場近くのレジデンスの住民だった遠藤さんは、18階から黒煙が立ちこめる非常階段を、「ステップ・バイ・ステップ」とかけ声をかけながら、同じく取り残された隣人たちと降りてきた。命からがら逃げ出した彼女が目の当たりにしたのは悲しみを乗越え必死に助け合う人々の姿。私は生かされている。私も何か自分にもできることしなければ、その時遠藤さんの脳裏をよぎったのが、その勇気のため多くの命が犠牲となった消防士たちのことだった。彼らが勤めていた消防署の訪問し夜食の差し入れをしてまわる。感謝されてさらに感謝する、そんな日々が続いた。

もう以前の利益追求型の世界には戻れないと悟った遠藤さんが、魂の休息場所を求め目指したのがタイ、そしてカンボジア。そこで裸電球の下を親子が仲睦まじくジャスミンの花輪を持って近所の寺にお参りに行く姿を見て、この小さな単位を大切にしてあげたいという人間の原点に戻る。「大きな事を言えば世界平和だけど、足下のこの家族。この人たちを大事にしないといけないと思いました」。

テロ事件の被災者の告白ではあるものの、そこには惨たらしさや憎しみはいっさいない。むしろ極限状態でより輝く人間の素晴らしさと、その経験をバネに新たな人生を歩み始めた女性の希望の書である。本書はタイトルを『9.11のジャスミン』とし、朝日クリエより11月4日に一斉発売。

購入はwww.asahi-create.jp, www.amazon.co.jp, www.bk1.jp, www.bookservice.co.jp
また日本全国の La Lumpiniを取り扱っているレージースザンの店でも購入可能。
NYでは紀伊国屋での取り寄せ。あるいはmiekosoumi@aol.comまで個人での申し込みも可能。

日本での価格は1300円+消費税

☆上記の文章はニューヨークで発行されている日本人向け新聞『週刊NY生活』に筆者が寄稿した書評に手を加えたものです。

2008年11月3日月曜日

舞踏でハロウィンパーティの巻






















人生初のハロウィンパーティへ行ってまいりました。もうあまり宗教的な意味合いはなく、単に仮装して騒ぎましょうというお祭りになっているハロウィン。以前にも紹介した「舞踏ショー」で受付のボランティアをすることになったので、無料で潜入。仮装してくるように言われていたのですが、街で売られている衣装があまりに安っぽく異常に露出度が高いので、自前のヒョウ柄のドレスに猫の耳だけをつけて行く事に。一緒に受付をしたSは黒子の衣装なのに、しっかりとメイクをしていて元々の作りがいいので恐ろしいくらいにきれいでした。そして友人のCは事前予告通りブドウの房を表現したコスチュームを、風船を膨らませて自分で作って着てきました。

会場となったのはあまり治安の良くないノースフィラデルフィアの小さな劇場。今時下北沢でもこんなボロい劇場はないだろうというくらい汚い、廃墟のような場所でした。崩れた壁からは鉄骨や配線、そしてアスベストでしょうという様なものまで表出しており、階段の手すりは壊れ、木製の床はギシギシ言い、ハロウィンにはぴったりの不気味さ(笑)。

50人くらいの観客は各々工夫をこらしたコスチュームを身にまとっていましたが、さすがハロウィンの日にわざわざ「舞踏」を見に来るインテリ(?)さんたち。いわゆるワンダーウーマンや白雪姫、今年はやりというサラ・ペイリンといった衣装の人は1人もいませんでした。

受付を済ませてから忍び足で参加した「舞踏」ショー。局部を隠した以外は男女ともに全裸に白塗りの、どこか懐かしい風景。しかし最後に登場した振付家の桂勘(かつらかん)氏以外はみな地元のダンスシアターのダンサーたちで、その形の良い胸やしまった肉体美に目が釘付けになってしまいました。「水俣病」をテーマにしたショーは、公害により汚染された水から発病した魚、それを食べた猫、鶏、カエル、人へと「狂い踊り」が転移して行く様が表現されていきます。

裸なのに皮膚を覆い尽くした白い塗料によって、呼吸が苦しくなるような感覚が与えられます。淡い光で際立つのは瞳と口内の濡れた暗闇。泥臭さと重苦しさ。粘液質的な気持ち悪さ、それにアメリカらしくカラッとしたユーモアも交えて、海外でのワークショップを重ねて「舞踏」の新境地を探る桂氏の創作意欲がよく伝わってきました。

表現者というのは評価がどうだからとか、社会的な価値があるからという外的要因ではなく、取り憑かれるようにその世界に身をねじ込んで行く。その先の光を求めて行く。そういう風にしか生きられない人々なのではないかしら、とふと思いました。私にとって「舞踏」とは、なかなか感性をぴたっと合わせて愛せる表現形態ではないのですが、ただその異質さをそのままに見つめるというのも、ひと時であれば許容可能なのだと気がつきました。

ショーの後、桂勘氏と話すチャンスがありなかなか興味深かったです。私が知りたかったのははじめに「型」ありきなのか、それとも感情の表出としての舞踏で、ある程度は即興性に任せられているのかということだったのですが、その質問を当を得ていたようで喜んでもらえました。彼に寄ると「舞踏」もその二つに大きく分かれていったそうです。創始者の土方巽はあくまで「型」を重視し、型を極めれば自ずとそこに魂が宿ると考え、そうではなく感情の表出を重んじた人々は大野一雄らを中心に違う道を歩んでいったとのこと。

また自ら舞うことを好む人と、演出家・振付師として空間を作り上げる方を好む人に分かれ、桂勘氏はどちらかという振付師としての自分の立場を重視していて、このように世界各国を回ってワークショップによって出会うダンサーたちの、身体的なポテンシャルにインスピレーションを得ているそうです。今回のショーも振付け指導をしたのはたったの4日間。それであれだけの世界観が表現できるなら大したものだと思いました。

京都出身。舞踏グループの白虎社のメンバーから独立し、タイやインドネシアで長年指導をしたあと、こうして世界を回って表現の可能性を求めて旅をしている。
「表現し続けることは大変ですよね」
と聞いたところにっこりと笑って
「いろんな出会いがあるから楽しいですよ。本当はね、今回なんかも暗く重くしないように笑いの部分も随分取り入れたんですが、フィラデルフィアの観客のみなさんはインテリが多いですね。あまり笑わない。アメリカでも州によって反応が違うんですよ」

最近はサミュエル・ベケットに影響を受けた作品を手がけているとのこと。ううん、見たいような見たくないような(笑)。観客が精神的に疲れる内容になっているに違いない。

そしてそのあとは一気にパーティーモードに突入し、安いビールを片手にギシギシ言う床を踏みしめて夜中まで踊ったのでした。

フィリーズ優勝パレード



フィラデルフィア・フィリーズの28年ぶりの優勝に湧くフィラデルフィア。優勝すると思われた日に、同点に追いつかれてた時点でどしゃぶりで中止。もうこれ以上ないくらいにファンのフラストレーションは溜まっていたようです。翌々日に行われた試合の続きでは1点を入れ、追いつかれ、そしてもう1点を返して優勝。そしてフィラデルフィアの街は暴徒と化したファンによって、ちょっと危険な状態に。窓ガラスを割ったり、道路標識を壊したりやりたい放題で逮捕者も続出しました。テレビで中継を見ていると、チームカラーの赤い服を着た人の波で溢れた深夜の目抜き通りは、まるで溶岩が流れているような気味の悪い風景。

そしてハロウィンの10月30日、正午に始まった優勝パレードにはまたまた恐ろしい数の市民が集まりました。学校も一部休みになり、職場に子供を連れてきてからいったん仕事を抜け出して見に行った人も。場所取りのため朝早い時間から集まった人々も多く、始まる前から街は興奮状態に。あまりの人手でパレードの通りに出る事もできないので、近くのビルで仕事をしている友人に頼み入れてもらい上階から見下ろして見てきました。真っ赤に染まった街を見て友人はボソリ「共産国みたい」。

地元フィリーズの優勝、そして11月4日には大統領選挙、あっという間にサンクスギビングデーにクリスマス。そしてどうなるこの金融危機。怒濤のように過ぎて行く日々です。ハレの日はいつまでも続くものではありませんが、でもここフィラデルフィアの狂乱はしばらく収まりそうにありません。